interview

地方都市の暮らし(タウン暮らし)

装飾 装飾
日々を丁寧に、栃木暮らしを満喫中!

日々を丁寧に、栃木暮らしを満喫中!

小栗恵子さん

横浜、東京を経て、地元の宇都宮へUターン この日の朝、小栗さんと待ち合わせたのは、週に数日、ウォーキングを楽しんでいるという、宇都宮市の街なかにある「栃木中央公園」(上写真)。そのあと、公園からほど近い「光琳寺」へ(下写真)。光琳寺では、毎月1日に誰でも参加できるラジオ体操と朝参りを行っていて、小栗さんは母親とよく参加しているという。「地域の幅広い年代の方たちと交流できる、いい機会になっています」と話す。 さらに、このあと訪れた「White Room COFFEE」や、中央公園そばの自家焙煎コーヒーショップ「FRENCH COFFEE FANCLUB」などのカフェをはじめ、雑貨店やパン屋、古書店などを巡るのも好きだという小栗さん。お気に入りのカフェなどで知り合った友人たちと一緒に、県内にとどまらず、茨城や群馬など県外のカフェにもよく足を運んでいる。 こんなふうに、栃木暮らしを満喫している小栗さんだが、「一度、宇都宮以外での暮らしも体験したい」と横浜の大学に進学し、4年間を過ごした。その後、「自分なりに地域に貢献できる仕事に就きたい」という思いを胸に就職活動を行い、全国で地域に根差した雑貨店を運営する会社に就職。最初に配属された宇都宮の店舗で3年間経験を積んだあと、バイヤー職として東京へ。 宇都宮の店舗で働いていたころ、よく訪れていたカフェが「伊澤商店」だ。そこで、「自分から一歩踏み込んで興味を持つことで、店主やそこに居合わせたお客さんとの距離が知縮まり、人のつながりが広がっていく楽しさ」を知った。 「でも、東京での3年間は仕事一色の生活で、もちろん得られたこともたくさんありましたが、カフェを巡ったり、音楽や映画を楽しんだりという自分の好きなことは、置き去りになっていました」 そして、2013年、小栗さんは宇都宮へのUターンを決意する。 「体調を崩したこともあったのですが、趣味の時間を大切にしたり、新たな何かを学んだり、自分の好きなもの、興味があることに、丁寧に向き合っていきたいと思ったことが、Uターンを決めた大きな理由です」 栃木には魅力的な場だけでなく、それを上手に楽しむ人も多い 宇都宮に戻ってから、小栗さんは大学で学んだ法律の知識を活かし、市内の土地家屋調査士事務所に勤めている。その仕事内容は地域に根差したもので、「地域に貢献したい」という思いは、雑貨店で働いていたころから変わらないという。 そして、休日にはカフェを巡ったりするなかで、偶然の出会いから始まる人とのつながりが増えていった。例えば、行きつけのカフェでたまたま居合わせた女性と意気投合し、一緒にカメラのワークショップに参加したり、同じカフェで、よく訪れる地元の映画館「ヒカリ座」のスタッフと知り合い映画館のイベントに参加したり、SNSを通じて知り合った作家さんに名刺入れ(下写真)をつくってもらい、その後、共通の趣味である山登りやトレッキングツアーに参加したり、自分の好きなことを大切に、一歩踏み込んで人と接することで、同じ興味を持つ仲間との出会いがどんどんと広がっている。 「地元に戻って感じたのは、栃木では宇都宮だけではなく各市町に魅力的なお店があり、それぞれがイベントや情報発信など、新たな挑戦をしているということ。例えば、マルシェやクラフトイベントはもちろん、各地の古書店が集うイベントや音楽イベント、ワインや日本酒を楽しむイベントなど、『小さなワクワク』があらゆるところに散りばめられていて、共通の趣味や興味を持つ人と仲良くなるきっかけがたくさんあります」 さらに、同時に感じるのは、暮らす人の受信力の高さ。 「栃木には、アンテナの高い方が多くて。もともと栃木に住んでいる人、移り住んだ人、また年代や性別にかかわらず、新たな情報をうまくキャッチし交換しながら、栃木暮らしを満喫している人がたくさんいらっしゃいます」 その情報の範囲は、県内にとどまらない。「お店どうしは、けっこう県をまたいで交流している」と小栗さんが話すように、栃木のお店が茨城や群馬のイベントに出店することや、その逆もあり、小栗さんもドライブがてら、県外のイベントへ出かけることもあるという。 「栃木県は北関東の中心にあり、茨城や群馬、埼玉などの近県にアクセスしやすく、自然と自分のフィールドが広がっていくところも大きな魅力ですね」  (取材中に立ち寄った、光琳寺近くにある「BAKERY SAVORY DAY」にて) 日々の出会いと、好きなことに丁寧に向き合いながら 最後に訪れた「White Room COFFEE」では、栃木に戻ってきてから出会った友人たちと一緒に食事を楽しんだ。 「彼女たちのように栃木での暮らしを満喫している人や、私と同じようにUターンして、外での経験を生かし魅力的なお店を営んでいる人に会うと、本当にたくさんの刺激を受けます。『自分も何かに挑戦してみたい』という気持ちが、自然とわいてくるんです」 高校時代は吹奏楽部で、大学時代はビッグバンドジャズサークルでトロンボーンを吹いていた小栗さん。これからは、「ジャズの街」と呼ばれる宇都宮で、もう一度、楽器を始めてみたいと考えている。 「これからも日々の出会いを大切に、自分の好きなことに丁寧に向き合いながら、栃木での暮らしをもっともっと楽しんでいきたいです」

地域に開かれた工房を目指して

地域に開かれた工房を目指して

大山 隆さん

生活の中にものづくりの現場がある風景を 「はじめて溶けた状態のガラスに触れたとき、衝撃を受けたんです。普段の涼やかな印象とは真逆で、熱くエネルギッシュで刻々と姿を変えていく。一気にその魅力の虜になりました」 それは大山隆さんが美大進学を目指し、予備校に通っていた頃のこと。それから20年近く経った今も感動は色あせることなく、ますますガラスの魅力にひきつけられている。 和菓子職人の家に育った大山さんは、小さな頃から絵を描いたりすることが好きだった。予備校に通っていた頃、講師の工芸家に陶芸や金工、ガラスなどの制作現場を案内してもらう。そのなかで“吹きガラス”に強くひかれ、富山ガラス造形研究所に進学した。 「当時、10代だった自分にとって、工芸家の先生との出会いも衝撃的でした。その方は、金属で野外に展示するような巨大な作品を制作している工芸家で、生活のすべてが制作や表現を中心に回っている。一つの素材を一生かけて探求していくような生き方に憧れを感じていたとき、出会ったのがガラスだったんです」 富山ガラス造形研究所で2年間、基礎となる技術を学び、静岡のガラス工房で4年間、さらに富山の工房で5年間働き経験を積んだ。どちらの工房も仕事の空いた時間で自分の作品を制作でき、「とても恵まれた環境だった」と振り返る。その後、大山さんは栃木県内で物件を探し、2011年に鹿沼市で「808 GLASS」を設立。「808」という屋号は、実家が営む和菓子屋の「山屋」から名付けた。 工房があるのは、観光地やガラスの産地でも、山のなかでもない、“街なか”だ。 「例えば、子どもたちが毎朝、工房をのぞきながら学校へと向かう。そんな生活の中にものづくりの現場がある風景を、制作の様子を感じてもらえるような環境をつくりたかったんです」 シンプルで使いやすく、美しい光をまとう作品を 取材当日、工房で制作の様子を見学させてもらった。まず驚いたのは、ガラスを溶かす窯や作業台などは、すべて大山さんの自作だということ。独立直前の2年間、富山の工房で窯のメンテナンスなどを担当していた経験が生かされている。 大山さんは、1200度にもなる窯から溶けたガラスを手際よく竿に巻き付け、空気を吹き込んでいく。さらにガラスを巻き付け、空気を吹き込むという工程を何度か繰り返し、目指す大きさになったら型吹きを行い、模様をつけていく。わずか15分ほどで、きれいに輝くガラスの器ができあがった。 この作品(下写真)は、当初からつくり続けている「flower」というシリーズ。制作で大切にしているのは、 “透明度”だ。 「ガラスを再利用するときに不純物が混ざっていると、色がついてしまうんです。だから、徹底的に取り除くようにしています」 もう一つ、大切にしているのは、“使い心地”。作品は一度形にしたうえで、自分たちで使いながら改良を重ねていく。 「吹きガラスは技術職の面が大きく、技術や素材に対する表現の探求は欠かせません。でも、そればかりを追い求めてしまうと、自己満足に陥ってしまう。だからこそ、実際に使っていただいている方の反応や声を取り入れながら、自分たちでも使って、妻からも厳しい意見をもらいながら(笑)、一つひとつ丁寧にものづくりをしています。目指すのは、長く生活の中で使えるもの。デザインはなるべくシンプルに、かつ技術の追求は続けながら、美しい光をまとう作品を届けたいと思っています」 ガラスと人、人と人が出会う場所に 工房の横には、大山さんの作品がそろうショップがあり、予約制で体験教室も開催。大山さんに教えてもらいながら、オリジナルデザインの作品をつくることができる。 鹿沼に移住してから、大山さんはこの地で長年続く「鹿沼秋祭り」に参加。すると、だんだんと地域の人たちも工房に立ち寄ってくれるようになった。「鹿沼で制作を行う魅力は?」とたずねると、次のように話してくれた。 「鹿沼には、普段からお世話になっている『アカリチョコレート』さん(下写真)をはじめ、個人が営むお店が多く、料理人や焙煎士、木工職人など、真摯にものづくりに打ち込む方がたくさんいます。ジャンルは違えど、その姿勢や思いなどから多くの刺激をいただいています」 工房に訪れる人たちの声から、新たな作品も生まれている。例えば、カラフルなグラスは、当初は5色のみを用意していたが、お客さんの声をとり入れるうちにどんどんと色数が増え、現在では24色のシリーズに。 「自分の作品に、お客さんの声という別の要素が加わり作品が進化していく。それはとても新鮮で、刺激になっています。街に開かれた工房を目指したことで、ここが『素材と人』、『人と人』が出会う場所になりつつあるのが嬉しいですね。これからも体験教室などに力を入れ、ガラスの魅力を発信していきたい」 これから独立を目指す、若手作家の受け皿に 大山さんには、これから力を入れていきたいことが二つある。一つは、制作過程でどうしても出てしまう廃棄されるガラスの再利用だ。 「美しいものをつくろうとする半面、廃棄しなければならないものが出てしまうという矛盾を、当初からなんとかしたいと考えていました。まだ実験段階なのですが、新たな設備をプラスし、魅力ある作品を生み出すことで、素材を循環させる仕組みをつくっていきたい」 もう一つ力を入れていきたいのは、ガラス作家を志す若手が働ける場をつくること。今年から一人、スタッフを入れる予定だ。 「自分がそうさせてもらったように、仕事が終わった後に自分の作品もつくれるような環境を届けていきたい。それによって、少しでもこの業界に貢献できたらと思っています」

目指すのは、地域に役立つレストラン

目指すのは、地域に役立つレストラン

照井康嗣さん

高根沢の野菜をふんだんに使った本格イタリアン 高根沢町にある「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」を訪れたのは、平日の午後1時半頃。それにもかわらず、店内は多くの人で賑わっていた。お客さんのお目当ては、栃木県産小麦「ゆめかおり」で打った自家製の生パスタランチ。高根沢産の新鮮な野菜が10種類以上味わえる、サラダビュッフェが付いているのも人気の秘密だ。 「高根沢では農業が盛んで、玉ねぎやカブ、ニンジンなど、馴染みのある野菜が抜群においしいんです」 そう話すのは、店主の照井康嗣さん。大学の頃から海外で働くことに憧れていた照井さんは、「イタリア研修旅行あり」という募集を目にし、地元・埼玉県熊谷市にあるイタリアンレストランで働き始めた。そこで5年間働きながら資金を貯め、語学を学び、2003年にイタリアへ。 国立のホテル学校で基礎を学んだ後、イタリア各地の郷土料理を学ぶために、まずは最高品質のワインの生産地として知られるピエモンテ地方へ。その後、アドリア海に面したマルケ地方で海の幸を生かした料理を、山岳地帯のアルト・アディジェ地方で山の料理を経験。星付きレストランを中心に、計5年間修業した。 帰国後は、南青山や六本木などのイタリアンレストランで8年間、シェフを務めてきた。そんな照井さが高根沢町への移住を決心したのは、どんな理由からだろう? 「実は、東京のレストランで働いていた頃から高根沢産の野菜を料理に使っていて、移住前からそのおいしさを実感していました。修業したイタリアの田舎町ような、豊かな食材が身近にある環境で店を持ちたいと考えていた私にとって、高根沢は最適な場所だったんです。また、実は下の子に障がいがあって、自然に囲まれた環境で子育てをしたいと思ったのも大きな理由の一つです。妻の育児の負担を考え、妻の実家がある高根沢を選びました」 野菜をつくる人と、食べる人をつなぐ場所に 2016年1月に高根沢町に移住した照井さんは、事業計画書をまとめたり、物件を探したりと、開店準備を急ピッチで進めた。そんななか高根沢町の職員と出会い、「創業支援事業計画」のことを知る。これは、町と商工会、農協、金融機関などが連携して創業を後押しする制度。照井さんは経営や財務などの講座を受講したほか融資の支援も受け、この制度の第一号として、2016年9月に「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」をオープンした。 店名は、イタリアに渡り初めて働いたレストランの名前からいただいた(上は、店内に飾られたイタリア修業時代の写真)。「ヴェッキオ・トラム」とは、イタリア語で「古い路面電車」という意味。田園風景のなかを烏山線が走る、高根沢の環境にぴったりだと感じたという。また、「食堂」と名付けたのにも理由がある。 「東京では各レストランが、イタリア料理なかでも『この州の郷土料理』といった特色を出しながら競い合っています。食材も現地から仕入れることが多いので、高額になってしまう。その料理をそのまま高根沢で提供しても、単なる独りよがりで、受け入れられないと思ったんです。高根沢には、身近においしい野菜がたくさんある。それを生かした親しみやすいイタリア料理を届けたいと考え、あえて『食堂』と名付けました」 たとえば、サラダビュッフェ(上写真)では、高根沢産の野菜を、茹でる、蒸す、焼くなどシンプルな調理法で提供。店内では、高根沢の野菜とともに、パスタやオリーブオイル、塩などを販売するコーナー(下写真)を設けている。 「高根沢の野菜は素材が本当にいいので、あえて余計な手は加えないようにしています。塩とオリーブオイルで野菜そのもののおいしさを味わう、イタリアの食文化も楽しんでいただけたらと思っています。また、ここで食べておいしいと感じていただいた料理を、自宅でも気軽につくれるように食材も販売。このお店から地域の野菜の魅力を発信していくことで、高根沢の農家と人をつなぐ役割も果たしていけたらと考えています」 地域とともに成長していく店でありたい 高根沢に移住して何よりもよかったのは、食材をつくる農家と直接話ができることだ。 「高根沢には、農業に取り組む若い人たちが数多くいます。そんな彼らとともに、食材の魅力を生かした加工品を開発していきたい。味の追求はもちろん、パッケージもおしゃれに仕上げることで、一緒に高根沢ブランドを築いていけたらと思っています」 そんな6次産業化の成功モデルをつくり、農業のイメージアップを図っていくことで、農業をやってみたいという担い手が増えるのではないか。また、新たな産業や雇用を生み出すことで、地域の魅力が高まっていけばと、照井さんは考えている。その第一歩として、今年の春に、若手農家とともにイタリアを訪れ、向こうの農業や食文化などを体験する研修旅行を実施した。 「高根沢に来て一番変わったのは、『地域のために』という視点が生まれたこと。このお店は、いろんな方にサポートしていただいたおかげでオープンすることができました。だからこそ、このお店を通じて高根沢を元気にしていきたい。これからヴェッキオ・トラムが、地域とともに成長していくのが楽しみです」

長く手元に置きたくなるデザインを

長く手元に置きたくなるデザインを

惣田紗希さん

より長く、その人の生活のなかにあるものを どこか切なく透明で、でも、奥底に強い意志を持っている。惣田紗希さん自身が“女の子”と呼ぶそのイラストをはじめて目にしたとき、そんなふうに感じた。 「この女の子は、誰でもなくて。描き始めたのは、あるコンテンポラリーダンスの映像を見たことがきっかけでした。同じ格好の女性が建物のなかでひたすら踊るシーンを目にしたとき、『体のラインがキレイだな』って思って。人の体を描きたいという思いから、半袖半ズボンになって、鼻と口が省略されていって……。最初は仕事とは別に、自分の日常の記録というか、考えを整理するために描いていたんです」 都内のデザイン事務所で、実用書などのデザインを手がけていた惣田さんは、2009年に退職。ちょうどその頃、友人に頼まれて「cero」というバントのジャケットデザインを担当したことをきっかけに、音楽関連のデザインを数多く手がけるようになった。仕事でイラストを描くようになったのも、CDジャケットがきっかけ。 「描きためていた“女の子”のイラストを、『ザ・なつやすみバンド』のメンバーが、『無機質だけどポップな雰囲気もあっていいね』と気に入ってくれて。ジャケットに女の子のイラストを描かせてもらったところから、キャラクターとして広まっていって。書籍や雑誌でのイラストの仕事も増えていったんです」 それまで、グラフィックデザイナーとして活動してきた惣田さん。イラストの依頼が増えるにつれて、「本業として経験を積んできたわけではないのに、自分がイラストレーターと名乗っていいのか」という葛藤もあった。 「でも、デザインの先人を見ると、自分でイラストを描き、デザインも手がけている人はけっこう多くて。どちらからの視点も、自分の仕事には大切な要素が多いことに気づいてからは、イラストの仕事も楽しくなってきました。今では、写真家やイラストレーターなど、いろんな人の力を借りて誌面をつくり上げるデザイナーの仕事も好きだし、イラストレーターとして誰かの力になることも面白いなって感じています」 現在、仕事の割合はデザインとイラストで半々。そのどちらの仕事をするうえでも、大切にしていることがある。 「音楽も本もデータで買える時代に、せっかくモノとして届けられるのなら、より長くその人の生活のなかにあり続けられるものをつくりたい。だから、『ジャケットを部屋に飾っています』『ブックレットを繰り返し読んでいます』などと言ってもらえたときは、本当に嬉しいんです」 惣田さんは、イラストを仕事で手がけるようになってから、1日1枚を目標にイラストを描き、SNSにアップしてきた。それられのイラストが韓国の出版社の目にとまり、『Waving Lines』という作品集として出版されている。 足利だからこそ生まれた、新たな作品 足利で生まれ育った惣田さんは、産業デザイン科に通っていた高校の頃、先生に『STUDIO VOICE』や『relax』などの雑誌を見せてもらい、デザイナーの仕事に憧れを持った。そして、桑沢デザイン研究所を卒業後、前述の都内にあるデザイン事務所へ。 「そこでは、グラフィックデザインの基本をみっちり学ばせていただきました。けれど、担当した本が、どんなふうに求められて、どんなふうに届いているのか分からないことが不安になって。一度デザインの現場を離れて、もう一度本まわりのことを勉強しようと思ったんです。本がお客さんの手に届く現場を見てみたくて、本屋さんで働いたこともありました。そのうちに、だんだん音楽関係の仕事が増えていって、フリーランスとして活動するようになりました」 それまで東京を拠点としていた惣田さんが、足利にUターンしたのは2013年春のこと。それ以降も、都内から依頼される仕事を中心に手がけている。 「都内で打ち合わせがあっても、足利からは特急で1時間、普通で2時間で行くことができるので、不便さはあまり感じません。むしろ東京にいなくても、自分で立てたスケジュールに合わせてのんびりと、面白い仕事ができることを日々実感しています」 自然が身近にある環境も、仕事にいい影響を与えてくれている。 「足利に戻ってからは、四季の移り変わりをはっきり感じるようになりました。例えば、仕事の息抜きによく散歩する渡良瀬川の土手も、季節によって緑の色が全然違うんです。それを記録するように描いていたら、自然と植物のイラストが増えていって。女の子と植物を組み合わせたイラストが、新たなテイストとして加わったんです」 若手作家が、気軽に作品を発表できる場所を足利に 2016年秋には、足利の「西門 -SAIMON-」というスペースで個展を開催。足利に戻ってから描きためた女の子と植物のイラストを中心に展示。紙だけでなく、木や布などの新たな素材にも挑戦した。 「木の絵を木材にレーザーで彫刻してみたり、風に吹かれる女の子を描いたイラストを布に落とし込んで、実際に布がゆれることで風に吹かれる様子を強調したり、いろいろな試みを盛り込みました」 20日間近くにわたり開催された個展には、「cero」や「ザ・なつやすみバント」のファンをはじめ、地元の若い人たちも多く足を運んでくれた。 「そんな子たちに話を聞いてみると、『足利には遊んだり、買い物したりするところがないから、市外や東京まで出かけている』という声が多くて。ちょっともったいないなって思いました。足利には『mother tool』さん(下写真)や『うさぎや』さんをはじめ、自家焙煎の喫茶店など、個性があって魅力的なお店や店主の方がたくさんいます。そんな足利の魅力を、もっともっと若い人たちに伝えていけたら」 現在、惣田さんは、共に受験した桑沢デザイン研究所を一緒に卒業し、同じフリーランスのグラフィックデザイナーとして足利にかかわっていこうとしている友人とともに、個展を開いた「西門」の活用法を考えるプロジェクトにも参加している。 「足利には本格的な美術品を扱う画廊はあるのですが、若手の作家が作品を発表できるところは少なくて。『西門』が若手の作家が気軽に展示やイベントを開催でき、若い人たちが立ち寄れたり、地元を離れている人が帰ってくるきっかけになるような場所にできればと考えています」

つくることの楽しさを、子どもたちに

つくることの楽しさを、子どもたちに

倉林真知子さん

一つとして同じものがない、作品との出会いを楽しんでほしい 布作家・倉林真知子さんのアトリエに一歩足を進めると、たくさんの色が目に飛び込んでくる。赤や青、黄緑など、ポップな色使いが、倉林さんの作品の魅力。さらに、問屋街を巡り探し出したデッドストックの布や革、古いボタン、さまざまな手芸店で入手した毛糸や刺繍糸など、素材の多くは一点もの。それによってつくられる作品は、どれもが世界に一つだけものとなる。 「例えば、ニット帽にアクセントとしてつけるタグやボタンの組み合わせ、つける位置なども、あえて少しずつ変えています。最近では木製の棒をカットして、ボタンも手作りしているんですよ。既製品のボタンのように均一な仕上がりではありませんが、逆に雑な感じが“味”になるんです」 さらに、アトリエではオーダーも受け付けている。例えば、バッグのデザインはそのままに、使う布の種類を変えてほしい、ここにポケットをプラスしてほしい、このボタンをアクセントにつけてほしいなど、自分だけの作品をつくってもらえるのだ。 「私の代表的な作品のひとつ『ループアクセサリー』(写真下)は、好きな糸の色や形をうかがって、その場で制作してお渡しすることもできます。アトリエに並んでいる作品は、あくまでも一つの提案。それをベースに、お客さん自身の遊び心も加えて、その方らしい作品を一緒につくれたらと思っています」 自分が楽しめてさえいれば、場所は関係ない 現在は布作家として活動する倉林さんだが、実は子どもの頃は手芸が苦手だった。 「それよりも、日曜大工が得意な父親の影響もあり、クギやトンカチが好きで、中学の頃から自分で机をつくったりしていました。手芸は苦手でしたが、色と色を組み合わせるのが大好きで、自然と洋服のコーディネートに興味を持つようになったんです」 東京の専門学校を卒業後、地元の下野市に戻り一旦は医療事務の仕事に就いたが、「やっぱり自分の好きなことを仕事にしたい」と、アパレル店に転職。販売の仕事を担当するも、強く興味をひかれたのはショーウィンドウのディスプレイや、店内全体をプロデュースする仕事だった。 もっとディスプレイや空間のコーディネートについて学びたいと、23歳で再び上京。最初に門をたたいたのは、知人が働いていた建築事務所。その後、横浜の帽子店で小物のディスプレイや見せ方の経験を積み、下北沢のシルバーアクセサリー店では、目標だった店内全体のコーディネートや、百貨店の催事に出店する際の企画、ディスプレイを担当。忙しくも、充実した時間を過ごした。 写真家と絵描きの友人と3人で、「ANT」の活動を始めたのもこの頃。倉林さんは、写真を撮影する際の洋服のコーディネートなどを担当。さらに布小物も制作し、イベントなどで販売していた。その当時からつくり続けているのが「鈴のアクセサリー」(写真上)。この作品が、栃木へ戻るきっかけを生み出してくれた。 「たまたま、宇都宮のイベントに出店していたとき、鈴のネックレスを宇都宮にある雑貨店『ムジカリズモ』のオーナーが目にしてくれて、『うちで作品を販売させてほしい』というお話しをいただいたんです」 当時は、ものづくりが自分の仕事になるとは、夢にも思っていなかった。 「でも、ムジカリズモさんに声をかけていただいたとき、これまで商品のディスプレイを考え、イベントの展示を企画し、宣伝なども手がけてきた経験は、そのまま自分のブランドを立ち上げても生かせるのではないかと思ったんです。また、『どこにいても、自分が楽しめてさえいれば場所は関係ない』と思えたことも大きかったですね」 こうして倉林さんはANTとして本格的に活動するために、栃木に戻る決意をした。 前に進むためには、つくりたいものをつくること 2004年に、下野市の実家にUターンした倉林さんは、両親に「1年でなんとかする」と宣言。その言葉どおり、1年後にはものづくりの仕事だけで暮らしていけるようになった。 「当時は、朝起きてから夜寝るまで1日中、制作していました。でも、全然苦ではなくて。自分の好きなことを仕事にするために、全力をかけて頑張りたかったんです」 作品をつくるうえで大切にしているのは、とにかく自分が楽しむこと。 「制作が義務になってしまうと、きっと何も生まれなくなってしまう。だから、自分がつくりたいもの、身に付けたいものをつくることが根本にあります。もちろん、個展の前や毎年参加している益子の陶器市の直前には、制作に追われて楽しいアイデアが出てこなくなることもある。そうならないためにも、あえて『自由に制作する日』を設けるようにしているんです」 作品のインスピレーションはどこから? とたずねると、「最近は、絵本や写真集からが多いですね」という意外な答えが返ってきた。 「絵本のなかで配色が美しいページだったり、写真集で外国のカラフルな街並みだったりを見ると、その色使いを作品で表現したくなるんです。色の組み合わせが大好きなのは、子どもの頃から変わらないですね。作品をつくるうえで、これまでのディスプレイや空間のコーディネートなど、すべての経験が役立っています」 この場所だからこそ始まった、ものづくりイベント 結婚後は、宇都宮の街中にあるご主人の実家でしばらく暮らしていたが、子育てを考え、より自然が身近なさくら市へ。ご主人の親戚の生家で、10年ほど空き家になっていた古民家の味わいある雰囲気が気に入り、自宅兼アトリエに選んだ。ここへ移り住んでよかったのは、周囲に自然が多いのどかな環境でありながら、幼稚園や小中学校、塾をはじめ、スーパーや病院など、生活に必要なお店や施設が近くにそろっていること。移動に時間を取られることがないため、その分を作品づくりに充てることができる。 さらに嬉しいのは、やはり自然が身近にあることだ。 「私たち家族は外遊びが好きで、週末には公園にシートと編み物セットを持っていって、息子を遊ばせながら、私はシートのうえで編み物をしたり、本を読んだりしています。地域のみなさんは温かく、子どもを見守ってくださるので、安心して外で遊ばせることができます」 自宅の前には大きな庭があり、息子さんは泥んこになりながら、虫を捕まえたり、葉っぱを拾い集めたり、外遊びを満喫している。その姿を見て生まれたのが、「にわのひ」というイベントだ。「家に閉じこもってゲームなどをするのではなく、子どもたちに自然の中でものづくりを楽しんでほしい」との思いから、自宅の庭に信頼する作り手を招き、ワークショップを中心としたイベントを毎月開催。今ではさくら市の後援を受け、氏家駅前広場などで実施している。さらに、2015年からは毎年夏に、さくら市ミュージアム勝山公園で「もりのひ」というイベントも行っている。 「『もりのひ』では作家さんたちが出店するブースやゲート、看板なども、身近な素材である段ボールを使って、みんなで手作りしています。そのコンセプトは、『にわのひ』と変わりません。これからもANTの活動と並行して、子どもたちにものづくりの楽しさを届けていけたらと思っています」 (↑ 2016年11月に開催された「にわのひ」のDM写真。男の子は、いつも倉林さんのアトリエの庭や、「にわのひ」などのイベントに出店している、「WANI Coffee」の店主の息子さん)

毎日を幸せにするコーヒーを

毎日を幸せにするコーヒーを

秋元健太さん

“町の豆腐屋さん”のような焙煎所を目ざして 「こんにちは! いつものください」(お客さん) 「『黄昏』(豆の商品名)ですね。ありがとうございます!」(秋元さん) 取材中、こんな光景を何度目にしただろう。 「秋元珈琲焙煎所」の扉を開けると、目の前には小さな和室が二つ。向かって左手の和室にはカウンターと小さなキッチンがあり、店主の秋元健太さんは、たいていここで豆を挽いたり、袋詰めしたりと手を動かしている。一方、右手は試飲スペース。コーヒー豆を購入する人は、ここで気になる豆を試し飲みできる。 さて、冒頭の光景について。和室に上がらず、入り口で豆を注文するのは、ほとんどが常連さんだ。注文から数分、世間話をしているうちに袋詰めが終わり、会計を済ませて帰っていく。そんな常連さんを含め、お客さんの多くは地元・大田原の人だという。 「僕はこの焙煎所が、“町の豆腐屋さん”のような存在になったらいいなって思っているんです。桶やボールを持って毎日豆腐を買いにいくように、『いつものを!』って来ていただけるお店に」 コーヒー貧乏になるくらい、飲んでいました(笑) 秋元さんがコーヒーやカフェに興味を持ったのは、高校の頃のこと。試験勉強などで夜中まで起きていたとき、眠気覚ましにコーヒーをよく飲んでいたそう。そのうちにコーヒーのおいしさにも目覚め、「大学にいったらカフェで働きたい」と思うようになった。 埼玉県にある大学に進学し、たまたま働き始めたのが所沢にあった「カフェセボール」(現在閉店)。ファーストフード店でありながら、店内で自家焙煎を行い、豆も販売していた。 「ここのコーヒーが本当においしくて。バイトしたお金で豆を買っては、家でドリップして飲んでいました。もう、コーヒー貧乏になるくらい熱中していましたね(笑)。『いつか自分のお店を開きたい』と思ったのもこの頃です」 カフェセボールでは約2年間働き、接客の基本やドリップの仕方などいろんなことを学んだ。なぜ、セボールのコーヒーがそれほどおいしかったのか? 数年後に理由が判明するのだが、その話はまた後ほど。 大学を卒業後、親を安心させたいという思いから、秋元さんは地元の金融機関に就職する。しかし、カフェを開きたいという思いはどうしても消えず、強まる一方だった。約3年間勤めたのち、「これからはコーヒーの道で生きていく」と決意し退職。カフェや自家焙煎珈琲店を巡る旅へと向かった。 自家焙煎珈琲店で修業。本当においしいコーヒーを届けるために 「とにかくおいしいコーヒーを飲みたい!」「素敵なカフェに行きたい! 体感したい!」と、車中泊しながらカフェを巡り、遠くは福岡まで出かけた。じつはこの旅には、今後カフェの道に進むか、それとも自家焙煎の道を選ぶのかを見極める狙いもあった。 「カフェを巡るなかで、どんなに内装や雰囲気が素敵でも、コーヒーが好みじゃないとちょっと残念な気持ちになることがあって。『何よりもコーヒーがおいしいことが大切なんだ』と気づいたんです」 貯金をはたいてカフェを巡り、残高が1万円になった頃、豆や焙煎について学びたいと門を叩いたのが、自家焙煎珈琲の専門店「那須の珈琲工房」だ。見習いとして秋元さんを受け入れてくれた店主は、この道45年。ブレンダ―として、大手の缶コーヒーメーカーの味を設計する仕事も手がけてきた。 「あとで分かったのですが、大学時代に働いていたカフェセボールのコーヒーも、師匠がブレンドしたものだったんです。多くの偶然が重なり門を叩いた『那須の珈琲工房』を手がける師匠が、セボールも担当していたと知って縁を感じるとともに、すごく嬉しかった。自分の舌は間違っていなかったんだって」 2年間の修業期間中、秋元さんは多くのことを吸収した。 「なかでも、『味に妥協しない』という師匠の姿勢は、これからも一生見習っていきたい。師匠は、僕が大田原で自家焙煎所をやっていくためには、何日間営業して、常連さんを何人つけて……といった具体的な戦略まで、一緒に考えてくれました。今、こうしてお店ができているのも、本当に師匠のおかげなんです」 地域の仲間とともに面白いことを、楽しみながら お店を開く場所として大田原を選んだのは、「やっぱり地元が好きだったから」と秋元さん。くわえて、曽祖父母が暮らした平屋が大好きだったこと、栃木県内には魅力的なカフェや焙煎所が多く、日常の中にコーヒーを楽しむ文化が根づき始めていることも大きな理由となった。 平屋を大切に受け継ぎ、「秋元珈琲焙煎所」を開いたのは2014年9月のこと。準備したのは焙煎機とミルとちゃぶ台2台だけといってもいいほど、必要最低限でのスタートだった。 「準備はいくらしても完璧はないので、それならとりあえず始めてしまうこと、動き出してから流れのなかで考えることも大切だと思うんです。うちの場合は、お店が軌道に乗り始めてから必要なものをそろえていきました」 営業日は、水曜から土曜の週4日。午前中に焙煎を行い、13時から18時までお店を開く。日曜はほぼ毎週、イベントに出店。月・火曜の定休日を焙煎にあてることもある。週に5日間ほど、少量ずつ焙煎するのは、焼きたての新鮮な豆を届けたいからだ。 「もう一つの理由は、少量の豆を長時間焼くことで、芯までじっくり火を通すことができるからです。焙煎で何よりも大切にしているのは“自分の感覚”。日によって気温や湿度も違えば、素材や自分の状態も変わってきます。その中で、データには出ない微妙な違いを見極められるのは、自分の感覚だけ。言葉で説明するのは難しいですが、最適な焼き具合になると、豆が“キラキラ”“コロン”として見えるんです。素材に耳を傾け、美しい瞬間を見逃さないように心がけています」 取材当日、昨年本サイトで紹介した「色実茶寮」の磯部なおみさんが、茂木町から多くの焼菓子を携え、秋元珈琲焙煎所に出店していた。ほかにも秋元さんは、大田原で長年藍染を手がける「紺屋」を若くして継いだ小沼雄大さんと、ドリップ教室と染物教室をセットで開いたり、手づくりスコーンや焼菓子の人気店「ぎんのふえ」の寺田尚子さんと一緒にイベントに出店したり、地域の仲間との輪を広げている。また、今年9月22日には、計20組の飲食店や作り手が参加した「第二回 田舎ノ露店市」が、秋元珈琲焙煎所で開催された。 「魅力的なお店や人たちが連携して、おいしいもの、いいものを届けていくことで、結果的に地域が元気になっていったら嬉しいですね。僕はこれからも味に妥協することなく、本当においしいコーヒーを提供していきたい。それで少しでも、地域のみなさんの日常に幸せを届けられたらと願っています」

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

中村純さん・後藤洋平さん

地域づくりを、自分の仕事にするために 東京農業大学で林業を学んでいた中村純さんは、その頃から地元・栃木市で、地域づくりのボランティアなどに参加。地域や林業にかかわる仕事に就きたいと考えたが、なかなか生計を立てていく道が見つからず、都内の大手ハウスメーカーに就職した。 中村さん:「営業の仕事を通じて、民間ではこうやって泥臭く必至に取り組んでいるから、利益を生むことができるんだと実感しました。やりたかった地域の仕事も、ボランティアでは続けられない。好きなことを続けるためには、その道でお金を稼ぐことが重要だと学んだんです」 27歳でハウスメーカーを退職し、東日本大震災の被災地でボランティアとして活動。そこで知り合った人にすすめられて、鎌倉のゲストハウスで働き始めた。 中村さん:「そこで、ゲストハウスのオーナーはもちろん、ウェブデザイナーやカメラマンなど、やりたいことを仕事にして面白く生きている人たちと出会い、こんな生き方もあるんだと視野が広がりました。自分もやっぱり地域に携わりながら生きていきたいと、地元に戻る決意をしたんです」 栃木市にUターンしてから、中村さんはまちづくりのワークショップなどに参加。そこで出会った人たちに、空き家バンクなどの企画書を見てもらったことをきっかけに、ビルススタジオのことを教えてもらった。ホームページを見ると、ちょうど人材募集の告知が! すぐに応募し、2011年の冬から不動産担当として働くことになった。 地域のことを考えながら建築をつくる 高校3年の大学受験が近づいたとき、後藤洋平さんは進路について迷っていた。後藤さんの父親は設計事務所を運営。しかし父と同じ道に進むのがなんとなく嫌で、一度は違う分野の学部を受験した。 後藤さん:「けれど、後期試験までの間に、父の建築の本を読んだり、設計した家を見に行ったりして、『人が生活する場所をつくる』という設計の仕事の面白さに強くひかれました。無理をいって浪人させてもらい、翌年、新潟大学の建築学科に進学したんです」 大学では、県内の豪雪地帯にある街で、古くから雪よけの通路としてつくられてきた大きな軒のような「雁木(がんぎ)」を、設計・制作する活動にも携わってきた。 後藤さん:「雁木は地域にとってのアイデンティティなんです。軒を連ねる家の一軒でも雁木を壊してしまうと、通路が途切れてしまうだけでなく、まちの誇りが失われてしまう。地域住民や自治体と協働して雁木通りを再生するプロジェクトに参加し、地域のことを考えながら建築をつくることの面白さを体感したんです」 卒業後は、都内の大手ゼネコンに就職。当時から、いずれ地元で設計事務所を開きたいと考えていたため、休日などに栃木市に帰省し、地域づくりの活動にも携わっていた。 後藤さん:「そんな頃、すでにビルススタジオで働いていた中村から『設計スタッフを募集しているぞ!』って電話があって。後日、もみじ通りの店主の方たちが集う忘年会に参加させてもらいました。そこで『単に建物を設計するだけではなく、場のコンセプトから不動産も含めて総合的に場所をつくっていく』というビルススタジオの取り組みを知ったとき、自分のやりたかったことはこれだ!と思ったんです」 新たな場から、広がっていく化学反応 築年数が経った物件や大谷石の蔵、倉庫など、一般的な不動産会社では扱われにくい、「ひとクセあるが、他にはない魅力を持った物件」を街から掘り起し、そこで営まれるライフスタイルまでを含めて提案するのが、中村さんの仕事。 一方、後藤さんは、入居や購入する人が決まった段階から、その人の思いや建物・土地が持つ魅力を大切に、コンセプトづくりから図面作成、見積もり、現場監理、引き渡しまで、すべてに携わっている。 ときには、二人のそれぞれの視点から、建物を活用していくための事業プランを考え、オーナーや入居希望者に提案することもあるという。 中村さん:「例えば、宇都宮市内にある大谷石でできた倉庫群のオーナーさんから、『個人か借りるには建物が広すぎて、入居者が見つからず困っている』と相談を受けました。大谷石の壁や鉄骨のトラス梁は無骨なつくりで、とても魅力的に感じたので、複数の店舗が集まる場所にリノベーションすることを提案。現在では、美容室や飲食店などの個性的な5店舗が入居する『porus(ポーラス)』というエリアに生まれ変わりました」 また、「宇都宮のまちなかで、面白い暮らし方をしたい」と希望していた方に、眺望に優れた6階建てのビルの最上階を提案。併せて、1~5階はシェアハウスとして活用する事業プランを提示したことをきっかけに、宇都宮市内初のシェアハウス「KAMAGAWA LIVING」が誕生した。 中村さん:「シェアハウスの住人たちが、近隣のお店が開催しているイベントに参加したり、地域の人たちと一緒に雪かきをしたり、新たな場ができたことで化学反応が起こり、交流や活動が広がっていくは、やっぱり嬉しいですね」 後藤さん:「僕たちが見つけ出した物件や、リノベーションした空間に共感してくれる人たちが集まってきてくれることもあり、自然と交流や新たな活動が生まれやすいのだと思います」 街の人とつながる“入り口”を、栃木市に 中村さんと後藤さんは、もう一人の同級生である大波龍郷さんと「マチナカプロジェクト」を立ち上げ、栃木市の地域づくりにも携わっている。 後藤さん:「マチナカプロジェクトをきっかけに、栃木市の中心部に誕生したシェアスペース『ぽたり』のコンセプトづくりや内装デザインなどをサポートさせてもらいました。ここではさまざまなイベントやワークショップが開催され、新たな出会いや人のつながりが生まれつつあります」 さらに、現在マチナカプロジェクトでは、栃木市の中心部にある空き建物を改装し、カフェやゲストハウスなどが入居する場をつくろうと計画している。 後藤さん:「いちばんの目標は、この場所を栃木市で新しい何かを始めたい人たちが、街の人とつながる“入り口”にすること。『もみじ通り』のように、この場所をきっかけに新たなお店が次々と誕生していく拠点にしていきたいです」 中村さん:「もう一つの目標は、ここの運営を通じてマチナカプロジェクトとして利益を上げていくこと。それこそが継続的にまちづくりに携わり、地域の魅力を高めていくためには大切だと思うんです」

自分たちの手で、暮らす街を面白く!

自分たちの手で、暮らす街を面白く!

村瀬正尊さん

現場に飛び込むことを決意。地域の課題解決を目ざして 「“民間自立型のまちづくり”というと難しく聞こえるかもしれませんが、ようは、『自分たちの手で、自分たちが暮らす地域を面白くしていこう』ということです。これまで地域活性化の取り組みは行政からの補助金に頼りがちで、一過性の活動で終わってしまうケースが多々見られました。そうではなく、自分たちで利益を上げながら、継続してまちづくりに取り組んでいくことが大切だと思うんです」 そう話す村瀬正尊さんは、小山市出身。大学生のころ、埼玉県草加市役所の「みんなでまちづくり課」で2カ月間、インターンシップを経験したことをきっかけに、まちづくりに興味を持つようになった。同じころ、若い世代などの起業を支援する「NPO法人 ETIC.(エティック)」のイベントなどにも参加。ここで自ら起業するという選択肢もあることを知ったという。 大学を卒業後、都内のオフィス家具メーカーに営業として2年間勤務したのち、やはりまちづくりの仕事に携わりたいと「ジャパンエリアマネジメント(JAM)」に入社。エリアマネジメント広告事業の立ち上げなどに携わった。 「エリアマジメント広告事業は、まちづくりの担い手が景観向上のためのルールに基づき、公道上や民有地の屋外広告を企業に販売し、得られた収入をエリアマネジメントの財源に充てようという事業。その立ち上げのために、深夜バスに乗って大阪や福岡、松山など全国各地の商店街を訪ねて回りました」 また、全国で自立的なまちづくりを目ざす団体や大学の教授、企業の担当者などが集うシンポジウムも開催。そうやって各地のまちづくり団体と関係を築いていたとき、一つの大きな壁にぶつかった。 「東京にいながら各地の地域活性化をサポートする活動は、どうしても『広く浅く』なってしまうのが課題でした。全国のいろんな方と知り合うなかで見えてきた地域の問題や、地元の人たちが抱える悩みを解決していくためには、思い切って現場に飛び込むことが必要だと思ったんです」 こうして村瀬さんは2009年、栃木県へ帰郷した。 “ハブ”となる人物との出会いが、大きな転機に 高校から埼玉の学校に通っていた村瀬さんは、じつはこれまで地元に対して、あまり関心がなかったという。栃木に戻ったとき唯一ツテがあったのが、JAMの仕事を通じて知り合った宇都宮大学の陣内教授だった。 「陣内先生に『県内で自分と同じような考えを持って、まちづくりに取り組んでいる若い人をご存じないですか』とうかがったら、ある3人の方を紹介してくれたんです」 その3人とは、本サイトでも紹介した、鹿沼で「CAFE 饗茶庵」やゲストハウス「CICACU Cabin」を運営する風間さん、宇都宮市のもみじ通りを拠点に、空間プロデュースを手掛ける建築設計事務所「ビルススタジオ」の塩田さん、インターンシップなどを通じて若者の力をいかし地域の課題解決を目ざす「NPO法人 とちぎユースサポーターズネットワーク」代表の岩井さんだった。 「自らの手で地域を盛り上げようと活動する3人の方と出会えたことで、『じつは栃木って、すごく面白い場所だったんだ』と実感しました。陣内先生も含む4人は、県内でさまざまな活動をする人たちをつなぐ“ハブ”の役割を果たしている方。みなさんに出会えたことで、県内での人脈が大きく広がっていきました」 自立型のまちづくりを目ざし、さまざまな活動を展開 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーを立ち上げた村瀬さんが、塩田さんや風間さんとともに最初に手がけたのが「ユニオンスタジオ」のプロジェクトだ。宇都宮の中心部、ユニオン通りの空き物件を「ユニオンスタジオ」として活用。ここを拠点に、ユニオン通り界隈に暮らす“人”にフォーカスすることで、地域のつながりや魅力を探るフリーペーパー「Stew(しちゅう)」の発行などを手がけてきた。 2012年には、JR宇都宮駅西口から徒歩10分ほどにある空き倉庫を活用した「SOCO」プロジェクトをスタート。2階・3階はコワーキングスペース「HOTTAN(ホッタン)」として、1階は「TEST KITCHEN STUDIO」として活用している。 「TEST KITCHEN STUDIOには厨房設備や什器などを準備しており、『県内で飲食店を開きたい』という方が、その前に飲食店経営を経験する場として、人とのつながりを広げる場として利用していただいています」 また最近では、新たに「Plus BICYCLE」という情報誌の発行も始めた。 「栃木県内や宇都宮市内で、魅力的なお店やスポットを巡ろうとしたとき、街の雰囲気を肌で感じられる自転車は最適なツールです。ライフスタイルのなかに自転車をプラスすることで、より多くの人に栃木の魅力を実感してもらえたらと考えています」 ローカルと全国、両方の視点をいかして 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーをスタートした頃、村瀬さんは「エリア・イノベーション・アライアンス(AIA)」の立ち上げにも携わった。AIAでは東京を拠点に、全国各地でまちづくり事業を展開する団体や企業をサポートしながら、民間自立型のまちづくりのノウハウを集め、これから同様の事業を始めようとする人たちの支援を行っている。また、自治体の財政が厳しさを増していくなか、公共施設を持続的に活用・運営していけるよう、公務員を対象にしたeラーニングなどのプログラムも提供している。 現在、村瀬さんは宇都宮を拠点に活動しながら、週2日ほど東京のAIAに出社。このように“二地域”で活動することには、大きなメリットがあるという。 「栃木県というフィールドがあることは、まちづくりの仕事を続けていくうえで、とても重要。このフィールドで実践し、成功した事例や得られたノウハウを、全国のほかの地域にいかすことができます。逆に全国の最新事例を、県内のまちづくりのヒントとして活用することもできるんです」 さらに村瀬さんは続ける。 「最近ではSNSの普及によって、東京にいながらにして地元のローカルな情報や旬な動きをタイムラグなく知ることができます。これまでは東京だけに向いていた意識が、地方にも向けられるようになっている。これはとても大きな変化だと思うんです。地方に関心を持つ都市部の人たちともつながり、巻き込んでいくことで、より面白いまちづくりが実現できるのではないかと感じています」 今後は、県内に民間自立型のまちづくり会社を立ち上げるのが村瀬さんの目標。自ら収益を上げながら、持続的に地域活性化に取り組むモデルケースをつくり出すことで、県内各地にその輪を広げていきたいと願っている。

暮らしと仕事のつながりが楽しい

暮らしと仕事のつながりが楽しい

早川友里恵さん

のびやかな街の雰囲気にひかれて 「就活を始めたばかりの頃は、東京で働きたい、栃木に戻りたいといった希望はまだ明確にはなくて、当時は就職氷河期だったので、興味のある企業を必死になって受けていました」 そう話す早川友里恵さんは、宇都宮市の出身。茨城県の筑波大学で学び、就職活動では東京や愛知などにある食品メーカーを中心に回った。「岩下食品」を受けたのは新生姜やらっきょうなどのファンで、普段からよく食べていたからだという。 だんだんと選考が進み、どの企業に就職するのか、これからどこで暮らしていきたいかを真剣に考えたとき、頭に浮かんできたのは栃木市の街並みだった。 「岩下食品の面接の日に早く着いてしまって、蔵が残る巴波川沿いなど、栃木の街を歩いて回ってみたんです。そしたら、街の雰囲気がすごくゆったりしていて、荒物屋さんや駄菓子屋さんなどのレトロで懐かしいお店もあれば、おしゃれな飲食店などの新しいお店も充実している。とても暮らしやすそうな街だなって感じました。逆に、面接でよく訪れていた東京は、立ち並ぶビルの圧迫感などに疲れてしまうことが多くて。私には、実家にも近く、のびのびとした雰囲気のこの街が合っていると思ったんです」 また、岩下食品では、高校で美術部に入っていた頃から独学で覚えた、イラストレーターやフォトショップの技術をいかせそうだったことも、大きな決め手に。こうして早川さんは2011年4月に栃木にUターン。岩下食品で働き始めた。 “しんしょうがくん”のブログをきっかけに、新プロジェクトへ 入社後、商品企画部に配属になった早川さんは、プレゼン資料や商品のポップ、チラシの制作などを担当。商品PRを目的としたイベントの企画・運営なども手がけてきた。3年目からは、ウェブサイトの更新も行うようになり、大幅なリニューアルも担当した。 「更新をタイムリーに、内容も自社で自由に作り替えられるように、というのが会社の方針で。主要なところだけを制作会社さんにお願いして、あとは“HTML”や“CSS”について勉強しながら、なんとか自分たちでリニューアルを行いました」 その後、ネット通販も担当。入社5年目の現在では、サイトの運営だけではなく、得意先に納品に出かけたり、集金を行ったり、注文を受けてから商品を届けるまでのあらゆる仕事に携わっている。 そんななか、入社2年目から若手の先輩社員たちと一緒に、自発的にスタートしたのが「ちょっとそこまで新生姜」というブログだ。 「ブログの主人公は、私がフェルトで手づくりした“しんしょうがくん”というキャラクター。この“しんしょうがくん”と一緒に、岩下の商品を使ったメニューを提供してくれている飲食店へ出かけたり、イベント出店の様子をレポートしたり、栃木の街並みを紹介したり、私たち自身も楽しみながら200件以上の記事をアップしてきました。すると、『なんか面白いことをやっている若手がいる』と社長の目にとまり、新たにオープンするミュージアムのプロジェクトに参加させてもらえることになったんです」 小さな会社だからこそ、多くのことに挑戦できる ミュージアムとは、2015年6月に栃木市内にオープンした「岩下の新生姜ミュージアム」のことだ。館内には、商品に関する展示だけではなく、新生姜を使った料理が味わえるカフェや新生姜の被り物をかぶって記念撮影できるコーナーや、岩下漬けの体験コーナーなど、遊び心あふれるコンテンツが充実している。 「私は主に『新生姜の部屋』を担当しました。ここは人間サイズになった新生姜が暮らす部屋をイメージして、細部まで新生姜にまつわるネタを散りばめています。新生姜と恋人になった気分で、さまざまな写真が撮影できるフォトスポットです!」 このほかにも、新生姜の被り物の企画や館内にあるジンジャー神社のおみくじ、絵馬のデザインなどを担当。クリスマスなどのイベント時には、飾りつけなどもすべて自分たちで行っている。 「ミュージアムに来てくれたお客さまに『あの展示がすごく面白かった!』『初めてこの商品を食べたけど、おいしかった!』などの声をいただくと、ますますやる気がわいてきます。岩下食品の魅力は、大きな会社ではないので、いろんな仕事に携われるところ。自発的に動くことで、さまざまなことに挑戦できます」 どんどん広がっていく、街の人たちとのつながり 毎朝、自転車で会社に向かう早川さん。通勤時間はわずか10分ほど、渋滞や満員電車に悩まされることはない。一方、住まいから栃木市の中心部へは、歩いて10分ほど。休日には散歩がてら、雑貨店や飲食店などに出かけることも多いという。 「栃木市には、おいしい飲食店が多くて、先輩たちとよく通っている市内のリゾット屋さんがミュージアムの料理を監修してくれたり、ファンだった洋菓子店が新生姜のマカロンを提供してくれたり、暮らしと仕事がつながっているところが楽しいですね。仲良くなったお店の方と一緒に、イベントやライブに出かけることもあるんです」 また、ここ数年で栃木市の街中には、シェアスペース「ぽたり」や古道具と雑貨の店「MORO craft(モロクラフト)」など、若い人たちが営むお店が次々と誕生している。早川さんも、ぽたりで開催されているライブやワークショップ、飲み会などに参加。ぽたりをきっかけに知り合った大工さんが開催する、木工教室のサポートも行っている。 「ここ1、2年で、地元の友達が本当にたくさん増えました。今、栃木市では、同世代の若い人たちが地域を盛り上げようとさまざまな活動をしていて、街に活気があふれています。私も、さらにつながりを広げていきたい。そして、ウェブなどの得意分野をいかして、地域の活動にも積極的に関わっていきたいです」 早川さんにとってこの栃木の街は、仕事に打ち込む場所であり、普段の暮らしを楽しむ場所。さらに今では、新たな出会いが広がっていく大好きな場所に。

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

宮本 吾一さん

魅力的な人が集う、那須という街にひかれて 「Chusという店名は、那須五山のひとつ“茶臼岳”から名づけました。ふだん那須の山々を眺めながら暮らす人たちが気軽に集まり、人と人がつながって、みんなで街をおもしろくしていけるような、そんな場所にしていきたいと思って」 そう話すのは、Chus代表の宮本吾一さん。 Chusは、まさに「マルシェ(直売所)」と「ダイニング」が一体となった場所。約200坪の広々とした店内の手前には、那須の農家の人たちが育てたおいしい食材とともに、宮本さんが生産者に会って直接仕入れた全国各地の食材も並べられている。その理由は、ここで一度にいろいろな食材を購入できたほうが、那須の食材を食べてもらえる機会が増えると考えたから。食材と食材の出会いも楽しんでほしいという。一方、店内の奥はカフェスペース。Chusに並ぶ食材を使った料理が楽しめる。 東京で生まれ育った宮本さんは、20歳のときワーキング・ホリデーでオーストラリアへ。1年間、自然が身近な環境で暮らしたことをきっかけに、帰国後も田舎で暮らしたいと考えるようになった。そのとき、たまたま見つけたのが那須のリゾートバイト。それから3年間、観光シーズンは那須で働き、残りの期間は海外や国内を旅してまわった。 「はじめは、那須に住み続けようとは思っていませんでした。けれど、ここで過ごすうちに、いろいろな人と出会い、那須にはおもしろい人がたくさんいることを知ったんです。例えば、黒磯のSHOZO COFFEEや、森の中にある納屋を改装したバーなど、センスあふれるお店を営む魅力的な人が多くて。こんな生き方ができるんだ、自分もまだ誰も手がけたことがないお店を、那須で始めてみたいと思ったんです」 地元の農家とつながるために、マルシェを まずはリヤカーを改造した屋台で、コーヒー屋台を始めた宮本さん。その2年後に、オープンしたのが「Hamburger Cafe UNICO」だ。 「お店の場所からは、那須の美しい山々が一望できて、目線を上げて景色を眺めながら食べてもらえるものをと考え抜き、ハンバーガーにいきつきました。当時、ハンバーガーはファストフードの代名詞。だからこそ、あえてスローフードと手づくりを大切にした、那須の食材をまるごと味わえるようなハンバーガーを提供しようと思ったんです」 けれど、地元の食材だけで、つくり続けるのは難しかった。 「冬場には、どうしても地元の野菜が少なくなってしまう。那須でカフェやレストランを営む仲間に聞いてみたら、みんな同じ悩みを抱えていました。なんとか、農家の方にお願いして野菜をつくってもえないか。そのためには、何よりも農家と“つながること”が大切だと思ったんです」 “つながる”ための手段として、宮本さんは「マルシェ」を開くことを決意。那須の農家に5軒、10軒と電話をかけ続けるうちに、1軒の農家が協力してくれることに。その方に会いにいくと、マルシェの趣旨に共感し、いろいろな生産者を紹介してくれた。こうして10台の軽トラが並ぶマルシェを、2010年に初めて開催することができた。 「来場者は数百人ほどでしたが、お客さんも農家の方もとても喜んでくれて、笑顔で会話をするシーンが会場のいたるところで見らました。直接、顔と顔を合わせてつながることの大切さを、改めて実感したんです」 「マルシェを毎日開催してほしい」。その声がChusのはじまり それからもマルシェの開催を続けていくと、那須で設計事務所や不動産屋、牧場、味噌屋、カフェを営む人など、協力してくれる人が増えていった。そして7人のメンバーが集まり、2012年にマルシェは「那・須・朝・市」にバージョンアップ。現在は春と秋の2回開催され、毎回5000人が訪れるイベントに。お客さんからは「毎日開催してほしい」という声が多く寄せられるようになった。 「とてもありがたいことですが、メンバー全員が他に仕事をしながらボランティアで参加していて、毎週集まって準備を重ねても、半年に1回開催するのがやっとなんです。でも、諦めたくなかった。毎日開催すれば、人と人のつながりがどんどん広がり、街が面白くなっていく。どうしたら実現できるか?お店にするしかないと思ったんです」 ちょうどタイミングよく、もと家具屋だったこの物件が見つかった。こうして「那・須・朝・市」の7人のメンバーが共同運営するChusが、2015年1月にオープンした。 誰もが参加できる「公民館」のような場所に Chusは、一言で表現するなら、マルシェをそのままお店にしたような場所だ。 「マルシェの魅力はいろいろなお店が集まり、人と人、人とモノがつながる機会があふれているところ。同じようにChusも、多くの人が参加できる場所にしていきたい。一応、僕が代表ですが、Chusは僕のものでも、7人のメンバーのものでもありません。那須連山のふもとに暮らす人はもちろん、県外の人も、誰もが参加することができる。そんなマルシェの会場のような、公民館のような場所をつくることを、僕たちは目指しています」 例えば、毎週木曜日は、イベントを開催したい人のためにお店を開放。イタリアンや中華のディナー会、音楽ライブ、映画上映会など、オープンから1年足らずで50件以上イベントが開催されている。 「これまでにマルシェを開催し、Chusをオープンしてきましたが、行政からの補助金などは一切もらっていません。ただ自分たちが面白いから続けているだけなんです。楽しんでやっているからこそ、人の輪が広がっていく。それは結局、自分にとってもプラスになると思うんです。それに、マルシェやChusによって街が面白くなっていけば、自分のライフスタイルも充実していきます。 多くの人にChusに参加してもらうことで、Chusや那須の街を“自分の居場所”だと思ってくれる人を増やしていきたい。そして、一人でも多くの人が、自分の居場所を良くしようと一歩を踏み出してくれたら嬉しい」 2011年に震災が起こったとき、宮本さんは自宅の建設を計画中だった。観光客は激減し、お店を続けられないのではと不安になることもあったが、宮本さんは計画を変更せず、那須に自宅を建てることを決意。現在、家族3人で暮らしている。 ここが自分の居場所だと決めた宮本さんは、これからもChusから、街を面白くする様々な試みを発信してくれるに違いない。

人と人、技術と技術をつないでいきたい

人と人、技術と技術をつないでいきたい

中村 実穂さん・俊也さん

人や技術をつなぐ。新たな関係から生まれるものを 見る角度や動きによって表情を変える木枠や、まるで星座のようにつながる糸とスチール、円を描きながらやわらかに連なる真鍮など、さまざまな形や素材、技術を組み合わせて、美しいモビールをつくり上げるのは、栃木県足利市にある「mother tool」。さらにステーショナリーや暮らしの道具など、全国各地の工場やデザイナーたちと連携しながら、数多くのオリジナルプロダクトを手がけている。 代表の中村実穂さんは、足利市の隣町、群馬県邑楽町(おうらまち)の出身。都内の短大を卒業し、インテリア・家具デザインの専門学校に進んだあと、両親が営んでいた組み立て工場を継ぐために地元へ戻ってきた。 実穂さん:「じつは親戚中に説得されて、しぶしぶ工場を継ぐ決心をしたんです。当時、主に手がけていたのはパチンコ台を組み立てる仕事。深夜までかかって何千台と組み立てる日もあれば、ぽっかりと数日空くこともある。納期が厳しく仕事に波があるうえ、依頼先からは『代わりの工場はいくらでもある』といわれることもあったりして、この仕事を続けていく意味が、なかなか見いだせなかったんです」 そんな状況のなか、実穂さんと俊也さんの心の中では「自らの手でものづくりをしたい」という思いが膨らんでいった。実穂さんはとにかく一歩を踏み出そうと、専門学校時代の先生である家具デザイナーの村澤一晃さんのもとへ相談に。そのとき村澤さんがかけた「組み立ては、パーツとパーツをつなぐのが仕事。その“つなぐこと”を意識してものづくりに取り組んでいったらいいのでは」という言葉によって、これからやるべきことが見えてきたという。それから実穂さんは、足利をはじめ、岐阜や徳島、福井、東京などの工場を見学したり、気になるデザイナーに会いに行ったり、全国各地を巡った。 実穂さん:「いろいろな方にお会いするなかで、それぞれの工場、デザイナーさんが得意とする分野や技術が分かってきました。その良さをより引き出す形で、人と人、技術と技術をつないでいきたい。それこそが、組み立て屋である私たちの役目だと思ったんです」 モビールは“組み立て屋”の腕の見せどころ 2006年2月にmother toolを設立し、最初に手がけたのが「木とアルミ」のシリーズだ。足利では戦前の飛行機から現在の自動車部品まで、アルミなどの金属加工が盛ん。その技術を代表するのが、ロクロのように回転する板状のアルミに、ヘラを押し当てながら形をつくる“ヘラ絞り”という職人技だ。 実穂さん:「熟練の職人さんが手仕事で生み出すパーツの誤差はほんのわずか。丁寧につくられた強固なアルミに、木目や色味など樹種のよさを引き出すことに長けた徳島の『テーブル工房 kiki』さんの木のパーツを組み合わせることで、やさしさもあわせ持ったステーショナリーをつくることができました」 その後、2011年にモビールづくりを始めたのは、村澤さんの「モビールをつくってみない?」という、何気ない一言がきっかけだった。モビールが大好きだったという実穂さんは「ぜひつくってみたい!」と、モビールをはじめプロダクトデザインを手がけるユニット「DRILL DESGIN」に相談。すると、「せっかくならオリジナルのモビールブランドを立ち上げよう」とDRILL DESGINが快くディレクションを担当してくれた。こうしてモビールブランド「tempo」が誕生。5人のデザイナーによる9種類のモビールに、いまではmother toolのオリジナルをくわえ10種類を展開。海外でも取り扱われるほど注目を集めている。 工場では俊也さんが、デザイナーが手がけた図面や模型をもとに試作を行い、どのスタッフが組み立てても均一なモビールになるよう、工程ごとのマニュアルや、パーツ・工具の作業位置を示す器具づくりなどを行っている。 「モビールは、各パーツをテグスなどでつないで組み立てていきます。そのとき、パーツとパーツの距離や角度が少しずれるだけで、せっかく職人さんがいいパーツをつくってくれても、表情や雰囲気が台無しになってしまう。モビールづくりは、まさに“組み立て屋”の腕の見せどころなんです」 さらに、実穂さんが続ける。 実穂さん:「モビールには金属や木、樹脂、ガラスなどさまざまな素材が使われます。そのため、いつか一緒にものづくりができたらと思っていた多くの工場と、新たに仕事ができるようになりました。モビールの展開を始めたことで、よりmother toolらしいものづくりができるようになったと感じています」 足利の地で育まれた技術や人を活かして 足利学校のほど近く、石畳の通りに面した建物に、2009年mother toolのお店がオープンした。「ものをつくるだけではなく、使う人に直接届けたい」「つくり手の思いや背景を伝えることで、つくる人と使う人をつなぐ役割も果たしていきたい」との思いから、店内にはmother toolの道具だけではなく、つながりのあるデザイナーや工場のプロダクトも数多く並べられている。さらに2014年には、工場も足利市内に移転。その理由は、足利にはさまざまな技術を持った工場が集まっているからだという。 俊也さん:「足利では金属加工だけでなく、古くから繊維業も盛ん。フットワークの軽い小規模な工場が多く、ありがたいことに、私たちと一緒に楽しみながらものづくりに取り組んでくださる工場も増えています。何か相談ごとがあれば、すぐに会いに行ける距離。雑談のなかから新たなアイデアが生まれることもあるんです」 実穂さん:「歴史ある建物が点在している足利の石畳エリアは、散歩をしていてとても気持ちがいい。のびやかな雰囲気が気に入っています。屋台をはじめ、おいしいコーヒー屋さんや個性あふれる飲食店など、個人が営む小さなお店が多いのも魅力ですね」 そんな足利の魅力を多くの人に知ってもらいたいと、実穂さんは地域づくりの団体「いしだたみの会」のメンバーとして、石畳エリアの魅力を伝える冊子「TALIRU」の制作にも携わっている。 「今後は足利に息づく技術をさらに掘り起し、新たなプロダクトとしてその魅力を発信していきたい」と考える二人。 地域で育まれた技術や人の強みを活かし、ほかの産地の素材や技術と組み合わせることで、新しい価値をつくり出す。mother toolのプロダクトは、東京などの大都市でなくとも面白いものづくりができること、地域に根ざしているからこそ生み出せるものがあることを気づかせてくれる。

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

辻井 まゆ子さん

鹿沼の魅力的な人たちにひかれ、4日で移住を決意 「時間があるなら、ぜひ鹿沼へ行ってみたら!」 そうすすめてくれたのは、日光にあるゲストハウス「巣み家」のオーナー夫妻だった。旅行で日光を訪れていた辻井さんは、その言葉をきっかけに鹿沼へ立ち寄ることに。ちょうどその日は、ネコヤド商店街というマルシェの開催日。鹿沼にお店を構える若いオーナーや作り手たちが出店し、街は多くのお客さんで賑わっていた。 「じつは、初めて足を運ぶまで、鹿沼のことはまったく知りませんでした。鹿沼は観光地などではない、いわば普通の街。けれど、魅力的な人がたくさんいることに驚いたんです」 魅力的な人とは、マルシェに出店していた若い人たちだけではない。この日、辻井さんは、鹿沼で16年続く「CAFE 饗茶庵」のオーナー・風間教司さんと知り合い、街を案内してもらった。すると「どこから来たんだい?」と、街の人たちが気さくに声をかけてくれた。 「この街で商売を続けている方や、地元の祭りに登場する彫刻屋台(山車)を手がける職人さんなど、長年鹿沼に住んでいる人のなかにも魅力的な人がたくさんいて。風間さんをはじめ若い人たちと一緒に、街を盛り上げようとしている様子が伝わってきました。そんな温かい人のつながりや、何か楽しいことが起こりそうな街の雰囲気に強くひかれたんです」 その後、京都に戻った辻井さんは、仕事で奈良に来ていた風間さんと再会。「鹿沼に移り住みたい」という決意を伝えた。なんと、初めて鹿沼を訪れてから4日後のことだった。 誰かが一歩を踏み出す、きっかけになる場所を 神戸の大学を卒業後、辻井さんは2年ほど京都・大阪にあるカフェやパン屋で働いてきた。けれど、「将来こうなりたい」という明確な目標はなかったという。それが、鹿沼を訪れたことで「ゲストハウスを開く」という目標が見えてきた。 「初めて鹿沼を訪れた日、楽しかったこともあり、あっという間に夕方に。鹿沼に泊まろうとしたのですが、宿泊施設がほとんどなくて、そのとき『ゲストハウスがあったらいいのに』『ゲストハウスを開いて、自分がひかれた鹿沼の人たちのことを多くの人に紹介したい』と思ったんです」 また、日光の『巣み家』に宿泊したことも、大きなきっかけとなった。 「私は、『巣み家』のオーナー夫妻に鹿沼のことを教えてもらったから、ここへ来ることができた。そんな、誰かが一歩を踏み出すきっかけになるような、ゲストハウスをつくりたいなって思ったんです」 オープン前から広がった、つながりの輪 2013年5月から2カ月間、「巣み家」で修業をした辻井さんは、鹿沼市観光物産協会の臨時職員を経て、風間さんのもとで働き始めた。その間も1年にわたり物件を探し続け、ようやく旅館だったこの物件と出会った。 「大家さんは、江戸時代から続いていた旅館をやむなく閉めた経験から、『ここで宿をやるのは、なかなか難しいよ』と首を縦にふってくれませんでした。それでも諦めきれずに何度もお願いにいくと、『そこまで決意が固いなら』と大家さんが了承してくれて、1年越しで貸していただけることになったんです」 2015年3月、作業が始まった建物には、多くの人たちの賑やかな声があふれていた。この日、現地では鹿沼に事務所を構える一級建築士の渡辺貴明さんに協力してもらいながら、平面図をつくるワークショップが開催された。 辻井さんは準備段階から多くの人に参加してもらおうと、風間さんとともに「日光例幣使街道・鹿沼宿旅館再生プロジェクト」を立ち上げ、掃除や壁紙はがし、ペンキ塗りなど、さまざまなワークショップを開催。街の人たちや鹿沼を出て首都圏で働いている人など、たくさんの人たちが協力してくれた。 「いつもお世話になっている鹿沼のおじちゃんやおばちゃんが差し入れを持ってきてくれたり、『巣み家』をはじめ、県内や秩父のゲストハウスの方が応援に来てくれたり、人の輪がどんどん広がっていくのが本当に嬉しかった。消防法の申請などの高いハードルも、なんとしても乗り越えなければと思ったんです」 目標は、鹿沼のファンを増やすこと 開店準備が佳境に差しかかったころ、ゲストハウスの名を「CICACU(シカク)」と決めた。“CI”は“Civic”で鹿沼の人たちを、“CA”は“Cabin”でゲストハウスに泊まる旅行者を、“CU”は“Culture”(文化)や“Curation”(共有・編集)を意味している。 「私はCICACUを、単なる宿泊施設ではなく、地元の人や旅行者が集まれる場所にしていきたい。いろいろ人たちが集い交流するなかで、鹿沼の伝統や文化が受け継がれつつ、新たな文化が生まれ発信されていくような場所に」 そこで、CICACUの2階にある大広間をレンタルペースとして開放。オープン前から、すでにヨガ教室や料理教室、音楽ライブなどが開催されている。 「これからも珈琲ドリップ教室や映画上映会など、さまざまなコンテンツを増やしていく予定です。ときには鹿沼の人が先生になったり、旅行者が主催者になったり、学びやイベントを通じて多くの人が集い、つながる拠点にできたらと思っています」 さらに、鹿沼で自転車の卸を手がける大倉ホンダ販売に協力してもらい、CICACUのオープンに合わせて「レンタサイクル」も始める予定だ。 「ぜひ自転車に乗って、鹿沼の郊外へも出かけてほしい。郊外には豊かな自然や田園風景が広がり、農業を頑張っている若い方や田舎暮らしを楽しんでいる移住者がいます。一方で、鹿沼の街中にも魅力的な方がたくさんいる。CICACUに2泊、3泊しながら、ゆっくり両方の魅力に触れてもらえたらと考えています」 さらに、辻井さんは続ける。 「鹿沼のいちばんの魅力は、街の人たちの温かさ。新しい何かを始めようとする人を、たくさんの人が応援してくれます。CICACUに宿泊したり、教室に参加したり、街の人とふれ合ったりするなかで、鹿沼に移り住んでみたい、ここで新しいお店や仕事を始めたいという人が増えていったら、何よりも嬉しい!」 春の足音が近づくころ、鹿沼の街にCICACUはオープンする。鹿沼に旅へ出かけたときはもちろん、カフェを訪れたとき、「ネコヤド商店街」に遊びにきたときなどに、ぜひ気軽に立ち寄ってみてほしい。新たな出会いや発見に満ちた、その場所に。

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