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人生に立ち止まってみたら、</br>自分らしい暮らしに出会えた

人生に立ち止まってみたら、自分らしい暮らしに出会えた

檜澤 しのぶ(ひざわ しのぶ)さん

コロナ禍をきっかけに、新たな人生へ 前職は大手ホテルのセールス担当。新潟にあるホテルの東京営業所に所属し、都内の企業や旅行会社に向けて宿泊や宴会、レストランなどのサービスを案内していた。 「当時は忙しすぎて、立ち止まる余裕なんてなかったですね。売上の数字を常に背負い、お客様の期待値を超える演出をする日々は、やりがいはありましたが、仕事に追われる生活でした。」 そう語る檜澤さん。 立ち止まるきっかけは新型コロナの感染拡大だった。大打撃を受けたホテル業界の例に漏れず、檜澤さんが働く東京営業所も閉鎖されることに。 「良くも悪くも、これが移住を考え始めるきっかけになりました。初めて立ち止まってみて思ったのは、私の人生このままでいいのかなって。じゃあ、思い切って一回全部リセットしてみようと!」 その後、1年間休職。休職中に、以前から興味のあった地方創生や観光について学んだ。 そんな時、縁があり、日本全国の移住支援を行う「ふるさと回帰支援センター」の栃木県窓口の相談員を務める生田さんから、真岡市移住定住コーディネーター募集の案内を受ける。 東京に進学・就職し、地元である真岡市を離れて数十年。新しい人生を送る地は真岡市でいいのか……すぐには決められなかった。 背中を押してくれたのは、地元の友人の言葉だったという。 「今、真岡市の未来のために、行政と大人、学生たちが公民連携で動いているよ。これから真岡市が面白くなる。一緒にやろうよ!」 移住はご縁とタイミング。ふるさとに戻ることに決めた。 ゆるやかな時間、おだやかな暮らし 東京と真岡市では、時間の流れ方が明らかに違う。 競争社会である東京では、自分より他人を優先し、時間に追われる生活だったが、今はワークライフバランスを取りながら自分らしい生活を送れている。 散歩中に見る田んぼや満開の桜並木、緑生い茂る樹木、カエルや鈴虫の鳴き声、キンモクセイの香り―。 何気ない日常の風景から季節が感じられ、自然とともに生きているんだとしみじみ思う。なんとも心地のよい生活である。 東京に住む友人からは「表情がすっきりして顔色がよくなった」と言われた。人は暮らす環境によってメンタルが大きく左右されるのだと身をもって体感した。 「今は、子どもの頃にやってみたかったことにも、どんどんチャレンジしてみたいと思っていて。そんなことを思えるようになった自分にびっくりです。東京ではそんな余裕がありませんでしたから。今は自分の可能性が広がっていくようで、ワクワク感がありますね!」 車の運転も、真岡市に戻ってからするようになった。 確かに、地方は東京ほど便利ではない。ただ、不安に思う必要はないという。 「東京だと車を運転する必要がなかったので、真岡市に戻っても自転車で移動すればいいやと思っていたんですが……自転車で動ける範囲なんて限られていますもんね(笑)父に教えてもらったり、ペーパードライバー向けの講習を受けたりして、運転スキルを上げていきました。今はマイカーも購入して、高速道路も運転できるまでに上達しています。」 都会と比較した際の生活利便性は、多くの移住検討者にとって不安要素のひとつかもしれない。ただ、本当に地方に移住すれば利便性は下がるのだろうか。 「運転できるようになって、私はむしろ移動の自由度が高まりましたね。休みの日はあそこに行ってみようとか、あの人に会いに行ってみようとか、アクティブになりました!確かに新しい一歩を踏み出すのは怖いかもしれませんが、慣れれば問題ありません。今年の冬は、マイカーでスキーに初挑戦する予定です!」 真岡市には十分な数のスーパーがあり、学校があり、総合病院もある。自然も豊かで、子育て世代にも人気のまちとなっている。 地方移住に対する漠然とした不安は、あなたの小さな一歩によって意外と簡単に解決できるのかもしれない。 数十年ぶりの実家暮らしで得た気づき 今は両親・姉家族と9人でにぎやかに暮らす檜澤さん。東京での2人暮らしから、実家での9人暮らしへ。抵抗はなかったのだろうか。 「もちろん、ありました!いまさら両親と暮らすなんて、なんか恥ずかしいと思っていましたから。一人暮らしをしようとアパートを探していたんですが、空いている物件がなかったりで、家族全員に住まわせてください、とお願いしました(笑)」 家業は米農家。現役の父。小顔に映りたい母。 住む場所はもちろん、仕事や周囲の人もすべて変わり、移住して間もなく体調を崩したことがあった。 そんな時、改めて自分を見つめ直すきっかけをくれたのが両親だった。 「体調を崩した時に、両親に相談したんです。そしたら、母からは『しのぶは小さい頃から、ないものねだりだ。今あるものを大事にすればいいの。』父からは『しのぶには信念がない。信念があれば、人に何言われても揺らぐことはない。諦めるな。』と言われて…。被っていた鎧を捨てられた気がします。自分の弱いところも見えたし、かっこつけていたところもわかりました。」 一番近い距離にいる両親からの言葉に、自分らしさを気づかせてもらったという。 真岡市にUターンをして、両親と暮らせてよかった、と笑顔で語るようすが印象的だった。 真岡市の魅力を日本中へ! 真岡市では移住定住コーディネーターとして、移住のお手伝いをする日々。 「移住って大変じゃないですか。仕事も住む場所も、交通手段も気候も友人も……自分の人生全部が一気に変わるので。私自身、体調崩したり、不安があったので、移住定住コーディネーターとして接する時は親身になって相談に乗れるように心がけていますね。移住は覚悟が必要で、人生における大きな決断でもあるので、「希望する生き方」「本音」を聞き出しながら、なるべく真岡市の正確な情報を伝えるようにしています。踏み込んだ話もしっかりと伝えてもらえているのは、話しやすい空気を作れている結果かなと思いますね。」 檜澤さん自身が移住者であるということが、相談する人にとって安心できるポイントになっているのだろう。そして、底抜けに明るく人懐っこい人柄がひと役買っていることは言うまでもない。 真岡市といえば、55年連続いちご生産量1位を誇る「いちご王国・栃木」において、一番の生産量を誇るとともに、いちごの品質や栽培技術を競う「いちご王国グランプリ」においても、最高賞の大賞(農林水産大臣賞)を最多受賞する、まさに「質」・「量」ともに「日本一のいちごのまち」。 真岡市移住定住コーディネーターを務める檜澤さんの目標は、「もおかDEのうか いちご就農するなら真岡市」を全国に広め、いちご就農する後継者を移住者で増やすことだという。 「地方移住して農業を始めたいっていう方のご相談は結構あります。ただ、専門の就農窓口はハードルが高いみたいですね。そんな時に、私がいちごの被り物なんかして移住相談窓口にいると、話しかけやすいみたいです(笑)」 いちご就農した先輩移住者と移住検討者を引き合わせる機会などもあり、人と人をつなぐ仕事なんだと実感することも多い。 「真岡市のいちご農家さんって、『日本一のいちご産地』として誇りと情熱をもっていらっしゃる方が多いんです。後継者や「もおかっ子」の未来を真剣に考えられている方も多くて。そんな方々とお話していたら、私自身も未来の真岡市の担い手になりたいっていう熱い気持ちが湧き上がってくるようになりましたね。」 移住者、つまりは新しい風として、今の仕事を通じて未来の真岡市を盛り上げていきたいという。 「真岡愛溢れる市民がたくさんいるので、一緒に活動ができて本当に楽しいです。」 もおかDEのうか いちご就農するなら真岡市 FMもおかとのコラボで制作したPR音源。 真岡市を象徴する、真岡鐵道のSLの汽笛が懐かしい。地元を離れて暮らす真岡市民や栃木県民に聞いてもらい、ぜひふるさとを思い出すきっかけにしてほしい。 何かを始めるのに、遅いことはない 移住して一番よかったと感じるポイントは? 「生きていくなかで大切なものに気づけたことでしょうか。自分らしさに気づかせてくれた家族や、いつも支えてくれる仲間たち。時間に追われる生活では、見えていなかったものが見えるようになりました。」 仕事の経験やスキル、人間関係など、年齢を重ねるほど積み重ねたものも多く、新たな人生を始めるには勇気も労力もいる。 「今ある暮らしをリセットして、新しい人生をスタートさせるのって大変です。でも、それ以上に得るものも大きいかもしれません。私の場合は、移住によって自分らしい豊かな暮らしを実現できました。経験者として言いたいのは、40代からでも全然遅くないよ!ということ。人生、まだまだこれからです。」 子育て支援センターや図書館、地域交流センター、カフェなどが入る複合交流施設の整備が進み、新たなまちづくりが進む真岡市。気になった方は、ぜひ真岡市の移住相談窓口へ。檜澤さんが真岡市の魅力をたっぷりと紹介してくれることだろう。

非日常としての自然ではなく、日常としての自然が身近にある暮らし

非日常としての自然ではなく、日常としての自然が身近にある暮らし

藏所 千尋(くらしょ ちひろ)さん

新しい発見や出会いがある、宇都宮市(大谷町)エリア 「移住をしたのは、娘が小学校に上がるタイミングでした。当時住んでいた東京にあるNPO法人ふるさと回帰支援センターへ行ってみたのが最初です。そこで宇都宮市の移住担当者の方に出会ったのがきっかけで、宇都宮市内の大谷地域の今を知り、自分のこれまでのキャリアを生かせるような気がしました。そこから縁があって今の仕事にも出会え、わくわく感を持って大谷地域に移り住みました。」 東京では、印刷会社やミュージアムショップ、デザイン事務所などで働いてきた藏所さん。“大谷地域に新たなムーブメントが生まれている”という噂を以前から聞いていたため、興味があったエリアだという。 「ただ、実際に生活環境を確かめる必要があると感じ、移住前に大谷地域へと何度か自分の足を運びました。また、東京在住中に、地方移住することを早めに周りに公言したことで、“知り合いがいるよ”“あそこのお店知ってる?”と情報が自然と集まったりも。引っ越してから…ではなく、移住前にアンテナを張って行動しておくことが大切かもしれません。」 宇都宮市は、東京から新幹線で約50分と都市部からのアクセスも便利。その中でも大谷地域は、古くから「大谷石」の産地として栄えた独自の文化が息づく場所だ。 藏所さんが管理人を務める「OHYA BASE」は、コワーキングスペースなどを備えた多目的施設。「大谷でできることを増やす場所」を指針に掲げ、周囲の個性豊かな店々やクリエイター、スモールビジネスを営む人とも繋がっており、人と人との橋渡し役を担っている。 この取材中にも、定休日にも関わらずOHYA BASEに訪れる人がちらほら。地元の人が気軽に立ち寄り、地域に根ざしたコミュニティ活性の場であることを物語っていた。 「移住した土地に馴染むためには、ハブになる場所や人に出会えるかがポイント。ショートステイをする際も、移住前に地元の人と少しでも繋がれると、自分が生活するイメージもつきやすいと思います。」 そう語る藏所さんが提案してくれたのが、大谷地域を中心に、隣接する地域にも足をのばす2泊3日のショートステイプラン。 リモートワークができるシェアスペース、地域に愛されるお店、子どもと休日に過ごすスポットなど、暮らしを楽しむために欠かせない要素を組み込んでくれた。 ショートステイのすすめ1「人が行き交う場所を拠点にする」 藏所さんが東京から移住して最初に実感したのは、ここでの生活には車が必須ということ。今回のショートステイプランでも車移動を想定している。 「移住を意識したステイなら、その土地の人が行き交う場所を拠点にすると、自分の中に新しい視点が生まれてきやすいと思います。私が働くOHYA BASEもそのひとつ。コーヒーを飲みながら仕事をしたり、ローカルな情報収集をしたりと、便利に活用できる場所です。また、地域に根付いているカフェやご飯どころも、生活するなら知っておきたいところですよね。地産地消の食材を使った料理が味わえるOHYA FUN TABLE、イタリア料理を軸にした大人も子どもも気軽に楽しめるPunto大谷町食堂は、どちらも店主が県外からの移住者。地域の人々の雰囲気もわかるし、県外からの滞在者にも優しい。東京から来た友人を必ず連れて行く、私のお気に入りです。」 前述の「OHYA FUN TABLE」、築90年の石蔵をリノベーションしたベーカリー「POSTE DE BLÉ」など、大谷石を建築に使った店舗も多く点在しているので、その建築を見ながら町を歩いてまわるのもおすすめだそう。 ショートステイのすすめ2「その土地の文化や自然に触れる」 栃木に来て変わったことのひとつが、小学校4年生の娘さんとの週末の過ごし方。そんなライフスタイルの変化も、この場所に越してきて良かったと思える部分だという。 「東京では美術館などの作られた場所に行くことが多かったのですが、移住してからは、夏は川遊びや湖畔の散歩、冬は周囲の山々をぐるりと見渡せる開放的な屋外リンクでアイススケートをするなど、自然の中で思いっきり遊ぶことが増えました。今回のプランに入っている、(宇都宮市の隣に位置する)鹿沼市の大芦川は、関東随一の清流と呼ばれる透明度。冷たい水に足を投げ出してみるだけでも最高にリフレッシュします。豊かな自然が近くにあるのも栃木の魅力なので、ご家族でステイする際にもぜひ訪れてもらいたいですね。」 非日常としての自然ではなく、日常としての自然が身近にある。五感をフルに使って体と心で感じたことは、子どもにとっても大人にとっても大切な記憶になるに違いない。 また、ショートステイプランの最初に体験する、大谷地域に広がる地下空間を巡る観光ツアー「OHYA UNDERGROUND」(事前オンライン予約必須)は、藏所さんが働く「OHYA BASE」の看板アクティビティ。 普段は立ち入り禁止の大谷採石跡地を、ラフティングボードで探検するクルージングは、ここでしかできない貴重な体験だ。古代遺跡のような石造りの巨大空間が見どころの観光スポット「大谷資料館」の見学も含め、その土地の歴史を知れる機会は、ぜひ予定に入れておきたい。 その他にも、宇都宮市民のソウルフード「正嗣(まさし)」の餃子を食べて、道の駅「ろまんちっく村」の天然温泉に浸かって…と、地元民御用達の魅力的なスポットがぎゅっと詰まった2泊3日。 ショートステイを終える時には、どのように感じて、どんな想いが生まれるのか。それを確かめるためだけでも大きな価値になるはず。まずは1歩、気軽な気持ちで訪れてみるのはどうだろうか。 ショートステイで自分の“これから”を見つめ直す 「もちろん都会に比べたら情報量やスピード感が違うので、最初は戸惑いもありました。ただ、地域に暮らす人々との何気ない会話で得られる情報には、また違った豊かさを感じられるもの。東京へはすぐに行けるので、いまでは物理的な距離感もそこまで感じません。つい最近も上京して、好きなアーティストのライブを楽しんできたところなんです。」と話す、藏所さんの明るい笑顔が印象的だった。 「アクションを起こせば人とすぐ繋がれるのが、地方のいいところ。」と藏所さん。 「これが好き」「それ面白そう」と、同じ価値観を持つ仲間たちに出会い、深めてきたコミュニティは、年々、輪が広がっているようだ。 今後、町全体がより一層盛り上がっていきそうな予感に満ちている。 「私を含め、音楽が好きな仲間が多いんです。他の土地にはない風情のあるこの環境で、音楽フェスのイベントができたら…!というのが夢ですね。大谷地域にはまだまだ余白があるからこそ、自分が好きなことを持ってきて、自分たちの手で何かを実現することができる。そんな可能性を日々感じています。」 新旧の良さがバランスよく共存する宇都宮市大谷町。ここでの「ショートステイ」という経験が、理想のライフスタイルを考えるきっかけになれば何よりだ。 ※この記事は、NEXTWEEKENDと栃木県とのコラボレーションで制作しています。

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

武藤小百合さん

自分が惹かれた街で、暮らしを楽しみたい 武藤さんが鹿沼に移り住むきっかけとなったキーパーソンの一人が、新鹿沼駅前にあるレンタサイクルショップ「okurabike」の鷹羽(たかのは)さんだ(下写真左)。武藤さんは、okurabikeが主催するサイクリングツアーに何度か参加し、鹿沼の魅力に触れたことで移住を決意。さらに、移住後も鷹羽さんに街のことを教えてもらったり、プライベートでも相談に乗ってもらったりと、とてもお世話になっていて、武藤さんは“鹿沼のママ”として慕っている。 そんなokurabikeのサイクリングツアーで鹿沼を巡りまず感じた魅力が、身近に広がる自然だ。 「街中から自転車で少し走るだけで田畑や里山が広がり、きれいな川が流れる豊かな自然に出会えます。例えば、新鹿沼駅から自転車で10分ほどにある『出会いの森総合公園』は(下写真)、春には大芦川沿いの桜並木がとても美しく、5月下旬から6月上旬にはホタルも見られます。自然と人が共存しているところに、とても惹かれました」 もう一つ感じた鹿沼の魅力が、いきいきと暮らす街の人たち。サイクリングツアーで出会った、400年の歴史を持つ麻農家が営む「野州麻紙工房」の店主や、秋まつりに登場する彫刻屋台が展示されている「屋台のまち中央公園」の方をはじめ、カフェや飲食店を開業したり、新たなことに挑戦したりしている人たちも多く、個性豊かで面白い街だなと感じた。 「鹿沼はもともと人が行き交う宿場町だったこともあり、移り住む人に対してウェルカムな雰囲気があり、新しいことに挑戦する人をあたたかく応援してくれます。何よりも皆さんとても優しく、一人で移り住んでもなんとかやっていけそうだなと感じました」 さらに、長年受け継がれている街の文化にも強く惹かれた。サイクリングツアーでは、絢爛豪華な彫刻屋台が鹿沼の街を練り歩く、歴史あるお祭りを特等席で見学。街の人たちが一丸となって文化を継承している姿に心震えた。 武藤さんは、これまで客室乗務員として、いろいろな地域を訪れ、さまざまな街を目にしてきた。そこで感じたのは、「どこに行っても変わらない暮らしはできる」ということ。 「東京は確かに便利ですが、地方でも必要なものはそろうし、どこへ行ってもそれほど変わらない生活ができる。だとしたら、自分が惹かれた街で、惹かれた人たちと、したい暮らしをすることが大切なのではないか。そう思って、鹿沼へ移り住むことを具体的に考え始めたんです」 東京の郊外に引っ越すような感覚で 人と自然、文化に加えて、東京からのアクセスの良さも、鹿沼に惹かれたもう一つの理由だ。「新鹿沼駅」からは、特急で都心まで1時20分ほど。これまで、羽田や成田へ1時間半ほどかけて通勤していた武藤さんにとって、鹿沼は意外と近いと感じた。 「移住と言うと、山の中などへ一大決心をして移り住むイメージがありますが、私にとって鹿沼への移住はそれほど大袈裟なものでなくて、東京の郊外に引っ越すような感覚でした。鹿沼に限らず栃木県全体に言えることかもしれませんが、東京へのアクセスの良さが、移住を考える人にとって一つの魅力になっていると思います」 とはいえ、転職は大きな決心だった。締め切り数日前に見つけた市役所の採用試験に応募し、見事に合格したことで、鹿沼への移住は現実のものとして一気に動き出した。こうして2020年9月、武藤さんはこの街での新たな暮らしをスタートした。 鹿沼市役所の中でも、教育委員会事務局で働く武藤さんは、主に奨学金貸付業務と入札業務を担当している。 「部署の上司や同僚たちは、鹿沼歴が浅い私のことをとても優しくフォローしてくださいます。仕事のことはもちろん、鹿沼のことも、もっともっと詳しくなって、地域の役に立てる職員になりたいです」 日々の小さな喜びの積み重ねが、QOLを高める 鹿沼に移り住んでからは、市役所で働きながら、休日にはランニングやカフェ巡り、ボタニカルキャンドルづくり(下写真)を楽しんだり、日光や宇都宮まで車で出かけたり、ときには東京まで遊びに行ったりと、充実した毎日を過ごしている。 「私は移住とともに起業したり、新たにお店を始めたりしたわけではなく、平日は仕事をして休日に趣味などを楽しむという生活スタイルは、大きく変わっていません。それでも、日々の食事や通勤、ウォーキングなどの満足度が、ちょっとずつ上がり、全体として暮らしが豊かになったなと実感しています」 例えば、この街では、おいしい地元の食材が手軽に入手できる。自転車通勤の途中に美しい花が咲いていたり、虫がいたり、夜には星が見えたり、ときには雷が鳴ったり、四季の移り変わりを肌で感じながら生活できる。鹿沼には何かにチャレンジする人が身近に多く、自分も頑張ろうと刺激を受けられる。もちろん、家賃などが安いのもうれしいポイント。東京と同じ金額で、より広く新しい住まいに暮らすことができる。 こうした積み重ねが、いわゆるQOL(Quality of Life)の向上につながっている。 そして、移住して2年目の2022年に、武藤さんは結婚。ご主人も東京からこちらへ移り住んだ。 「主人はシステムエンジニアで、リモートワークが定着してきたことで、仕事を辞めることなく鹿沼に移住できました。彼はキャンプが趣味なので、これからはもっとアウトドアのアクティビティも満喫していきたい。2024年にはスノーピークが運営するキャンプフィールドが、鹿沼市にオープンするのもとても楽しみです!」 今後、数年間中止となっている「秋まつり」や、さまざまなイベントが開催されるようになったら、積極的に参加して、地域の人や移住者どうしのつながりをもっと広げていきたいと考える武藤さん。 「勇気を持って一歩を踏み出し、鹿沼でのコミュニティを築いていきたい。そして、これから鹿沼に移り住む人が、安心して移住できる環境をつくるなど、大好きなこの鹿沼に恩返しをしていきたいです」

おいしくて楽しい! この街の名物

おいしくて楽しい! この街の名物

染谷 典さん

新しい発想×昔ながらの製法で、いままでにないどら焼きを 暖簾をくぐると、雑誌の切り抜きが壁一面に飾られた店内に、どら焼きが種類ごとにトレーに収められ、ずらりと並んでいる。その光景は、まるでパン屋かカフェのよう。「バタどら」や「小豆と栗どら」をはじめとした定番から、「桜バター」や「よもぎきなこ」などの季節もの、さらに「マシュマロチョコ」や「モンブラン」といったニュータイプの商品まで、常に20~30種類のどら焼きがそろう。ポップに目をやると、「全身に塗りたい香りとコク!」(桜バター)や、「ポーチに入れたい程の好感!」(桜小豆)など、思わずクスっとしてしまうような、遊び心とパンチのきいた文字が躍っている。 「うちでは、どら焼きの皮のことを“バンズ”と呼んでいて、『バンズで挟めば、それはもうどら焼きだ』というルールを、勝手に決めているんです」 そう話す店主の染谷さんが、これまで手がけてきたどら焼きは120種類以上。コロッケやハンバーガー、お惣菜(!?)などの変わり種にも挑戦してきた。といっても、試作の方法はいたって真面目だ。染谷さんは、女性スタッフの意見も取り入れながら何度も試作を重ね、納得のいったものだけを店頭に並べている。また、県内はもちろん、東京の和菓子屋などへも、定期的に足を運ぶ。 「名店と言われるところは悔しいけどおいしくて、刺激を受けますね。何が違うんだろうって、店に帰ってきては材料を見直したり、作業工程を変えてみたり、けれど結局、うまくいかなくて元に戻したり……。そんなことばかり、ずっとやっています」 皮の生地には、「イワイノダイチ」という栃木県産の小麦粉や、大田原産の卵など、できるだけ地元のものを使用。防腐剤や保存料は使っていない。それを、熱伝導率の高い銅板で、一枚一枚、片面が焼けたら裏返してもう片面を焼くという、昔ながらの“銅板一文字の手焼き”を今も続けている。多いときには、一日500~600個分の皮を焼くこともあるという。 「最近は、機械を使って焼くフワフワな食感の皮が多いなかで、しっかりとした歯ごたえがあるのが、うちの特徴。これだけは変わらずに、守り続けています」 栃木へ戻るつもりは、まったくなかった 東京で生まれ育った染谷さんが、両親の地元である間々田へ引っ越したのは、中学3年生のこと。その後、高校3年間をこの地で過ごしたが、大学進学をきっかけに、また東京で一人暮らしを始めた。卒業後は、海運会社に3年半、アパレル会社に6年半勤め、アパレル時代には、海外での買い付けも経験した。「栃木へ戻るつもりは、まったくなかったですね」と振り返る。 そんな染谷さんが地元へ戻る決心をしたのは、三代目として和菓子屋を切り盛りしていた伯父さん(母親の姉の夫)が80歳になり、引退して店を閉めるのを決めたことがきっかけだった。 「母も、退職していた父も和菓子屋を手伝っていて、たまに電話で話すと、店を閉めることをとても残念そうに思っているのが伝わってきて。ちょうどそのころ、ぼくは独立して自分の店を開きたい、なかでも飲食関係がやりたいと考えていたこともあり、継ぐ決心をしたんです。また、当時はなんとなく地元に苦手意識があって、それを克服したいという気持ちも、少なからずありましたね」 老若男女、誰もが気楽に立ち寄れる店に Uターンしてからは、名物だった饅頭をはじめとした、和菓子づくりに没頭。失敗を繰り返しながら、約35種類の和菓子をつくり続けてきた。そのなかで、どら焼き専門店へと業態を変えたのは、どんな理由からだろう? 「当時、調査をしてみたら、お客さんの95%くらいが60歳以上の女性でした。僕は、その年齢層を下げて、若い人や男性も含め、老若男女が気楽に来られる店にしたかったんです」 そこで、和菓子屋を続けながら、まずは5年半前に茨城県の古河市に1号店を、その2年後には和菓子屋を辞めることを決意すると同時に、間々田に2号店を、さらに2年後に、小山駅のほどちかくに3号店をオープンした。 「数多くある和菓子のなかから、どら焼きに絞ることにも迷いはありませんでした。どら焼きは、子どもから年配の方まで誰もが好きで、和洋どちらの食材にも合い、表現の幅も広い。実は、定番商品の一つである『バタどら』は、和菓子屋だったころから人気商品の一つだったんです」 生産者や商店主のみんなと、一緒に盛り上がっていきたい 和菓子屋を継いだばかりのころは、ネーミングから使う素材まで、地元色を出そう、出そうとしていたという。けれど、それは表面的なものとなってしまっていたのか、最初は売り上げが伸びるが、リピートにはつながらなかった。そのため、あえて今は、地域らしさをそこまで意識はしていない。 「単純に、おいしいからまた食べたい! デザインが可愛いから、面白いから手土産に持っていこう! その繰り返しのなかで、『間々田といったらワダヤのどら焼きだよね』と名物になっていく。それが大事なんだと、失敗もしながら(笑)、気が付きました。どら焼きは、手を汚さずにワンハンドで食べられます。ファーストフード感覚で気軽に、おいしいどら焼きを楽しんでもらえたら、それが変わらない思いです」 現在でも、古河のカボチャやニンジンなど、地元の食材を使ったどら焼きをつくっているが、小山のハト麦など、少しずつ新たな特産品を使った商品にも挑戦していきたいと考えている。一方で、染谷さんは、音楽ライブやマルシェ、農家の収穫祭、雑貨屋の企画展など、仲間が主催するさまざまな地域のイベントにも出店。自身も「Mamamada FES」というロックフェスなどを運営している。 「地域の食材を積極的に使うのは、地元の農家さんと一緒に頑張っていきたいから、イベントに力を入れるのは、小山市はもちろん、県をまたいだ古河市や結城市で活動する魅力的な商店主たちと、みんなで一緒に盛り上がっていきたいから。それが結果的に、この地域全体を楽しくすることにつながっていったらいいなと考えています」

日々を丁寧に、栃木暮らしを満喫中!

日々を丁寧に、栃木暮らしを満喫中!

小栗恵子さん

横浜、東京を経て、地元の宇都宮へUターン この日の朝、小栗さんと待ち合わせたのは、週に数日、ウォーキングを楽しんでいるという、宇都宮市の街なかにある「栃木中央公園」(上写真)。そのあと、公園からほど近い「光琳寺」へ(下写真)。光琳寺では、毎月1日に誰でも参加できるラジオ体操と朝参りを行っていて、小栗さんは母親とよく参加しているという。「地域の幅広い年代の方たちと交流できる、いい機会になっています」と話す。 さらに、このあと訪れた「White Room COFFEE」や、中央公園そばの自家焙煎コーヒーショップ「FRENCH COFFEE FANCLUB」などのカフェをはじめ、雑貨店やパン屋、古書店などを巡るのも好きだという小栗さん。お気に入りのカフェなどで知り合った友人たちと一緒に、県内にとどまらず、茨城や群馬など県外のカフェにもよく足を運んでいる。 こんなふうに、栃木暮らしを満喫している小栗さんだが、「一度、宇都宮以外での暮らしも体験したい」と横浜の大学に進学し、4年間を過ごした。その後、「自分なりに地域に貢献できる仕事に就きたい」という思いを胸に就職活動を行い、全国で地域に根差した雑貨店を運営する会社に就職。最初に配属された宇都宮の店舗で3年間経験を積んだあと、バイヤー職として東京へ。 宇都宮の店舗で働いていたころ、よく訪れていたカフェが「伊澤商店」だ。そこで、「自分から一歩踏み込んで興味を持つことで、店主やそこに居合わせたお客さんとの距離が知縮まり、人のつながりが広がっていく楽しさ」を知った。 「でも、東京での3年間は仕事一色の生活で、もちろん得られたこともたくさんありましたが、カフェを巡ったり、音楽や映画を楽しんだりという自分の好きなことは、置き去りになっていました」 そして、2013年、小栗さんは宇都宮へのUターンを決意する。 「体調を崩したこともあったのですが、趣味の時間を大切にしたり、新たな何かを学んだり、自分の好きなもの、興味があることに、丁寧に向き合っていきたいと思ったことが、Uターンを決めた大きな理由です」 栃木には魅力的な場だけでなく、それを上手に楽しむ人も多い 宇都宮に戻ってから、小栗さんは大学で学んだ法律の知識を活かし、市内の土地家屋調査士事務所に勤めている。その仕事内容は地域に根差したもので、「地域に貢献したい」という思いは、雑貨店で働いていたころから変わらないという。 そして、休日にはカフェを巡ったりするなかで、偶然の出会いから始まる人とのつながりが増えていった。例えば、行きつけのカフェでたまたま居合わせた女性と意気投合し、一緒にカメラのワークショップに参加したり、同じカフェで、よく訪れる地元の映画館「ヒカリ座」のスタッフと知り合い映画館のイベントに参加したり、SNSを通じて知り合った作家さんに名刺入れ(下写真)をつくってもらい、その後、共通の趣味である山登りやトレッキングツアーに参加したり、自分の好きなことを大切に、一歩踏み込んで人と接することで、同じ興味を持つ仲間との出会いがどんどんと広がっている。 「地元に戻って感じたのは、栃木では宇都宮だけではなく各市町に魅力的なお店があり、それぞれがイベントや情報発信など、新たな挑戦をしているということ。例えば、マルシェやクラフトイベントはもちろん、各地の古書店が集うイベントや音楽イベント、ワインや日本酒を楽しむイベントなど、『小さなワクワク』があらゆるところに散りばめられていて、共通の趣味や興味を持つ人と仲良くなるきっかけがたくさんあります」 さらに、同時に感じるのは、暮らす人の受信力の高さ。 「栃木には、アンテナの高い方が多くて。もともと栃木に住んでいる人、移り住んだ人、また年代や性別にかかわらず、新たな情報をうまくキャッチし交換しながら、栃木暮らしを満喫している人がたくさんいらっしゃいます」 その情報の範囲は、県内にとどまらない。「お店どうしは、けっこう県をまたいで交流している」と小栗さんが話すように、栃木のお店が茨城や群馬のイベントに出店することや、その逆もあり、小栗さんもドライブがてら、県外のイベントへ出かけることもあるという。 「栃木県は北関東の中心にあり、茨城や群馬、埼玉などの近県にアクセスしやすく、自然と自分のフィールドが広がっていくところも大きな魅力ですね」  (取材中に立ち寄った、光琳寺近くにある「BAKERY SAVORY DAY」にて) 日々の出会いと、好きなことに丁寧に向き合いながら 最後に訪れた「White Room COFFEE」では、栃木に戻ってきてから出会った友人たちと一緒に食事を楽しんだ。 「彼女たちのように栃木での暮らしを満喫している人や、私と同じようにUターンして、外での経験を生かし魅力的なお店を営んでいる人に会うと、本当にたくさんの刺激を受けます。『自分も何かに挑戦してみたい』という気持ちが、自然とわいてくるんです」 高校時代は吹奏楽部で、大学時代はビッグバンドジャズサークルでトロンボーンを吹いていた小栗さん。これからは、「ジャズの街」と呼ばれる宇都宮で、もう一度、楽器を始めてみたいと考えている。 「これからも日々の出会いを大切に、自分の好きなことに丁寧に向き合いながら、栃木での暮らしをもっともっと楽しんでいきたいです」

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

中村純さん・後藤洋平さん

地域づくりを、自分の仕事にするために 東京農業大学で林業を学んでいた中村純さんは、その頃から地元・栃木市で、地域づくりのボランティアなどに参加。地域や林業にかかわる仕事に就きたいと考えたが、なかなか生計を立てていく道が見つからず、都内の大手ハウスメーカーに就職した。 中村さん:「営業の仕事を通じて、民間ではこうやって泥臭く必至に取り組んでいるから、利益を生むことができるんだと実感しました。やりたかった地域の仕事も、ボランティアでは続けられない。好きなことを続けるためには、その道でお金を稼ぐことが重要だと学んだんです」 27歳でハウスメーカーを退職し、東日本大震災の被災地でボランティアとして活動。そこで知り合った人にすすめられて、鎌倉のゲストハウスで働き始めた。 中村さん:「そこで、ゲストハウスのオーナーはもちろん、ウェブデザイナーやカメラマンなど、やりたいことを仕事にして面白く生きている人たちと出会い、こんな生き方もあるんだと視野が広がりました。自分もやっぱり地域に携わりながら生きていきたいと、地元に戻る決意をしたんです」 栃木市にUターンしてから、中村さんはまちづくりのワークショップなどに参加。そこで出会った人たちに、空き家バンクなどの企画書を見てもらったことをきっかけに、ビルススタジオのことを教えてもらった。ホームページを見ると、ちょうど人材募集の告知が! すぐに応募し、2011年の冬から不動産担当として働くことになった。 地域のことを考えながら建築をつくる 高校3年の大学受験が近づいたとき、後藤洋平さんは進路について迷っていた。後藤さんの父親は設計事務所を運営。しかし父と同じ道に進むのがなんとなく嫌で、一度は違う分野の学部を受験した。 後藤さん:「けれど、後期試験までの間に、父の建築の本を読んだり、設計した家を見に行ったりして、『人が生活する場所をつくる』という設計の仕事の面白さに強くひかれました。無理をいって浪人させてもらい、翌年、新潟大学の建築学科に進学したんです」 大学では、県内の豪雪地帯にある街で、古くから雪よけの通路としてつくられてきた大きな軒のような「雁木(がんぎ)」を、設計・制作する活動にも携わってきた。 後藤さん:「雁木は地域にとってのアイデンティティなんです。軒を連ねる家の一軒でも雁木を壊してしまうと、通路が途切れてしまうだけでなく、まちの誇りが失われてしまう。地域住民や自治体と協働して雁木通りを再生するプロジェクトに参加し、地域のことを考えながら建築をつくることの面白さを体感したんです」 卒業後は、都内の大手ゼネコンに就職。当時から、いずれ地元で設計事務所を開きたいと考えていたため、休日などに栃木市に帰省し、地域づくりの活動にも携わっていた。 後藤さん:「そんな頃、すでにビルススタジオで働いていた中村から『設計スタッフを募集しているぞ!』って電話があって。後日、もみじ通りの店主の方たちが集う忘年会に参加させてもらいました。そこで『単に建物を設計するだけではなく、場のコンセプトから不動産も含めて総合的に場所をつくっていく』というビルススタジオの取り組みを知ったとき、自分のやりたかったことはこれだ!と思ったんです」 新たな場から、広がっていく化学反応 築年数が経った物件や大谷石の蔵、倉庫など、一般的な不動産会社では扱われにくい、「ひとクセあるが、他にはない魅力を持った物件」を街から掘り起し、そこで営まれるライフスタイルまでを含めて提案するのが、中村さんの仕事。 一方、後藤さんは、入居や購入する人が決まった段階から、その人の思いや建物・土地が持つ魅力を大切に、コンセプトづくりから図面作成、見積もり、現場監理、引き渡しまで、すべてに携わっている。 ときには、二人のそれぞれの視点から、建物を活用していくための事業プランを考え、オーナーや入居希望者に提案することもあるという。 中村さん:「例えば、宇都宮市内にある大谷石でできた倉庫群のオーナーさんから、『個人か借りるには建物が広すぎて、入居者が見つからず困っている』と相談を受けました。大谷石の壁や鉄骨のトラス梁は無骨なつくりで、とても魅力的に感じたので、複数の店舗が集まる場所にリノベーションすることを提案。現在では、美容室や飲食店などの個性的な5店舗が入居する『porus(ポーラス)』というエリアに生まれ変わりました」 また、「宇都宮のまちなかで、面白い暮らし方をしたい」と希望していた方に、眺望に優れた6階建てのビルの最上階を提案。併せて、1~5階はシェアハウスとして活用する事業プランを提示したことをきっかけに、宇都宮市内初のシェアハウス「KAMAGAWA LIVING」が誕生した。 中村さん:「シェアハウスの住人たちが、近隣のお店が開催しているイベントに参加したり、地域の人たちと一緒に雪かきをしたり、新たな場ができたことで化学反応が起こり、交流や活動が広がっていくは、やっぱり嬉しいですね」 後藤さん:「僕たちが見つけ出した物件や、リノベーションした空間に共感してくれる人たちが集まってきてくれることもあり、自然と交流や新たな活動が生まれやすいのだと思います」 街の人とつながる“入り口”を、栃木市に 中村さんと後藤さんは、もう一人の同級生である大波龍郷さんと「マチナカプロジェクト」を立ち上げ、栃木市の地域づくりにも携わっている。 後藤さん:「マチナカプロジェクトをきっかけに、栃木市の中心部に誕生したシェアスペース『ぽたり』のコンセプトづくりや内装デザインなどをサポートさせてもらいました。ここではさまざまなイベントやワークショップが開催され、新たな出会いや人のつながりが生まれつつあります」 さらに、現在マチナカプロジェクトでは、栃木市の中心部にある空き建物を改装し、カフェやゲストハウスなどが入居する場をつくろうと計画している。 後藤さん:「いちばんの目標は、この場所を栃木市で新しい何かを始めたい人たちが、街の人とつながる“入り口”にすること。『もみじ通り』のように、この場所をきっかけに新たなお店が次々と誕生していく拠点にしていきたいです」 中村さん:「もう一つの目標は、ここの運営を通じてマチナカプロジェクトとして利益を上げていくこと。それこそが継続的にまちづくりに携わり、地域の魅力を高めていくためには大切だと思うんです」

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