足利市結婚新生活支援補助金
所得合計額が500万円未満で婚姻時の年齢がともに40歳未満の新婚夫婦に、住居取得やリフォーム費、家賃、引越費用の一部を助成します。 補助額:上限30万円(婚姻日において夫婦ともに29歳以下の場合は上限60万円)
所得合計額が500万円未満で婚姻時の年齢がともに40歳未満の新婚夫婦に、住居取得やリフォーム費、家賃、引越費用の一部を助成します。 補助額:上限30万円(婚姻日において夫婦ともに29歳以下の場合は上限60万円)
市内で新たに創業した方を対象に、事業の発展・改善を目的とした専門家相談・広告宣伝・スキルアップ(人材育成)に取り組んだ費用の一部を助成します。
市内で農業(作目の指定あり)を始めたい方が、農業技術や知識を習得するために必要な研修を受ける際 の費用を支援します。
市内で新たに起業する人への融資を実施(独立開業資金)
市内に住民登録を有する者、法人においては市内に本店又は支店、法人登録及び代表者の住民登録を有する条件あり (独立開業資金)
令和5年4月1日以降に足利市へ移住し東京圏へ通勤、又は足利市に住民票を有し同日以降に新たに東京圏へ通勤する方に、対象区間の特急券及びグリーン券の購入費を補助
対象区域内の空き家、空き店舗、空き倉庫などの遊休資産を活用して商業活動を行う個人・団体などに対して、新規出店にかかわる経費を補助します。
妊娠前から小学校までの子育てに関する助成制度や相談・支援事業、検診、子育てサポートなどの情報を発信しています。
※内容未定
名草ふるさと交流館を活動拠点として、田植えや稲刈り、餅つき、しめ縄作りなどの体験ができます。
市内の小中学校では、足利学校で学ばれていた儒学の教科書の一つである「論語」の素読体験を行っています。 「論語」は講師とその弟子の教えが書かれた本で、思いやりの大切さなど、現代社会でも参考となる名言が多く記されています。
市街化区域(西方地域は用途地域)に住宅を新築・購入し、その後本市に住み続けていただける移住者に対する補助
・本市に転入して2年以内の転居者を含む
・令和2年4月~令和5年3月の契約で取得した住宅が対象
小学生全員に英会話教育を実施し、ネイティブの外国人指導員(ALT)などによるティーム・ティーチングで授業を展開しています。なかでも小学校5・6年生では、複数のALT等と協力し、1日5時間を使い英語の活動を中心とした授業を行う「英語チャレンジDAY」を市内全小学校で実施しています。
移住を検討している方へ。まずは移住プログラムで暮らしを体験してみよう!
実際の生活ってどんな感じ?移住した先輩のリアルな声を聞いてみよう!
吉田 夏希(よしだ なつき)さん
苦しい状況の先に見つけた 地方移住という選択肢 コロナ禍という厳しい時期に就職した吉田さん。横浜市の実家から都内に通勤し、化粧品研究開発の仕事に携わっていたが、会社の業績悪化により転職を余儀なくされた。神奈川県内の化粧品研究開発会社に転職したものの、そこでも厳しい現実が待っていた。 「とても忙しい会社で、朝早くから終電近くまで働く毎日でした。所属するグループ内で休職者が出たり、私自身も周りからの当たりが強くなるのを感じたりして、心がすり減っていくようでした。泣きながら仕事することもあって…。不登校になったことはありませんでしたが、会社に行けなくなる日もありました」 そう語る吉田さん。これらの経験から、組織に対する恐怖感を抱くようになっていった。 「このままの状況が続けば、自分を失ってしまいそうで怖かったです」 人生を変えるきっかけは、友人の何気ない一言だった。 「近くにいた友人が『田舎で野菜でも始めようかな』と言っていて。それを聞いた瞬間、『あ、それだ!』と思いました」 もともと旅行が好きで、自然に親しむことが好きだった吉田さん。現状を一新するのにぴったりだと考え、地方への移住を検討し始めた。 移住相談をするため、移住・交流推進機構が運営する移住・交流情報ガーデンへ。移住をしたい、でも会社勤めは怖い…。そんな思いを正直に伝えたところ、紹介されたのが地域おこし協力隊だ。自分でもインターネットで情報を集め、栃木県・静岡県・高知県に候補地を絞った。日本全国の移住相談窓口を抱えるふるさと回帰支援センターでさらに詳しい話を聞き、実際に栃木県那珂川町と静岡県島田市を訪問した。 「那珂川町の、自然が豊かでゆったりとした時間が流れているところに魅力を感じました。初対面の方も、とても温かく包み込んでくれるような雰囲気で…。ゆっくりゆっくりと商店街を車で走るおじいちゃんを見てほっこりしつつ、車の運転が得意ではない自分でも暮らしていけそうだと思えました」 那珂川町の協力隊の募集要項を見て、生活面でも安心できる内容だったことも決め手となった。さらに、幼い頃から大好きだった絵本作家・いわむらかずお先生の美術館があることも、縁を感じる理由のひとつとなった。 「島田市も魅力的でしたが、私が求めていたのは那珂川町のような田舎だと、実際に訪問して気づいたのです。人の優しさ、温かさ、そして思い出の絵本とのつながり…。これらすべてが決め手となり、那珂川町に移住しようと決めました」 心身ともに元気になれた「人間らしい生活」 都会の喧騒から離れ、自然に囲まれた那珂川町での新たな日々が始まった。朝起きれば鳥のさえずりが聞こえ、川の横を歩けばせせらぎが耳に届く。 「景色の移り変わりが肌で感じられて、常に自然と一体になっているような感覚です。ずっと旅行をしているような、毎日が新鮮で特別な時間です」 地域の人々との交流も、吉田さんの生活に彩りを添えている。 「ご高齢の方が多くて、まるで孫のように可愛がってくれます。お米ができたからと呼ばれて行くと、次々とおかずが出てきて…。ドラマのワンシーンのような光景が現実になって驚きました。人とすれ違えば必ず挨拶を交わしますし、本当に人の温かさを感じるまちです」 地元の野菜や温泉も、暮らしを豊かにしてくれる魅力のひとつだ。 「野菜が驚くほど新鮮で美味しくて。温泉は500円程度で入れます。日常的に温泉を楽しめるなんて贅沢ですよね。興味を持って、昨年、温泉ソムリエの資格も取得しました」 那珂川町の馬頭温泉郷は「美人の湯」として知られ、温泉から見える美しい夕日から「夕焼け温泉郷」の愛称も持つ。 都会的な横浜市からの移住ということもあり、不便さを心配していた吉田さんだが、そんな不安は杞憂に終わった。 「確かに那珂川町に大型ショッピングモールはありませんが、宇都宮駅周辺や那須のアウトレットにも1時間程度で行けます。むしろ今は、消費に縛られない自由な生活ができるようになりました。『ないものは作る』という地元の方の考え方にも刺激を受けています」 自然とともに生きて、旬の味覚を楽しみ、人とつながる。那珂川町での暮らしは、吉田さんが求めていた「人間らしい生活」そのものだった。 「移住前は精神的に辛い状況でしたが、移住当時を知る周りの人からも『元気になったね』と言われます」 2023年4月の移住から約1年半。移住前、苦しい状況の中で自分を見失いそうだった吉田さんの表情は、今、生き生きと輝いている。 気づけば、自然とやるべきことが明確に 吉田さんの地域おこし協力隊としての主な活動は、那珂川町観光協会のサポートだ。物販に同行したり、ツアーに参加したりしながら、那珂川町の魅力を発信している。 「言いづらいのですが…『まちおこしに取り組みたい!』と思って協力隊を志望したわけではなかったので、はじめは何をすればいいのだろう、特別なスキルのない自分に何ができるのだろうと悩みました。でも、観光協会から指示をいただいた内容に取り組んだり、まちの方と触れ合ったりするうちに、那珂川町の良さを伝えたいという気持ちが芽生えてきました」 関東随一の清流・那珂川と緑あふれる里山、四季の恵みがもたらす豊かな食、日常に溶け込む温泉、多数の美術館や史跡…。移住してきたからこそ、そして、協力隊として活動しているからこそ分かる那珂川町の魅力がたくさんある。そんな良さをまちの中からじんわりと広げていきたいと吉田さんは考えている。 昨年には温泉ソムリエの資格を取得し、温泉を通じてまちの魅力を伝える活動を始めた。また、味噌づくり教室など、まちの人と外の人をつなぐイベントも企画している。 「地域柄、謙虚な方が多いのか、『那珂川町のいいところはそんなにないよね』という方が多いんです。まずは地元の方に那珂川町の良さを知ってもらい、そこから口コミで広がればいいなと思っています」 そう語る吉田さんは、那珂川町の「人の良さ」をアピールすることに力を入れている。 「私が一番アピールしたいのは『人の良さ』。那珂川町を知ってもらって、好きになってもらって、訪れた人にとって、どこかほっとできる『心のふるさと』になってほしいですね」 協力隊の活動を通じて、地元の人々との深いつながりも生まれた。 「日常的にメールをくれたり、ランチに誘ってくれたり。何か活動を始めるとなったら、アドバイスをくれたり。本当の孫のように可愛がってもらっています。そんな皆さんと関わるうちに、このまちのために何かしたいという気持ちが強くなってきました」 自分は何がしたいのだろう。自分に一体何ができるのだろう。 自分の進むべき道が見えずにいた吉田さんだったが、協力隊として那珂川町に入り、まちの方の温かさに触れるうちに、徐々に自分の役割が見えてきた。 那珂川町の観光や地域活性化に貢献しながら、吉田さん自身も成長を続けている。 いろんな生き方があっていいのだと示したい 地域おこし協力隊として活動する中で、吉田さんの今後の活動目標が明確になってきた。 「都会から移住してきた自分だからこそ分かる那珂川町の良さがあると思っています。私ならではの視点やアプローチで、那珂川町をPRしていきたいです」 そう語る吉田さんには、強い決意が感じられた。 「泣きながら仕事をするほど気持ちが落ち込んでいる状態で那珂川町に移住してきて、しかも、積極的にまちおこしに取り組みたいと思って地域おこし協力隊になったわけでもありません。でも、今こうして、今後の目標を自ら立てて前向きに取り組めるほどに成長できました。まちの方々との触れ合いを通じて、まちおこしにも情熱を感じるようになりました」 吉田さんは、協力隊の任期終了後も、那珂川町に残ることを決めている。起業も視野に入れているそうだ。 「那珂川町で培った人とのつながりを活かして、都会で働く方が癒しを感じられるようなツアーを企画したいと考えています。まちの方の温かさに触れて、那珂川町を『心のふるさと』として感じてもらえるような、そんなツアーです」 この構想を地元の人に話すと、「いいね」「協力するよ」と言ってもらえるそうだ。 そう、いつだって温かく支えてくれる人がいる。 自分には特別なスキルがない…。自分にできることはあるのか…。移住当初、そう悩んでいた吉田さんが起業を目指すようになったのは、大きな気持ちの変化だった。 起業する周囲の協力隊や自営業のまちの方と接するうちに、自然と起業に対する考え方が変わっていったという。 「私のように、まちおこしが入口でなくても、苦しい状況からスタートしても、協力隊として活動しているうちに目標を見つけることもあります。そういった生き方があってもいいのだと思います。そんな道筋を示すことで、私と同じように悩んでいる人たちの選択肢が広がるとうれしいです」 吉田さんの言葉には、那珂川町への愛と、今後への期待で満ち溢れていた。 これからの活動が、さらに那珂川町を、そして吉田さん自身を輝かせていくことだろう。
高塚 桂太(こうつか けいた)さん
世界を見た末に選んだ、人口1万人のまち バックパッカーとして世界中を旅し、フィリピンへの1年間の交換留学を経験するなど、大学在学中、精力的に活動していた高塚さん。外務省管轄の独立行政法人に内定し、卒業後はタイで日本語教育の普及に携わる予定だった。 そんな矢先、世界中を新型コロナウイルスのパンデミックが襲う。国内待機が言い渡された高塚さんは、卒業後、東京のゲストハウスで働きながら渡航を待つことに。だが、一向に目途が立たない……。先の見えない日々の中で、高塚さんは自身のキャリアを見つめ直した。 「これからどうしていきたいのか、何をしたいのか。考えた末に、地元である塩谷町に戻ろうと決意しました」 内定を辞退し、Uターンを決めた高塚さん。その背中を押したのは、地元の幼馴染や応援してくれる地域の大人たちだった。 「大学時代からローカルスタートアップに興味があって、地域への感度は高かったんです。幼馴染たちと『何か面白いことができないか』と話し合い、イベントを企画したり地元の人たちとつながったりできるようなコミュニティスペースをつくろうというアイデアが生まれました」 栃木県塩谷町。人口約1万人の、県内でもっとも人口の少ない小さなまちだ。世界を見てきた高塚さんが、このまちを選んだ理由とは。 「この規模感だからこそ、できることがたくさんあると思いました。自分が表現したいこと、やりたいことが実現できる場所だと」 小さなまちだからこそ、自分たちの手でゼロから何かを生み出せる。その可能性に魅力を感じた高塚さんは、新たな挑戦への第一歩を踏み出した。 サウナから始まる、まちづくりの物語 Uターン後、高塚さんは早速、コミュニティスペースづくりに取り組み始めた。しかし、右も左もさっぱり分からない。それでも、夢やビジョンを伝え続けることは忘れなかった。 「ある日、コミュニティスペースづくりの進め方について地元の事業者さんに相談すると、『資材やお金は全部用意するから、君は仲間だけ集めてくればいい。任せなさい』と言ってもらえて。その後も、私のビジョンに共感する方が集まり、気づけば100名近い方が関わってくださいました」 こうして誕生したのが、コミュニティスペース「Step One」だ。ここを拠点に、高塚さんたちの活動は大きく広がっていく。 「塩谷町を面白くするための『地域会議』を開いたり、『朝サウナ』を実施したり。朝サウナはまさに裸の付き合い。朝6時に河原に集合して、サウナでまちの未来について語り合うんです」 朝サウナには、地元の若者のほか、役場の課長クラスの方たちも集まった。ここから生まれたアイデアは、次々と実現していく。 「町営キャンプ場を貸し切ってサウナフェスを開催したり、さまざまなプロジェクトが生まれました。サウナで語った想いに共感してくれた人たちが、今は当法人の役員になって日々の業務を支えてくれています」 高塚さんは、自分の想いや迷いすらも正直に伝えることで、周囲の支援を得てきた。 「分からないことや困っていることは、言葉にして伝えるように心がけています。ビジョンは描いているけれど、そこに至る道が見えない。そう正直に伝えると、多くの方が助けてくれます」 高塚さんの熱い想いが大きなうねりとなり、小さな塩谷町でのまちづくりが動き出していった。 設立間もなく、塩谷町の地域活性化を担う存在に コミュニティスペース「Step One」で実績を重ねた高塚さんは、2023年4月にまちづくり会社「ローカルキャンバス」を設立した。主な事業は、塩谷町役場からの地域活性化に関する受託業務だ。地域おこし協力隊の伴走支援や関係人口の創出、高校生の地域定着促進に関する事業などを展開している。 「『朝サウナ』で築いた人間関係が、今の事業にもつながっています。振り返ってみても、ビジョンを伝え続けることの大切さを実感しますね」 高塚さんの学びへの姿勢は貪欲だ。全国各地の地域創生の現場を巡り、さまざまな事例やノウハウを吸収してきた。 「イベントの収益を握りしめて、多くの市町村を訪れました。現地のトッププレーヤーに会って話を聞いたり、人脈を広げたりという経験が今の仕事の糧になっています」 ビジョンの発信、積み重ねた実績、そして現場で得た確かな知識。これらが、ローカルキャンバス設立からわずか1年足らずで、想いを形にする原動力となっている。 高塚さんが現在、特に注力しているのが地域おこし協力隊の伴走支援だ。 「『チャレンジできるまちづくり』が、私たちローカルキャンバスの使命です。新しいことを始めるには、時に苦しくとも走り続けなければならないこともあります。そんな時もともに走り続け、安心して挑戦できる環境を整えることで、新たな取り組みを促進していきたいと考えています」 ローカルキャンバスは、高校生向けの郷土愛育成プログラムにも取り組む。 「子どもたちが普段関わるのは、たいてい親か学校の中の人だけですよね。でも、地域には魅力的な大人や、自分の想いを表現している事業者さんがたくさんいます。そういう方たちとの出会いの場を設けることで、子どもたちの視野を広げていきたいです。子どもは大人の背中を見て育つものだと思っているので、地域の大人たちがワクワクしながら仕事をしている姿を見て欲しいですね」 高塚さんの活動は、塩谷町に新しい風を送り込んでいる。挑戦する人を増やし、地域全体で新たな取り組みを推進する。そんな高塚さんの想いが、確実に実現化しつつある。 小さなまちで見つけた大きな可能性 Uターンした高塚さんにとって、塩谷町の見え方はどのように変化したのだろう。 「子どもの頃は正直、『何もない』と感じていました。でも大人になった今は『余白がある』と捉え直せています」 この「余白」こそが、クリエイティブな活動の源泉になっているという。東京では常にサービスを受ける側だったが、ないものが多い塩谷町では、自分たちで作り出す必要がある。そこに楽しさがある。人口約1万人の小さなまちに、高塚さんは無限の可能性を見い出している。 「完成されていないからこそ、自分が関わる余地があります。それが塩谷町の最大の魅力だと思います」 人とのつながりも、塩谷町ならではの魅力だという。 「顔を合わせれば自然と挨拶ができたり、突然焚き火の誘いが来たり(笑)人との温かいつながりが豊かな暮らしを形成しています」 さまざまな年齢層の方と交流できることも、大きな特徴だ。 「都会ではどうしても同世代の人たちだけと関わりがちですが、私が塩谷町で日々関わるのは、小学生に30代のママ、40代のイケオジ、60代の人生の大先輩と、本当に幅広い年齢層の方たちです。多様なコミュニティとのつながりが、自己表現の幅を広げてくれています」 都会と比較すると塩谷町には「完成されたもの」は少ないかもしれない。しかし、何でも「創り出せる環境」がある。自分で何かを生み出したい、新しいことに挑戦したい人には最適な環境だといえるだろう。 塩谷町を「チャレンジできるまち」へ 今や塩谷町の未来をリードする高塚さん。Uターンして良かったと感じる点を尋ねると、即座に答えが返ってきた。 「大切な仲間ができたことですね。切磋琢磨しながらともにプロジェクトを進める仲間、わいわいとプライベートを楽しめる仲間、辛い時に支えてくれる仲間……。仲間と過ごす一瞬一瞬がとても楽しくて温かくて、彼らとの出会いは私にとってかけがえのない財産になっています」 素晴らしい仲間に囲まれる高塚さんが思う、仲間づくりの秘訣は、弱みをさらけ出すことだという。ビジョンを発信することはもちろん大切だが、かっこつけず、ありのままの自分を表現することで、頼れる仲間ができる。 塩谷町を舞台に、挑戦を続ける高塚さんの今後の抱負は―。 「塩谷町をチャレンジできるまちにすることです。地域おこし協力隊や移住者など、新しいことを始めようとしている方たちの背中を押し、支援していきたいです。塩谷町には、温かさがある一方で田舎ならではの厳しさもあります。困難に直面しても、何としてでも前に進む。その覚悟を持って、地域と共に成長していきたいですね」 最後に、塩谷町の可能性について語ってくれた。 「塩谷町は栃木県で一番人口の少ないまちです。小さなまちだからこそ、アイデア次第でどうにでもできる。支えてくれる仲間もたくさんいる。塩谷町は表現の場として最高の環境です。この環境を活かして、塩谷町をもっと面白いまちにしていきたいです」 高塚さんの挑戦はまだ始まったばかり。情熱と行動力で塩谷町に新たな風を吹き込む彼の描く未来図が、この小さなまちをどう変えていくのか。高塚さんの活動とともに、塩谷町の変化にも注目が集まりそうだ。
五十嵐 洋子(いがらし ようこ)さん
まるでヨーロッパのような、 ゆったりとした暮らし 義理のご両親の健康をサポートするため、野木町に移住した五十嵐さん。父親の仕事の関係で、子どもの頃から国内外さまざまな土地で生活してきたため、野木町は実に11ヶ所目の住まいだった。アメリカやスイスで暮らした経験もあるという五十嵐さんにとって、野木町はどのようなまちなのだろうか。 「東京からほんの1時間ちょっとですが、ストレスフリーでのびのびと暮らせています。まるでヨーロッパのようなゆったりとした暮らしが送れるので、移住した当初はとても驚きましたね」 自然に囲まれ、交通量も多くないので、空気が美味しい。20時には静かな世界が広がり、睡眠がよく取れる。 春はキジ、夏はカエルの鳴き声が心地よく、冬は窓を空けると目の前にオリオン座がきらめく。自然から直接四季を感じられるようになった。 「最初はキジの鳴き声が何の鳴き声か分からなくて。でも、ある日散歩していたら林から出てきて鳴いているキジに出会ったんです...!この辺りは野生のキジがよくいるんだよ、と地元の方が教えてくれました」 自然豊かなまちではあるが、利便性にも優れている。野木町は栃木県最南端に位置するため、東京へのアクセスがいい。交通網が整備され、渋滞もないため、県内各地へも気軽に遊びに行ける。 「日光へも車で1時間半ほどの距離ですよ。栃木県はエリアごとに多彩な地域性があるので、週末にいろいろな場所に出かけるのが楽しみになっています。野木町は県内外問わずアクセスしやすいので、田舎のよさと利便性のバランスが取れたまちだと思います」 野木町での暮らしに導かれ、 30代半ばで美大へ アートに興味があった五十嵐さんは、野木町への移住前に住んでいた東京で、アートマネジメント(芸術と社会をつなぐための取り組み)に携わっていた。移住後も、アートに関わりを持ちたい、と東京の豊島区にあるNPOで非常勤スタッフとして働き始めた。 「東京にアクセスしやすい野木町だからこそ、選択肢があり、通い続けることができました」 NPOで働くうちに、自分でも創作活動を始めたいという想いが強くなっていった。 野木町には豊かな自然がある。それを吸収して発信できる人になれたら、どんなに面白いことか―。 「NPOではアーティストと社会をつなぐコーディネーターの仕事をしていたのですが、自分自身が野木町で創作活動をするためには、コーディネーターだけでは知識やスキルが足りないと感じました」 そこで五十嵐さんは、働きながら学ぶことのできる通信教育部のある美術大学に進学することを決意する。30代半ばでの大きな決断だった。 「年齢的にまだ体力もあるし、40歳までに卒業できるように頑張ろうと思って入学を決意しました。熱意のある方と友だちになれたり、自分の得意分野に気づけたり、進学して本当によかったです」 大学では空間演出デザインを学んだ。空間と一口にいっても、建物やショーウインドーだけではない。「地域」も空間のひとつである。五十嵐さんは「地域という空間」のデザインに特に興味を持ち、学びを深めていった。 「地域の方にとっては当たり前のことや見過ごしていることを、デザインを通じて見せ方を変えることで、その魅力に気づかせる。そんな活動をしていきたいと考えるようになりました」 大学で学びを得た五十嵐さんは、いよいよ野木町での創作活動を始めることになる。 地元食材を活かした スープ作りとジャム作り 美大を卒業して、まず始めたのが野菜を育ててスープを作る「スープ活動」だ。野木町は野菜が新鮮で美味しい。さらに、五十嵐さんは食べることが好きで、自分の料理を人に楽しんでもらうことも好きだった。野木町のとびきり美味しい野菜と自ら栽培したハーブや西洋野菜を活かして、家庭ではなかなか作れないような世界各国のスープを作り、ゆったりとランチタイムを楽しんでもらう。そうして野木町の魅力を発信し、伝えられたらと考えた。 「スープ作りのこだわりは、野菜そのものの美味しさを引き立てるように調理することです。野木町の野菜は素材自体が美味しいので、調味料をたくさん加える必要がないのです。スープ活動では、幼少期を過ごしたヨーロッパで食べたような『自分がときめく料理』を作りたい、提供したい、と考えています」 本格的な洋食や多国籍料理など、野木町では普段食べられない絶品スープ。「美味しい!」「ほかでは食べられないものが楽しめる!」と、知り合いからその知り合いへと口コミが着実に広がっていった。 旬には野菜がたくさん収穫できる。ただし、長期保存ができないことが多い。それは果物も同様だ。少しキズが付いていたり、形がいびつだったりするだけで市場に出回らなかったり、廃棄されてしまうこともある。 保存食を始めたい、五十嵐さんがそう思ったのは自然な流れだった。当時はコロナ禍で、何かワクワクできることを始めたいという想いもあった。玉ねぎや赤ねぎのスープペースト(スープの素)にはじまり、ジャム作りへ。五十嵐さんの活動がさらなる広がりを見せるきっかけとなる、ジャム作りが本格的に始まるのであった。 ジャム作りを通して 想いがつながる、広がる 自宅のキッチンをリフォームし、いざジャムの試作へ。だが、一人でジャム作りをすることの難しさ、限界を痛感した。そんな時、ジャム作りが得意なご近所さんに手伝っていただけることに。さらに、その方からイチゴやプラム、梨などさまざまな果物を栽培する農家さんを紹介していただいた。 「美味しい果物を作るために、農家さんは毎日たくさん摘果するんですね。味は本当に美味しいのですが、もらい手がいないと廃棄されることもあるそうです。あまりにもったいないので分けていただけるようにお願いしたところ、安く譲っていただけることになりました。『無駄になるものがなくなってよかった』と、農家さんにも喜んでいただけたので嬉しかったです」 イチゴ、キウイ、プラム、ブルーベリー、梨……。多くの方とのご縁がつながって、一年を通じて野木町の旬を味わえるジャムを作れるようになった。つながりは、農家さんだけでなく、販売する方へも広がり始めた。 「こだわりの食材を扱う栃木市のお店の方が、ジャムをお店に置きたいと言ってくださって。そのお店で入荷するレモンを栽培している農家さんからも、『うちのレモンでジャムを作ってほしい』とオファーをいただきました。野木町の魅力を発信したいという想いに賛同してくださった皆さんのご協力を得て、私は活動できています。スープ活動とジャム作りが、今、本当に楽しいです」 手作りのジャムは、「61+(スワソンテアン)」の名義で販売している。スワソンテアン(Soixante et un)は、フランス語で「61」。五十嵐さんの名前に含まれる「50」に、これまで住んだ土地の数「11」を足したものだ。そこからさらに何かが生まれることを願って、「61」に「+」をつけている。 このジャムは、2022年に野木町ならではの魅力が詰まった「野木ブランド」に認定され、同時期に野木町のふるさと納税の返礼品にも選ばれた。 「地元の方にも『すごいね』とたくさん声をかけていただき、嬉しかったです。認めていただくことが、いいものをきちんと作り続けようという励みになっています」 野木町の人の親切で温かい応援に支えられ、五十嵐さんの活動はじんわりと、着実に広がっている。 野木町の魅力を よりたくさんの方へ届けたい ジャム作りを始めて3年が経過した。嬉しいことに、ジャムを楽しみに待ってくれているリピーターの方もできた。 「より多くの方に知っていただいて、私のジャムが野木町のブランド力の一端を担えるようになっていけたらいいなと思っています。スープ活動も続けていきますよ。野菜を育てて美味しい料理にすることの楽しさ、そして、野木町の魅力を最大限に伝えていきたいです」 最後に、五十嵐さんが考える野木町の魅力とは。 「野木町には、本当に穏やかで親切な方が多いです。皆さんのおかげで、活動を続けてこられました。温かい方々に囲まれて、ゆったりとした暮らしを送っています。移住して本当によかったです」 野木町で過ごす時間は、近場で小旅行気分が味わえる、と東京の友人にも大好評だそうだ。友人やそのご家族にも、野木町のファンが増えてきている。 「これまで東京で暮らす期間が長かったのですが、思い返せば今のような暮らしに前から憧れがあったのだと思います。東京で暮らしていた時、田舎で素敵な暮らしを送る方の本を時々読んでいたことを、ふと思い出しました。野木町で、自分がかつて憧れていたライフスタイルを実現できています」 東京のような都会的な娯楽は、野木町にはない。ただ、豊かな自然がある野木町では、暮らしを彩る楽しみを創り出すことはできる。五十嵐さんがそうだったように、一歩踏み出せば、支えてくれる人たちもいる。 さまざまな土地での暮らし、みずから得てきた学び、温かい人とのつながり―。これまでに積み重ねたものすべてを力に、自分にしかできないカタチで、五十嵐さんはこれからも野木町での暮らしを紡いでいく。
武田 真悠香(たけだ まゆか)さん
自然と「住みたいな」と思っていた 京都府出身で、千葉県内の大学に進学した武田さん。 一見、栃木県とはなんの縁もなさそうな武田さんが那須烏山市に移住することになったのは、大学在学中に始めた長期アルバイトがきっかけだった。 那須烏山市にある、龍門の滝。高さ約20m、幅約65mの大滝で、滝の上を走るJR烏山線の列車と四季折々の絶景の共演が楽しめる人気スポットだ。 龍門の滝のすぐそばにある「龍門ふるさと民芸館」に勤める知人から誘いがあり、当時大学生だった武田さんは、龍門ふるさと民芸館内にある「龍門カフェ」のアルバイトとして働き始めた。 繁忙期に1〜2週間程度、住み込みで働く長期アルバイト。 知人がいたとはいうものの、実際に那須烏山市を訪れたのは、このときが初めてだった。 初めての土地で住み込みバイトを始める武田さんには行動力を感じられずにはいられないが、 何より驚いたのは、2、3回のアルバイトののち、既に那須烏山市への移住を考え始めていたことだ。 「最初のアルバイトのときから、地域の方にとてもよくしていただいて、『すごくあたたかくて、いい地域だな』と思っていたんです。 そんななかで、2、3回目の長期アルバイトに来たときに『那須烏山市で地域おこし協力隊を募集しているから応募してみない?』と声を掛けていただいて、あっという間に移住を決めていました」 移住へと武田さんの背中を押した、地域の方のあたたかさに触れたエピソードがふたつある。 まずひとつめ。 年季の入った中古車で、千葉県から那須烏山市まで片道3時間半の道のりを通っていた武田さん。 トラブルが起きたのは、長期アルバイトの最終日のことだった。ガタが来たのか、車が動かなくなってしまったのだ。 すでに夜の18時。アルバイト先の方も帰宅していたため、観光協会の職員さんに電話をしたところ、「私から地元の電気屋さんに電話してみるよ」という心強い言葉が。 5分ほどで電気屋さんが駆けつけてくれて、無事直してもらうことができた。 「都会だったら、『自分でなんとかしなさい』とか『車屋さんにもっていきなさい』とか言われてもおかしくないじゃないですか。 そんななかで、見ず知らずの私のためにすぐに駆けつけて、親切に助けてくれて、あたたかいなぁと感じました」 ふたつめ。 千葉県で一人暮らしをして、さらにそこから那須烏山市で住み込みバイト。 心細い気持ちもあったが、アルバイト先の方の心配りに救われた。 「どこに泊まっているの?」「ご飯はちゃんと食べられているの?」やさしい言葉の数々に、安心できる「第三のふるさと」が栃木県にできたような気持ちだった。 アルバイトで訪れるまで、那須烏山市はまったく知らない土地だったが、心あたたまる地元の方との触れ合いにも背中を押され、「飛び込んでみるか!」そう心に決めていた。 夢を実現するため、地域おこし協力隊へ 元々、いろんな場所に出かけたり、新しいコミュニティに参加したりすることが好きだった武田さん。 新しい出会いを求めて、企業のセミナーやインターンシップにも積極的に参加してきた。 そんな経験や行動力が、今まさに発揮されている。 大学時代からWeb制作に興味を持ち始めたという武田さんには、将来、Web業界で独立したいという目標がある。 その目標への道筋として武田さんが選んだのが「地域おこし協力隊」だった。 地域おこし協力隊としてシティプロモーションに携わりながら、地域資源を活かしたWeb制作にも取り組める。 やりたいことに近づくため、地域おこし協力隊が最適な選択肢だったのだ。 目標が明確だったので、就職活動も行わなかった。 大学3年生にもなれば、皆が足並みを揃えて就職活動を始める。 何がやりたいのか、何のためにやるのか、それすらも分からないまま、なんとなく右にならえで始めてしまうこともあるだろう。 就職だけが選択肢じゃないんだよ、と武田さんの生き方が改めて教えてくれた。 独立という目標に向けて、武田さんの準備は着々と進んでいる。 まずは、Webデザイン。大学の専攻は経営学だったので、デザインは独学で身につけてきた。 インターンで、アプリ開発に携わっていた経験も活かされている。 今では、担当するシティプロモーション業務以外でも、チラシ制作の依頼などをいただくことがあるそうだ。 デザインだけで終わらせず、その先の見てくれる人のことを考えて、どういうお手伝いができるか、それを真剣に考えながら制作に励んでいる。 武田さんが制作したWebサイトの一例 烏山線 100th https://karasen-100th.studio.site メグロの聖地・那須烏山プロジェクト https://meguro-nasukarasuyama.com/ 地域おこし協力隊の業務は週4日。 昨年からはデジタルマーケティング企業で週2日働きながら、ITマーケティングの勉強も始めた。きっかけは、栃木県庁が開催していたセミナー。講師を務めていた社長にWeb制作に携わっているという話をしたら、「アルバイトとして働かないか」と声を掛けてもらった。 自然と人を引きつける、武田さんの愛嬌や行動力は、地域おこし協力隊として存分に発揮されている。 「できたらいいな」が、まちぐるみの活動へ 地域おこし協力隊としての活動は、シティプロモーションやWeb制作、SNS運用、チラシデザイン、地域イベント企画、関係人口創出にかかる企画まで多岐にわたる。 「移住定住シティプロモーション」というテーマで活動していた際、同世代の地域おこし協力隊メンバーと「那須烏山市に新しい動きを生み出したいね」という話になった。自分たちのやりたいことにチャレンジしながら、那須烏山市のためになるようなことを企画しよう、そう話が進んでいった。 その結果、企画・実施されたのが「真夏の地域留学」という2泊3日の学生インターンプログラムだ。 那須烏山市の魅力を体感してもらうには何ができるか、それぞれが真剣に考えてイベントを企画し、形にしていった。 「真夏の地域留学」のプログラム例 プログラムテーマ:ひ・み・つアートプロジェクト 首都圏の大学生が那須烏山市街地の飲食店を取材し、それぞれの店舗の魅力を紹介するポスター(ひ・み・つアート)を作成。 プログラムテーマ:メグロの聖地 那須烏山 かつて那須烏山市で製造され、かつて東京オリンピックの白バイにも使われた日本最古のバイクメーカー「メグロ」の魅力を伝えるワークショップを実施。 「真夏の地域留学」のほかにも、さまざまなイベントを実施している。 武田さんをはじめ、栃木県内の地域おこし協力隊によって設立された「協力隊NET」のメンバーが中心となって運営した、なかがわ水遊園でのマルシェには、想定を大きく上回る4,000人以上が来場し、大盛況のイベントとなった。 「地域のためになるような、マルシェができたらいいね」同じく県内の地域おこし協力隊と何気なく話していた一言が、来場者4,000人を超える大きなイベントの実現へとつながった。 地域おこし協力隊の活動を通して、地域の方と触れ合う機会も多い。 まちを歩いていると「武田さん、元気?」と声を掛けてもらったり、孫のように可愛がってもらったり。目上の方にお酒を誘っていただけることもある。 インタビューの取材時点で、着任からまだ1年10ヶ月。短期間で驚くほどの、まちへの溶け込みっぷりだった。 「私は、色々なイベントや場所に出て、人と交流することが好きなんです。 地域おこし協力隊として活動していると、夢をもっている方や地域のことが好きな方とご一緒することが多いので、すごく楽しいんですよね」 はにかみながら、キラキラとした目で話す武田さんが印象的だった。 謙虚さをもちながら、内なる情熱を秘めた人。愛嬌があって、周りを自然と取り込む人。 自ら、運や縁を引き込んでいる人なんだろうな、と直感的に理解した。 大好きなまちの魅力を、自分の手で広めたい 地域おこし協力隊になって、もうすぐ2年。すでに多くの経験を積んでいる。 「未熟なところも多いなかで、すごくあたたかく迎えていただき、いろんなことにチャレンジする機会をいただいています。 新卒で就職すると、まずはコツコツと事務的な仕事から始めている友人も多いです。 そんななかで、私は、既に大きなプロジェクトの企画や運営などに携わらせていただいているので、那須烏山市に来て、地域おこし協力隊になって、本当によかったなと思っています」 地域おこし協力隊の任期満了後の展望は…? 「ご縁をいただいた那須烏山市の土地と、つながりをもちながら暮らしていけたらと考えています。 旅行が好きなので、那須烏山市に拠点をもちながら、二拠点生活を送るのも魅力的ですね。将来的には『第二のふるさと』のような場所になればと思います。大切な仲間を連れて帰ってこられる場所にしていきたいです。」 まったく知らないところから、那須烏山市に来て2年と経たないなかで定住を決めるほど、惹きつけられるものは何なのか? 「京都市内に住んでいたこともあるので、都会の便利さも分かります。でも、那須烏山市にはそれとはまったく異なる、素朴なよさがあるんですよね。仕事終わりに見る家の前の田園風景など、ほっとする瞬間が一日に何度もあります。実家のある京都に帰ると、帰省しているはずなのに、なぜか『帰りたいな』と思っている自分がいるんです(笑)」 任期満了後は、那須烏山市に拠点を置きながら、Web制作を通じたプロモーションなど、地域のためになるような取り組みを、独立した自分の手でできるようになっていきたいと思っている。 独学や副業でのスキルアップや地域おこし協力隊としての実務……目標に向けての地盤づくりは着々と進行中だ。 「地域の方のお役に立ながらチャレンジできる機会がたくさんあるのが、地域おこし協力隊です。 就職とは異なる魅力があります。自分を試せる機会でもあるので、興味がある方は、ぜひチャレンジしてみていただきたいです。」 「那須烏山市には、画面だけでは伝わらない、足を運ばないと分からないよさがあります。 メグロの聖地だったり、難攻不落といわれた山城・烏山城の城址があったり、城下町のレトロな街並みが残っていたり……。 那須烏山市は、コアな人ならどっぷりはまるニッチな魅力のあるまちです。 興味をもっていただけたら、実際に生活している方の声を聞いたり、まちの風景を見たりしながら、那須烏山市のことを知ってほしいです。 私でよければご案内しますので、ぜひご連絡ください!」
齋藤 剛(さいとう ごう)さん
自由を求めて宇都宮へ、そして芳賀町へ 青森県出身の齋藤さん。東京の大学に進学して建築を専攻し、卒業後は大手ハウスメーカーに就職した。 転機が訪れたのは、社会人4、5年目になった頃だった。一級建築士の資格を取得した大学の同期から「一緒に会社をやらないか」と誘われたのだ。 「似たような建物ばかりを建て続けている」 ハウスメーカーでの仕事におもしろみを見出せなくなっていた齋藤さんは、思い切って話に乗ることに決めた。 「『一緒にやらないか』って言われたとき、自由になれる!ってワクワクしたんですよ。 でも、当時の上司からは『自由が一番不自由なんだぞ』って言われて……。 余計辞めたくなりましたね(笑)その言葉が間違っていることを証明してやるんだ!という気持ちが湧きあがりました」 自由を得るため、事業の立ち上げへ。このとき、新たな舞台として宇都宮市へ移住した。 ただ、事業を始めたはいいものの、同期とはいえ、考え方が違う。数年後には立ち上げた会社から抜けることに決め、同時に新居探しを始めた。 当時はバブルの真っただ中。宇都宮市の中心部は高すぎる。予算にあった土地を探すなかで、利便性のよさに魅力を感じ、芳賀町の土地を購入することに決めた。 東京へのアクセスがよいこと、約30年前としては珍しく中学生までの医療費が無料だったことも、芳賀町を選ぶポイントになったそうだ。 確かに、東京へのアクセスがよいと、お子さんの進学先の選択肢が多く、お子さんが東京で一人暮らしをするとなっても顔が見える距離感で安心だ。 「私が青森県出身で、妻は山口県出身。帰省するために新幹線を使うので、できるだけ新幹線駅に近い環境で、という考えはありました。 今住んでいる土地は、芳賀町のなかでも宇都宮市との境に位置する場所で、便利なんですよ。 2023年にはLRT(次世代型路面電車システム)の駅も近くにできて。今の住まいの立地をとても気に入っています」 芳賀町に新居を構えた齋藤さん。 同期との事業を抜けた後は苦難の連続だったが、9社ほどを経て、現在、代表を務めるケーエムハウスの立ち上げに至った。 芳賀町を拠点に愉しむ、趣味中心の暮らし 齋藤さんの趣味はアウトドア。芳賀町を選んだポイントに、実はアウトドアも深く関わっていた。 趣味である釣り、自転車、キャンプ、これらを楽しめる土地を前提に、土地を探していたのだ。 一つ目の趣味は、釣り。青森県にいるときから続く趣味だ。 木片を削って塗装して……釣ることはもちろん、自分でルアーをつくることにものめり込んだ。 二つ目は自転車。インタビュー中にも、齋藤さんの後ろには、いかにも本格的な自転車が。 「これ、自分でつくったんですよ。部品をそれぞれ買って、組み立ててね」 背後に見える自転車に話が及ぶと、齋藤さんが笑顔で教えてくれた。 実は栃木県は、サイクリングに適した土地なのだ。 北部から西部にかけては那須連山・日光連山、東部には八溝山地が並び、中央部から南部にかけては関東平野に開けているため、変化に富んだ魅力的なサイクリングルートが各地に存在する。 小さいお子さんと家族で楽しめる安全なコースから、プロ級の本格ライドに挑戦できる大会コースまで、多様な楽しみ方ができるのだ。 「自宅から小山市まで、鬼怒川のサイクリングロードを通って、一筆書きで100kmくらい。 4、5時間くらいはかかるんですが、毎週走りに行っている時期がありましたね。 『自転車を買ってくれたら一緒に行くよ』と妻が言ってくれたので、妻と一緒に行くこともありました」 夫婦で共通の趣味を楽しめるなんて素敵だ。 三つ目はキャンプ。 「60歳を超えていますが、キャンプにも行きますよ。 昨年のゴールデンウィークは、30歳になる息子と2人でキャンプに行きました。スパイスから、2時間かけてカレーをつくってくれて。美味しかったですよ」 焚火を前に、お酒を酌み交わしながら、親子でゆったりと語り合う……。お話から、理想的な親子関係がうかがい知れた。 自然豊かな栃木県には、キャンプ場も多い。 温泉でゆったり疲れを癒せるキャンプ場(栃木県は関東有数の温泉大国!)、森の緑と木漏れ日が心地いいキャンプ場、川のせせらぎが聞こえるキャンプ場、予約不要で気軽に遊びに行けるキャンプ場など……多彩なキャンプ場が揃っている。 一年を通じて営業しているキャンプ場もあるので、雪上キャンプなど、冬ならではの楽しみ方もおすすめだ。 「私たちは趣味を中心に考えて家を建てました。趣味を満喫できる今の環境、家は最高ですよ」 暮らしにおいて、自分にとって大切なものをしっかりと軸としてもてているかどうか。 暮らしの満足度は、これによって大きく変わってくるのだろうと痛感させられた。 飛び込んだ消防団で仲間づくり 暮らしの中心にある、趣味。家族以外と愉しむことはあるのだろうか? 「釣りは、お世話になっている動物病院の先生とよく一緒に行きます。釣りを通して、知り合いが増えましたね」 移住当時、芳賀町に知り合いはいなかった。 そんな齋藤さんが顔見知りをつくるために取った手段は、「消防団に入団すること」だった。 「私は芳賀町で仕事以外の付き合いがまったくなかったので、消防団に入れば友だちができるかなと。 消防団なんかやりたくないっていう人もいますけど、部長まで任せてもらえて、私はいい経験になったと思っています。一緒に釣りに行く友だちもできましたよ」 「消防団には農家の方も多いんですよ。親しくなると、お米買うと野菜をたくさんいただいたり、年末にはお餅を持ってきてくださったりもします。 普段の生活では、農家の方と一緒になる機会はないので、いろいろと学びがあります。外からくると、やっぱり相手の方も最初は警戒しているので、自分からいかないといけないですよね」 動物病院の先生と釣りに行ったり、消防団の仲間に野菜をおすそ分けしてもらったり……。 移住先で顔見知りがいないからといって、自宅と職場の往復になってしまってはもったいない。 自分から積極的に新しいつながりをつくりにいけば、その分豊かな暮らしを送れそうだ。 芳賀町で、「暮らしを愉しむ」 宇都宮市の工務店・ケーエムハウスの代表取締役を務める齋藤さん。ケーエムハウスのコンセプトは「暮らしが愉しくなる家」。 まさに齋藤さん自身が体現している暮らしだ。 「会社のサイトでも、趣味の写真ばかり載せていますよ(笑)工務店のサイトだと、施工事例を紹介するのが一般的なのかもしれませんが、あくまで他人の家なので、興味のない人も多いのかなと。だったら、思い切って全部趣味に振り切っちゃえって思って(笑)」 なるほど、会社のSNSやブログには、釣りやキャンプ、自転車にグルメなど、趣味の写真が並ぶ。 「趣味をおもちのお客様は、そういった発信を結構見てくれているんですよね。 趣味のことで話が弾むのはもちろんですが、『この趣味のための、こんな部屋が欲しいんです』という依頼につながることもあります」 「趣味を愉しむ家づくりが得意な齋藤さんのところなら、できるのではないか」そんな思いから、おもしろい依頼も来る。 「最近は、鉄道模型のための家をつくりました。鉄道模型のためだけの家で、人は住みません。 お風呂をつくると自宅に帰らないから、お風呂はつくらないって仰っていて(笑)うちには、そんなおもしろい依頼が来ますよ」 やりたいことや好きなこと、お客様にまずは全部言ってもらって、そこからプランニングを考える。 全力で暮らしを愉しむ齋藤さんだからこそ、お客様の気持ちを理解できているのだ ろう。 「暮らしを愉しむ」齋藤さんの生き方は、会社の経営方針にも反映され、その先のお客様にも波及し始めている。 「趣味を満喫できている今、芳賀町に移住して大満足です。宇都宮市や東京へのアクセスはいいし、LRTができて、さらに利便性がよくなりました。 教育環境のことを考えてもいいまちです。周りの方にも、とても親切にしていただいています」 「あと何年かで退職するので、スローライフを送りたいなと考えています。日本全国を周って、釣りをしたり、キャンプをしたり……。考えるだけでワクワクしますね!」 自分にとって大切なものを軸に、まっすぐに、かつ、自由に。 そんな齋藤さんの生き方をやさしく包み込んでくれたのが、芳賀町だった。
天谷 浩彰(あまや ひろあき)さん渡部 幸恵(わたべ ゆきえ)さん
「ゆっくりできる」その本当の意味を理解した 移住前、職場の関係で、塩谷町が持続可能なまち「オーガニックビレッジ」を目指していくという話を聞き、約30名とともに塩谷町に足を運んだ。 訪れたのは冬。どうしてもいきいきとした印象は受けない。 「正直、第一印象としてはピンと来ませんでしたね」と浩彰さん。 同じく視察に来ていた元同僚で友人のともちゃんが塩谷町に移住したのは、視察からわずか2、3ヶ月後のことだった。ともちゃんが移住したことで、浩彰さんと幸恵さんのお二人は月に1回ほど塩谷町に遊びに行くようになり、まちへの印象も徐々に変わっていった。 人の数や時の流れ。体がついていけないほどに、塩谷町と首都圏ではまったく異なっていた。 「ゆっくりできるとは、こういうことか」塩谷町での滞在中、その意味を感覚的に味わった時、塩谷町への移住は着実に近づいていた。 そもそもお二人には「家族と動物たちがゆったりと豊かに暮らせる"楽園"をつくる」という構想があった。周りが木々に囲まれた野球場ひとつ分ほどの土地。畑や田んぼもあって、動物たちが自由に走り回れるような……。そんな舞台を求めていた。 長野県の安曇野市や伊那市、南箕輪村なども訪ねたが、まちの雰囲気、そして人のおもしろさに惹かれたのが塩谷町だった。 「都内の大学に在学中にバックパッカーとして旅をして、タイで働く予定だったんですが、コロナの影響で塩谷町にUターンしたけいちゃんという若者がいて。彼からまちづくりへの想いを聞いて、『こういうことを考えている若者が住む塩谷町はおもしろくなるな』そんな直感がありましたね」と浩彰さん。 まちづくりに取り組む若者との出会いもあり、塩谷町への移住を決めた。 懐に飛び込めば、あっという間に心が通う まちづくりについて熱く語ってくれたけいちゃん、「竹細工をやってみたいな」という幸恵さんの一言で竹を切り、竹細工を教えてくれた友人宅の大家さん。 「気持ちの通い方が早いっていうんですかね……。みんなあったかいし、人懐っこい。スピーディにコトが進むというか」 新しい土地、特に田舎での移住生活。人付き合いがうまくいくのかと心配する方も多いだろう。 「最初は不安もありましたよ。でも、自分たちがよそ者である以上、自分から距離を詰めていかないと、というのは思っていて。自分から声を掛けずに仲良くしてもらおうなんて、そんな美味しい話はないですからね。自分から行動して関係性を築いていく。あとは、『自分がやるべきことを、ちゃんとやる』。結構、見てくれているので」 浩彰さんは続ける。 「移住者として見られるし、自分から行動しないといけないし、移住するにあたって自分なりの軸がしっかりしていないと、苦労するかもしれないです。暮らしが全然違うので、当たり前ではありますよね」 浩彰さんの言葉は、田舎暮らしを検討している方にぜひ知ってほしい、リアルな声だ。 自ら行動を起こしたお二人は、友人に驚かれるほど、あっという間に地元の方とのつながりができたという。地元の方と、年代に関係なく、一緒にお酒を飲むこともある。“はじめまして”の時には、知り合いを通して、相手とつながるようにしているそうだ。 「人との直接的なコミュニケーションが、都会よりも頻度・重要度ともに高いのかもしれないですね」と幸恵さんが教えてくれた。 「栃木県の中でも、塩谷町の知名度は低いかもしれないですが、だからこそいいと思います。刺さる人にだけ刺さる、隠れた魅力に溢れるまちです」 口を揃えて言ったお二人の言葉がとても印象的だった。 手づくりの結婚式を自宅で 2023年5月、自宅で結婚式を挙げた。 「この集落に根を下して暮らしていこう」移住後に二人でそう再確認したことが決め手だった。 「集う」をコンセプトに、円を描くように形作られた畑に、大好きな家族や仲間が集う。近い未来に実現させたい「馬のいる暮らし」をちょっぴり先にお披露目するように、幸恵さんが馬に乗って登場する。手づくりの草冠を互いに授けあう……。 自分たちでアイデアを出しあいながら計画を立て、仲間の協力も得ながら、一つずつ準備を進めた。「馬のいる暮らし」を見せてくれたサラブレットのグランデくんは、地元牧場・UMAyaカントリーファームのゆうきさんとみおさんのご厚意もあり、馬運車で運ばれてきた。 結婚式をやると決めてからの50日間は、怒涛で濃密で豊かな時間だった。 結婚式の中で、お二人独自のアイディアのパートがあったそうだ。題して、祝婚の宴。 参列された方について、お二人との関係性を赤裸々に語り、紹介された方からも言葉をもらう。これを、参列者全員に対して行った。 笑いあり、涙あり。当初2時間の予定が4時間に延びるほど、想いに満ち溢れていた。あっという間に陽は傾き、あたたかい西日がみんなの笑顔を照らし出す。 18時を知らせる音楽がまちに鳴り響くと同時に、祝宴の宴も幕を閉じた。 結婚式に参列した浩彰さんのご両親は、祝婚の宴でのやり取りを見て聞いて、友人との関係性やあり方など、普段目にしない浩彰さんの姿に、見え方が180度変わったのだとか。 浩彰さんのご実家がある藤沢市から塩谷町に移住したことも、関係性が変わる一つのきっかけとなった。 「近くにいてほしい、という気持ちはあったでしょうが、今も隔週くらいで藤沢に帰っているので喜んでくれていますよ。幸恵と会えることも楽しみにしてくれています」と浩彰さん。 「浩彰のご両親には、実の両親と同じように言いたいことを言おうと決めていて。ぶつかったりできるのも生きているからこそだよねって感じられるようになった出来事もあり、どんどん関係性が濃くなっていると感じます」と幸恵さんも振り返った。 離れているからこそ分かることや見えるもの、伝えられることはあるのかもしれない。お二人の実体験がそう教えてくれた。 思いを形にできる場所で、チャレンジの連続 結婚式を自宅で。これはお二人のその後の考え方にも大きな影響を与えた。 すべてを自分たち、仲間内、友人たちとで準備したからこそ、「自分たちで、自宅で、何でもできる」という考え方を得られたのだという。 そんな経験を糧に、結婚式ができるなら、と自宅で“えんがわらいぶ”と題する初ライブを開催した。ライブ後、参加者全員との語らいの時間には、地元のカフェ“風だより”のケーキや、“稲と珈琲”のコーヒーが振舞われた。 お二人の行動力とそれによって紡がれてきたつながりが、ライブというひとつのカタチになったのだった。 それ以外にも、塩谷町に移住後、たくさんのチャレンジを重ねている。……というより「チャレンジしかしていない」んだとか。 たとえば、米づくり。都会であれば、何をどうやって始めればいいのか見当もつかない。 お二人が米づくりを始めたきっかけが、「近所の農家さんに挨拶した時に『うちの田んぼを2枚使っていいよ』と言われた」ことだというから驚きだ。都会では決してありえないシチュエーションである。 田んぼ2枚、二人ではとうてい作業しきれないからと友人に声をかけ、友人から友人へと広がり、イベントという形で稲刈りを行った。昔ながらの手植え、手刈り。曲げた腰の痛みをはるかに上回る、ワクワクとドキドキがあったに違いない。 自ら働きかけるお二人。ここでもつながりが広がっていく。 古民家の古材や廃材をいただき、移住後に飼い始めたヤギの“はなちゃん”の小屋も自作した。 「やればできる。それは移住前も頭では理解していましたが、塩谷町ではすべてが揃っていて、本当にチャレンジできる環境があるなと感じます。『あ、本当にできるんだな』と感じることがどんどんと出てきていますよ」と浩彰さん。 都会に行けば確かに何でもモノが揃っているが、ここには環境や素材、そして余白がたっぷりとある。 思いを形にできる、創造力を育んでくれる土地なのだ。 お二人のこれからと、塩谷町のこれから 移住前、浩彰さんは川崎市へ、幸恵さんは都内に通勤しており、帰宅は19時、20時頃になるというのが当たり前だった。今はリモートワークや畑仕事を中心に、自然のサイクルに合わせたリズムで生活を送る。 食卓には自分たちで種を蒔き、成長を見守ってきた、採れたての食材が並ぶ。スーパーで買うものよりも、味が濃く、野菜の個性を感じられる。ほうれん草が実は甘かったり、包丁で切ったきゅうりの断面から水分がにじみ出るのを目の当たりにしたり。さつまいもの収穫時期には、暖を取るストーブでつくったふかし芋が、朝食やリモートワーク中のおやつにもなった。 「日々のご飯が一番美味しい」 幸恵さんのその言葉には、毎日の暮らしへの満足感があふれていた。 2024年4月には、一日一組限定のプライベートキャンプ場もオープン予定だ。 お二人の自給農園“にゃす”で育った採れたて野菜を味わったり、ヤギのはなちゃんと触れ合ったり、焚火を囲んで語り合ったり……。 塩谷町で暮らすように泊まり、静けさと動物の息吹を味わえるキャンプ場だ。 「演出ではなく、私たちの暮らしのリアルを一緒に体験していただく、そんな場所です。『あっ、こんな暮らしもありだな』と、キャンプ場で過ごした時間によって人生の新しい選択肢が生まれたらうれしいです。」 お二人がこれから望むこととは―。 「私たちのように家族で土地を耕し、環境も生き方もデザインされる方が増えてほしいと思っています。その舞台として塩谷町を選んでいただけると一番うれしいですが、栃木県のほかの市町でも構いません。仕事も大切ですが、それ以上に家族が豊かであること、何気ない日常の幸せを感じられることの方が重要で大切なことだと考えています」 移住を機にお二人の生活は大きく変化したが、お二人の存在は周囲に、そして塩谷町にも影響を与えていそうだ。 お二人が移住した時期は、塩谷町がまちづくりに、より力を入れ始めたタイミングでもあった。移住・定住支援サイト「塩谷ぴーす」を開設し、近々移住コーディネーターも設置される予定である。 「まちも、自分たちも、まさに変化の中にいると感じます。変わり始めた今だからこそ、塩谷町はこの先5年、10年が一番おもしろい時期でしょうね」 お二人の楽園づくりは、着実に根を張りめぐらし、苗木から若木へとバージョンアップしているようだ。 創造力が沸き立つこの土地で、まちをも巻き込みながら、楽園づくりを進めていく。
倉林 良徳(くらばやし よしのり)さん
名前も知らないまちとの出会い 「移住のきっかけは、子どもが生まれたことでした。」 倉林さんの移住前の住まいは、埼玉県蕨市。新宿にある職場まで電車で約30分と、便利な場所だった。 ただ、子どもの成長を考えると、今の家ではどうしても手狭に感じてしまう……。 「今よりも広い賃貸の家に引っ越すのか、住宅を購入するのかという2つの選択肢がありましたが、いずれは購入したいと思っていたので、じゃあどこにしようかっていうのを考え始めました。」 埼玉県には実家もあり、通勤も便利で魅力的ではあるが、今より広い家となると、どうしても家賃が高くなる。 今の職場に電車1本で通える範囲で、かつ予算に合った物件を探していたところ、候補となったのが、西武池袋線・JR湘南新宿ライン沿いのエリア。そのなかでも気になったのが、栃木県の野木町と埼玉県の入間市、茨城県の古河市だった。 「3つのまちに実際行ってみて、まちの雰囲気はどうか、とか、生活しやすそうか、みたいなところを見て周りました。野木町は第一印象がよかったんですよ。住宅街も街並みとしてきれいでしたし、車の運転がしやすそうな整備された道路だなという印象も受けました。…実はこの時まで、野木町って名前すら知らなかったんですけどね(笑)」 普段の生活を思い浮かべたときに、一番しっくりきたのが野木町だった。 夫婦の趣味である登山で、年に数回は栃木県を訪れていたことや、大学進学や就職で地元を離れて暮らしていたことも、新しい土地で生活をスタートさせる後押しとなった。 実は、野木駅から新宿駅までは在来線(JR湘南新宿ライン)で約70分。栃木県と聞くと「通えるの?」と心配する方もいるかもしれないが、都心も十分に通勤圏内なのである。 新たな生活を理想の条件で。 それを叶えてくれたのは、名前すら知らなかったまちだった。 住めば都、野木町が都に 移住検討当初は名前すら知らなかった野木町への移住を決めた倉林さん。 お子さんが生まれたタイミングで縁のない場所へ。不安はなかったのだろうか? 「私の場合、そもそも『移住』という感覚がなかったんですよね。職場は変えていないですし、同じような路線で通勤もできていて……隣県への『引っ越し』という感覚でした。両親との距離も少し遠くなったとはいえ、1時間~1時間半くらいの距離にいるので、助けてほしいときは頼れる距離感です。今の生活を大きく変える必要がなかったことが、移住に対する抵抗がなかった理由かもしれません。」 確かに「移住」といえば身構えてしまうが、「引っ越し」と捉えれば、一歩が踏み出しやすい。 実際に、鉄道・道路ともに幹線が東西南北を貫く栃木県では、東京をはじめ、茨城県や群馬県などの隣県へのアクセスが良好である。東京圏に通勤する移住者向けに通勤補助を行っている市町もあるので、少し視野を広げてみれば、東京圏の方も住まいの選択肢はかなり広がりそうだ。 引っ越しとはいっても、新たな土地での生活には不安があって当然。そんな不安とはどのように向き合ったのだろう。 「購入する土地の所有者さんと、契約を交わす時にお話しする機会があって。30年以上野木町で暮らしている方だったんですが、その方が『住みやすいまちだよ』とおっしゃっていたのが印象的でした。長く住まれている方から住みやすいと聞いたことで、大きな安心感につながりましたね。あとは、移住サイトを見たりして、どんな移住支援があるのかを事前にチェックしていました。ここにスーパーがあるんだなとか、すぐ近くに病院があるなとか、購入する土地の周辺を実際に歩いてみたりもしました。実際に歩いてみて、子どもが通う保育園も含めて、生活に必要な施設がコンパクトにまとまっていて、住みやすそうだと感じられましたね。」 人付き合いなど、実際に暮らして初めて分かるものもあるが、実際に現地を訪問したり、インターネットで情報収集したりすることで、あらかじめ潰せる不安要素も多そうだ。 「私たち夫婦は『住めば都』っていう考え方なんですね。もちろん、移住前に可能な限り野木町のことは調べましたが、住み始めてしまえばなんとかなるって思っていました。野木町が新しいふるさとになればいいなと思っています。」 野木町に移住して、リモートワーク中心の働き方になった倉林さん。柔軟な働き方のおかげで、子育てへの関わり方が大きく変わったという。 「妻もフルタイムで働いているので、融通が利く働き方は非常に助かっています。今は、朝、仕事を始める前に子どもに朝ごはんを食べさせて、保育園に送って、定時まで仕事をしたら保育園に迎えにいって…という生活です。移住前は、なかなかそういうわけにはいきませんでしたね。妻にすべて任せるのではなく、夫婦二人で一緒に子育てできるようになったというのが、生活における一番の変化でしょうか。」 通勤にかける時間が不要になったことで、庭仕事をしたり料理をしたりする機会も増えた。 夫婦ともにテレワークの日には、昼休憩を利用して揚げ物に挑戦することも。移住前の家では、スペースの問題から準備や片付けが億劫だったが、広々とした今の家では困ることもない。 移住前には実現できなかった豊かな暮らしの形が野木町で生まれていた。 子育て世代におすすめ、野木町 野木町は小さなまちではあるが、日常的に使うスーパーや病院などはたいてい町内で揃う。 「子どもが入院するとなったときに、野木町の病院では対応できないことがありましたが、隣の小山市の病院で診てもらうことができました。町内にないものも、近隣の小山市や栃木市、佐野市、茨城県の古河市に足を伸ばせば何でも揃います。足を伸ばすといっても車で30分圏内くらいなので、生活利便性という点で困ったことはありませんね。都会にしかないものが欲しい、となると確かにないですが、私たちはそこを求めているわけではないので。」 生活利便性のほかにも、まちのアットホームな雰囲気や豊富な子育てイベントが、子育て世代にとって暮らしやすいと感じるポイントだそう。 「気さくに接してくださるご近所さんが多くて。子どもと散歩していると、『可愛いね』とよく声をかけてくださいます。ありがたいことに、お下がりのおもちゃをわざわざ家まで届けてくれた方もいらっしゃいました。ただ、干渉しすぎるわけでもなく、ちょうどいい距離感なのが心地いいです。家の前の道路で子どもが遊んでいても安心できるような環境なのもうれしいですね。同じように子育てされている方にはおすすめのまちです。」 まちのシンボルである野木町煉瓦窯の周辺をはじめ、野木町ではイベントも盛んに行われている。 小さいながら、活気があるまちだ。 「SNSなどでイベント情報をチェックして、週末に家族でよく遊びに行きます。大きめの公園を調べて、子どもと遊びに出かけたりすることもあります。今年は夏祭りにも2つ参加しました。野木町に来てから、次はどこに行こうとか、あそこに行ってみようとか、そんなことを考えることが増えましたね。もともと知らない土地ではあるので、どこに何があるのか、みたいなことを知りたいという気持ちも根底にはあるんだと思います。知らない土地だからこその楽しみかもしれません。」 児童館で開催される多彩なイベントも人気だという。奥様が笑顔で教えてくれた。 「人気のイベントは、申込開始日の午前中には定員が埋まってしまうくらいの争奪戦です。なんだかバーゲンセールみたいですよ(笑)実はこの児童館でのイベントは、移住前から楽しみにしていたことのひとつだったんです。いろんなイベントがあるので、ほかにも楽しみにされている親御さんが多いのではと思います。子どもがもう少し大きくなったら、芋ほり遠足にも参加してみたいですね。」 急がず、焦らず、丁寧な暮らしを 「移住」にしても「引っ越し」にしても、一大イベントではあるが、その先にあるのは何気ない毎日の暮らしである。 スーパーや保育園、病院、公園など、生活に欠かせないものがきちんと揃っていることを事前に確認しておけば、たとえ名前を知らないまちだったとしても大丈夫。 「野木町は本当にアットホームなまちなので、移住を検討されている方には実際に遊びに来ていただいて、それを実感してほしいですね。町外の方でも参加できる子育てイベントなどもあると思うので、ぜひ調べて参加してみてほしいです。親御さんとのつながりも生まれるかもしれません。」 知らないまちに来たからこそ、「知りたい」と思う。 お子さんが大きくなれば、もっといろんなことに挑戦したい、と倉林さんは考えている。 「子どもが大きくなれば、遊びに行ける場所の選択肢も広がるので楽しみです。将来的には、家のメンテナンスも必要になってきますが、自分たちでできる範囲のことは自分たちでやっていきたいなと思っています。野木町に来てから始めた家庭菜園の面積も広げていく予定なので、子どもにもぜひ手伝ってほしいですね!自分で育てた野菜をもりもり食べて、元気に育ってほしいです。」 「通勤にかける時間がなくなった分、家の周りのこととか自分の普段の生活のことに時間を有効活用していきたいと考えています。野木町に長く住む前提で家も購入していますし、急がず、焦らず、丁寧に暮らしていきたいな、というのがこれからの生活にかける一番の思いです。」 移住によって出会えた、野木町という新しいふるさとで、より豊かに日常を紡いでいく。
檜澤 しのぶ(ひざわ しのぶ)さん
コロナ禍をきっかけに、新たな人生へ 前職は大手ホテルのセールス担当。新潟にあるホテルの東京営業所に所属し、都内の企業や旅行会社に向けて宿泊や宴会、レストランなどのサービスを案内していた。 「当時は忙しすぎて、立ち止まる余裕なんてなかったですね。売上の数字を常に背負い、お客様の期待値を超える演出をする日々は、やりがいはありましたが、仕事に追われる生活でした。」 そう語る檜澤さん。 立ち止まるきっかけは新型コロナの感染拡大だった。大打撃を受けたホテル業界の例に漏れず、檜澤さんが働く東京営業所も閉鎖されることに。 「良くも悪くも、これが移住を考え始めるきっかけになりました。初めて立ち止まってみて思ったのは、私の人生このままでいいのかなって。じゃあ、思い切って一回全部リセットしてみようと!」 その後、1年間休職。休職中に、以前から興味のあった地方創生や観光について学んだ。 そんな時、縁があり、日本全国の移住支援を行う「ふるさと回帰支援センター」の栃木県窓口の相談員を務める生田さんから、真岡市移住定住コーディネーター募集の案内を受ける。 東京に進学・就職し、地元である真岡市を離れて数十年。新しい人生を送る地は真岡市でいいのか……すぐには決められなかった。 背中を押してくれたのは、地元の友人の言葉だったという。 「今、真岡市の未来のために、行政と大人、学生たちが公民連携で動いているよ。これから真岡市が面白くなる。一緒にやろうよ!」 移住はご縁とタイミング。ふるさとに戻ることに決めた。 ゆるやかな時間、おだやかな暮らし 東京と真岡市では、時間の流れ方が明らかに違う。 競争社会である東京では、自分より他人を優先し、時間に追われる生活だったが、今はワークライフバランスを取りながら自分らしい生活を送れている。 散歩中に見る田んぼや満開の桜並木、緑生い茂る樹木、カエルや鈴虫の鳴き声、キンモクセイの香り―。 何気ない日常の風景から季節が感じられ、自然とともに生きているんだとしみじみ思う。なんとも心地のよい生活である。 東京に住む友人からは「表情がすっきりして顔色がよくなった」と言われた。人は暮らす環境によってメンタルが大きく左右されるのだと身をもって体感した。 「今は、子どもの頃にやってみたかったことにも、どんどんチャレンジしてみたいと思っていて。そんなことを思えるようになった自分にびっくりです。東京ではそんな余裕がありませんでしたから。今は自分の可能性が広がっていくようで、ワクワク感がありますね!」 車の運転も、真岡市に戻ってからするようになった。 確かに、地方は東京ほど便利ではない。ただ、不安に思う必要はないという。 「東京だと車を運転する必要がなかったので、真岡市に戻っても自転車で移動すればいいやと思っていたんですが……自転車で動ける範囲なんて限られていますもんね(笑)父に教えてもらったり、ペーパードライバー向けの講習を受けたりして、運転スキルを上げていきました。今はマイカーも購入して、高速道路も運転できるまでに上達しています。」 都会と比較した際の生活利便性は、多くの移住検討者にとって不安要素のひとつかもしれない。ただ、本当に地方に移住すれば利便性は下がるのだろうか。 「運転できるようになって、私はむしろ移動の自由度が高まりましたね。休みの日はあそこに行ってみようとか、あの人に会いに行ってみようとか、アクティブになりました!確かに新しい一歩を踏み出すのは怖いかもしれませんが、慣れれば問題ありません。今年の冬は、マイカーでスキーに初挑戦する予定です!」 真岡市には十分な数のスーパーがあり、学校があり、総合病院もある。自然も豊かで、子育て世代にも人気のまちとなっている。 地方移住に対する漠然とした不安は、あなたの小さな一歩によって意外と簡単に解決できるのかもしれない。 数十年ぶりの実家暮らしで得た気づき 今は両親・姉家族と9人でにぎやかに暮らす檜澤さん。東京での2人暮らしから、実家での9人暮らしへ。抵抗はなかったのだろうか。 「もちろん、ありました!いまさら両親と暮らすなんて、なんか恥ずかしいと思っていましたから。一人暮らしをしようとアパートを探していたんですが、空いている物件がなかったりで、家族全員に住まわせてください、とお願いしました(笑)」 家業は米農家。現役の父。小顔に映りたい母。 住む場所はもちろん、仕事や周囲の人もすべて変わり、移住して間もなく体調を崩したことがあった。 そんな時、改めて自分を見つめ直すきっかけをくれたのが両親だった。 「体調を崩した時に、両親に相談したんです。そしたら、母からは『しのぶは小さい頃から、ないものねだりだ。今あるものを大事にすればいいの。』父からは『しのぶには信念がない。信念があれば、人に何言われても揺らぐことはない。諦めるな。』と言われて…。被っていた鎧を捨てられた気がします。自分の弱いところも見えたし、かっこつけていたところもわかりました。」 一番近い距離にいる両親からの言葉に、自分らしさを気づかせてもらったという。 真岡市にUターンをして、両親と暮らせてよかった、と笑顔で語るようすが印象的だった。 真岡市の魅力を日本中へ! 真岡市では移住定住コーディネーターとして、移住のお手伝いをする日々。 「移住って大変じゃないですか。仕事も住む場所も、交通手段も気候も友人も……自分の人生全部が一気に変わるので。私自身、体調崩したり、不安があったので、移住定住コーディネーターとして接する時は親身になって相談に乗れるように心がけていますね。移住は覚悟が必要で、人生における大きな決断でもあるので、「希望する生き方」「本音」を聞き出しながら、なるべく真岡市の正確な情報を伝えるようにしています。踏み込んだ話もしっかりと伝えてもらえているのは、話しやすい空気を作れている結果かなと思いますね。」 檜澤さん自身が移住者であるということが、相談する人にとって安心できるポイントになっているのだろう。そして、底抜けに明るく人懐っこい人柄がひと役買っていることは言うまでもない。 真岡市といえば、55年連続いちご生産量1位を誇る「いちご王国・栃木」において、一番の生産量を誇るとともに、いちごの品質や栽培技術を競う「いちご王国グランプリ」においても、最高賞の大賞(農林水産大臣賞)を最多受賞する、まさに「質」・「量」ともに「日本一のいちごのまち」。 真岡市移住定住コーディネーターを務める檜澤さんの目標は、「もおかDEのうか いちご就農するなら真岡市」を全国に広め、いちご就農する後継者を移住者で増やすことだという。 「地方移住して農業を始めたいっていう方のご相談は結構あります。ただ、専門の就農窓口はハードルが高いみたいですね。そんな時に、私がいちごの被り物なんかして移住相談窓口にいると、話しかけやすいみたいです(笑)」 いちご就農した先輩移住者と移住検討者を引き合わせる機会などもあり、人と人をつなぐ仕事なんだと実感することも多い。 「真岡市のいちご農家さんって、『日本一のいちご産地』として誇りと情熱をもっていらっしゃる方が多いんです。後継者や「もおかっ子」の未来を真剣に考えられている方も多くて。そんな方々とお話していたら、私自身も未来の真岡市の担い手になりたいっていう熱い気持ちが湧き上がってくるようになりましたね。」 移住者、つまりは新しい風として、今の仕事を通じて未来の真岡市を盛り上げていきたいという。 「真岡愛溢れる市民がたくさんいるので、一緒に活動ができて本当に楽しいです。」 もおかDEのうか いちご就農するなら真岡市 FMもおかとのコラボで制作したPR音源。 真岡市を象徴する、真岡鐵道のSLの汽笛が懐かしい。地元を離れて暮らす真岡市民や栃木県民に聞いてもらい、ぜひふるさとを思い出すきっかけにしてほしい。 何かを始めるのに、遅いことはない 移住して一番よかったと感じるポイントは? 「生きていくなかで大切なものに気づけたことでしょうか。自分らしさに気づかせてくれた家族や、いつも支えてくれる仲間たち。時間に追われる生活では、見えていなかったものが見えるようになりました。」 仕事の経験やスキル、人間関係など、年齢を重ねるほど積み重ねたものも多く、新たな人生を始めるには勇気も労力もいる。 「今ある暮らしをリセットして、新しい人生をスタートさせるのって大変です。でも、それ以上に得るものも大きいかもしれません。私の場合は、移住によって自分らしい豊かな暮らしを実現できました。経験者として言いたいのは、40代からでも全然遅くないよ!ということ。人生、まだまだこれからです。」 子育て支援センターや図書館、地域交流センター、カフェなどが入る複合交流施設の整備が進み、新たなまちづくりが進む真岡市。気になった方は、ぜひ真岡市の移住相談窓口へ。檜澤さんが真岡市の魅力をたっぷりと紹介してくれることだろう。
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