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自分たちの手で、暮らす街を面白く!

自分たちの手で、暮らす街を面白く!

村瀬正尊さん

現場に飛び込むことを決意。地域の課題解決を目ざして 「“民間自立型のまちづくり”というと難しく聞こえるかもしれませんが、ようは、『自分たちの手で、自分たちが暮らす地域を面白くしていこう』ということです。これまで地域活性化の取り組みは行政からの補助金に頼りがちで、一過性の活動で終わってしまうケースが多々見られました。そうではなく、自分たちで利益を上げながら、継続してまちづくりに取り組んでいくことが大切だと思うんです」 そう話す村瀬正尊さんは、小山市出身。大学生のころ、埼玉県草加市役所の「みんなでまちづくり課」で2カ月間、インターンシップを経験したことをきっかけに、まちづくりに興味を持つようになった。同じころ、若い世代などの起業を支援する「NPO法人 ETIC.(エティック)」のイベントなどにも参加。ここで自ら起業するという選択肢もあることを知ったという。 大学を卒業後、都内のオフィス家具メーカーに営業として2年間勤務したのち、やはりまちづくりの仕事に携わりたいと「ジャパンエリアマネジメント(JAM)」に入社。エリアマネジメント広告事業の立ち上げなどに携わった。 「エリアマジメント広告事業は、まちづくりの担い手が景観向上のためのルールに基づき、公道上や民有地の屋外広告を企業に販売し、得られた収入をエリアマネジメントの財源に充てようという事業。その立ち上げのために、深夜バスに乗って大阪や福岡、松山など全国各地の商店街を訪ねて回りました」 また、全国で自立的なまちづくりを目ざす団体や大学の教授、企業の担当者などが集うシンポジウムも開催。そうやって各地のまちづくり団体と関係を築いていたとき、一つの大きな壁にぶつかった。 「東京にいながら各地の地域活性化をサポートする活動は、どうしても『広く浅く』なってしまうのが課題でした。全国のいろんな方と知り合うなかで見えてきた地域の問題や、地元の人たちが抱える悩みを解決していくためには、思い切って現場に飛び込むことが必要だと思ったんです」 こうして村瀬さんは2009年、栃木県へ帰郷した。 “ハブ”となる人物との出会いが、大きな転機に 高校から埼玉の学校に通っていた村瀬さんは、じつはこれまで地元に対して、あまり関心がなかったという。栃木に戻ったとき唯一ツテがあったのが、JAMの仕事を通じて知り合った宇都宮大学の陣内教授だった。 「陣内先生に『県内で自分と同じような考えを持って、まちづくりに取り組んでいる若い人をご存じないですか』とうかがったら、ある3人の方を紹介してくれたんです」 その3人とは、本サイトでも紹介した、鹿沼で「CAFE 饗茶庵」やゲストハウス「CICACU Cabin」を運営する風間さん、宇都宮市のもみじ通りを拠点に、空間プロデュースを手掛ける建築設計事務所「ビルススタジオ」の塩田さん、インターンシップなどを通じて若者の力をいかし地域の課題解決を目ざす「NPO法人 とちぎユースサポーターズネットワーク」代表の岩井さんだった。 「自らの手で地域を盛り上げようと活動する3人の方と出会えたことで、『じつは栃木って、すごく面白い場所だったんだ』と実感しました。陣内先生も含む4人は、県内でさまざまな活動をする人たちをつなぐ“ハブ”の役割を果たしている方。みなさんに出会えたことで、県内での人脈が大きく広がっていきました」 自立型のまちづくりを目ざし、さまざまな活動を展開 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーを立ち上げた村瀬さんが、塩田さんや風間さんとともに最初に手がけたのが「ユニオンスタジオ」のプロジェクトだ。宇都宮の中心部、ユニオン通りの空き物件を「ユニオンスタジオ」として活用。ここを拠点に、ユニオン通り界隈に暮らす“人”にフォーカスすることで、地域のつながりや魅力を探るフリーペーパー「Stew(しちゅう)」の発行などを手がけてきた。 2012年には、JR宇都宮駅西口から徒歩10分ほどにある空き倉庫を活用した「SOCO」プロジェクトをスタート。2階・3階はコワーキングスペース「HOTTAN(ホッタン)」として、1階は「TEST KITCHEN STUDIO」として活用している。 「TEST KITCHEN STUDIOには厨房設備や什器などを準備しており、『県内で飲食店を開きたい』という方が、その前に飲食店経営を経験する場として、人とのつながりを広げる場として利用していただいています」 また最近では、新たに「Plus BICYCLE」という情報誌の発行も始めた。 「栃木県内や宇都宮市内で、魅力的なお店やスポットを巡ろうとしたとき、街の雰囲気を肌で感じられる自転車は最適なツールです。ライフスタイルのなかに自転車をプラスすることで、より多くの人に栃木の魅力を実感してもらえたらと考えています」 ローカルと全国、両方の視点をいかして 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーをスタートした頃、村瀬さんは「エリア・イノベーション・アライアンス(AIA)」の立ち上げにも携わった。AIAでは東京を拠点に、全国各地でまちづくり事業を展開する団体や企業をサポートしながら、民間自立型のまちづくりのノウハウを集め、これから同様の事業を始めようとする人たちの支援を行っている。また、自治体の財政が厳しさを増していくなか、公共施設を持続的に活用・運営していけるよう、公務員を対象にしたeラーニングなどのプログラムも提供している。 現在、村瀬さんは宇都宮を拠点に活動しながら、週2日ほど東京のAIAに出社。このように“二地域”で活動することには、大きなメリットがあるという。 「栃木県というフィールドがあることは、まちづくりの仕事を続けていくうえで、とても重要。このフィールドで実践し、成功した事例や得られたノウハウを、全国のほかの地域にいかすことができます。逆に全国の最新事例を、県内のまちづくりのヒントとして活用することもできるんです」 さらに村瀬さんは続ける。 「最近ではSNSの普及によって、東京にいながらにして地元のローカルな情報や旬な動きをタイムラグなく知ることができます。これまでは東京だけに向いていた意識が、地方にも向けられるようになっている。これはとても大きな変化だと思うんです。地方に関心を持つ都市部の人たちともつながり、巻き込んでいくことで、より面白いまちづくりが実現できるのではないかと感じています」 今後は、県内に民間自立型のまちづくり会社を立ち上げるのが村瀬さんの目標。自ら収益を上げながら、持続的に地域活性化に取り組むモデルケースをつくり出すことで、県内各地にその輪を広げていきたいと願っている。

“農”と“食”を通じて、地域を元気に

“農”と“食”を通じて、地域を元気に

小鮒拓丸さん・千文さん

農業を生業にしたい。二人の思いが一つに 「こっちが10分加熱した“ゆずジュース”で、こっちが加熱していないものです。加熱時間や素材の配合などを少しずつ変えて、どのパターンが一番おいしいか、料理に合うかなど、来年度の商品化を目ざして試作を繰り返しているんです」 そう話す小鮒千文さんは東京で生まれ、3歳のころ父親の地元である福島県郡山市へ。“食”に関心を持ったのは、25歳のときに大きな病気をしたことがきっかけだった。 千文さん:「食べることは、生きることに直結している。食べ方や心のあり方が、健康であるためにはとても重要だと痛感しました。病気を機に『食を通じてみんなの元気を応援したい』と思い、食の勉強を始めたんです。マクロビオティックのスクールに通ったり、北京中医薬大学日本校で薬膳について学んだり、食について知れば知るほど、その根本である“農業”への関心が高まっていきました」 同じく郡山で生まれ育った拓丸さんは、人材派遣会社やアパレルのお店で働きながらも、だんだんと子どもの頃から好きだった動植物にかかわる仕事がしたいと考えるようになった。「農業を生業にしたい」と二人の思いが一致し、準備を始めたちょうどその頃、東日本大震災が発生した。 拓丸さん:「周囲で野菜の出荷停止が続く状況のなかで、農業を一から勉強し、就農するのは難しいのではないかと感じました。いろいろ調べた結果、千葉県の長生村にある会員制農園『FARM CAMPUS』を見つけ、社長さんの好意によって、住み込みで働きながら農業を学ばせていただけることになったんです」 千文さん:「震災後、郡山の保育園でも外遊びが制限されて、息子が保育園から脱走してしまったことがあったんです。息子をもう少しのびのびした環境で育てたいと思ったのも、移住を決めた理由でした」 仲間に支えられて農と食を学んだ、外房での日々 千葉県のFARM CAMPUSで、拓丸さんは農場長として働きながら、近隣の自然栽培を手がける農家にも通い、農業を学んでいった。 一方、千文さんは農園内にある古民家で「のうそんカフェnora(ノーラ)」を開店。郷土食をテーマに、地元の野菜やお米、魚などをいかした、この土地でしか食べられない料理を提供してきた。また、4年半過ごしたうちの最後の1年は、英語保育を手がける保育園で、離乳食から大人の食事まで毎日30人分の料理を手がけてきた。 千文さん:「農園の社長さんや移住者の仲間たちなど、たくさんの人の支えがあったからこそ、私たちは農業や食、カフェの運営などを学ばせてもらうことができました。独立にあたって、外房を離れるのはとても名残惜しかったのですが、これからは自分たちの足で歩んでいかなければいけないと思い、那珂川町での就農を決意したんです」 千葉から郡山へ帰省する途中、よく通っていた那珂川町。ここで暮らすことを選んだのは、里山や川の美しさにひかれたからだ。また、郡山の実家に近いことも大きな決め手になった。 里山の旬の恵みをおすそわけ 「あっ、ここにも顔を出していますよ!」 取材に訪れたのは、春の足音が聞こえ始めた頃。家の前に広がるフキ畑には、たくさんのフキノトウが顔を出していた。拓丸さんは地域の資源を活用しながら、10反(約3000坪)の畑で少量多品目栽培に取り組んでいる。春夏秋冬の旬な野菜をセットにし、直接東京や県内のお客さんに発送。地域の飲食店にも野菜を卸している。 拓丸さん:「これからは自分たちの野菜だけではなく、里山のタケノコやフキノトウ、地元のおばあちゃんがつくった梅干しや、製麺所が手がけた天日干しのそばなど、この地域に息づくいいものも一緒に届けていきたいですね。僕たちは里山でしかできない仕事を、都会に暮らす人はそこでしかできない仕事をして、お互いに足りないものを補い合って生活していく。そんな循環する関係を築いていくことは、この地域の産業や里山を守ることにもつながると思うんです」 食を通じて、地域の元気を応援したい 千文さんは地域おこし協力隊としてこれまでの食の経験をいかし、産前産後のお母さんを対象にした町のプログラムで、那珂川町の食材を使ったマクロビオティックランチなどを提供している。この取り組みが始まったのは、食を通じて何か役に立てることはないかと考えた千文さんが、自ら町の健康福祉課を訪ねたことがきっかけだった。「食事によって産前産後のお母さんの健康をサポートしていく」という考え方に担当者も共感してくれて、来年度からは毎月1回など定期的にランチを提供していく予定だ。 ゆずを活用した商品開発の取り組みも、自ら町の六次産業化部会に参加したことがきっかけでスタートした。 千文さん:「かつて那珂川町では新たな産業を生み出そうと、ゆずの木を植えたことがあったそうです。けれど、今では高齢化が進んで、活用されないまま放置されていました。このゆずをいかして、新たな商品をつくり出すのが目標です」 千文さんは、ゆずジュースやゆず紅茶、化粧水や入浴剤など、さまざまな製品を試作。来年度中の商品化を目ざしている。 “農”と“食”を通じて、地域に恩返しを 最後に、二人のこれからの夢についてうかがった。 千文さん:「いつになるかは分かりませんが、“食堂のおばちゃん”になるのが私の夢。那珂川町の豊かな食材をいかした料理を提供するような、いろんな世代の人が集う場所をつくれたらいいなって思っています」 拓丸さん:「いつか農園でも、新たな雇用を生み出していきたい。僕たちが外房で成長させてもらったように、那珂川町で農業を学んでみたい、移住したいという人を、一人でも多く応援できたらと考えています。もし那珂川町で農業をやってみたいという方がいたら、ホームページからなど、いつでもご連絡ください!」 二人は常に自分たちにできることは何かと考え、目の前にあることに一生懸命に打ち込んでいる。“農”と“食”という自分たちが学んできたことを、一つ一つ地域に還元していく。それこそが、子どもたちに少しでもいい地域を、世の中を残すことにつながると信じて。

暮らしと仕事のつながりが楽しい

暮らしと仕事のつながりが楽しい

早川友里恵さん

のびやかな街の雰囲気にひかれて 「就活を始めたばかりの頃は、東京で働きたい、栃木に戻りたいといった希望はまだ明確にはなくて、当時は就職氷河期だったので、興味のある企業を必死になって受けていました」 そう話す早川友里恵さんは、宇都宮市の出身。茨城県の筑波大学で学び、就職活動では東京や愛知などにある食品メーカーを中心に回った。「岩下食品」を受けたのは新生姜やらっきょうなどのファンで、普段からよく食べていたからだという。 だんだんと選考が進み、どの企業に就職するのか、これからどこで暮らしていきたいかを真剣に考えたとき、頭に浮かんできたのは栃木市の街並みだった。 「岩下食品の面接の日に早く着いてしまって、蔵が残る巴波川沿いなど、栃木の街を歩いて回ってみたんです。そしたら、街の雰囲気がすごくゆったりしていて、荒物屋さんや駄菓子屋さんなどのレトロで懐かしいお店もあれば、おしゃれな飲食店などの新しいお店も充実している。とても暮らしやすそうな街だなって感じました。逆に、面接でよく訪れていた東京は、立ち並ぶビルの圧迫感などに疲れてしまうことが多くて。私には、実家にも近く、のびのびとした雰囲気のこの街が合っていると思ったんです」 また、岩下食品では、高校で美術部に入っていた頃から独学で覚えた、イラストレーターやフォトショップの技術をいかせそうだったことも、大きな決め手に。こうして早川さんは2011年4月に栃木にUターン。岩下食品で働き始めた。 “しんしょうがくん”のブログをきっかけに、新プロジェクトへ 入社後、商品企画部に配属になった早川さんは、プレゼン資料や商品のポップ、チラシの制作などを担当。商品PRを目的としたイベントの企画・運営なども手がけてきた。3年目からは、ウェブサイトの更新も行うようになり、大幅なリニューアルも担当した。 「更新をタイムリーに、内容も自社で自由に作り替えられるように、というのが会社の方針で。主要なところだけを制作会社さんにお願いして、あとは“HTML”や“CSS”について勉強しながら、なんとか自分たちでリニューアルを行いました」 その後、ネット通販も担当。入社5年目の現在では、サイトの運営だけではなく、得意先に納品に出かけたり、集金を行ったり、注文を受けてから商品を届けるまでのあらゆる仕事に携わっている。 そんななか、入社2年目から若手の先輩社員たちと一緒に、自発的にスタートしたのが「ちょっとそこまで新生姜」というブログだ。 「ブログの主人公は、私がフェルトで手づくりした“しんしょうがくん”というキャラクター。この“しんしょうがくん”と一緒に、岩下の商品を使ったメニューを提供してくれている飲食店へ出かけたり、イベント出店の様子をレポートしたり、栃木の街並みを紹介したり、私たち自身も楽しみながら200件以上の記事をアップしてきました。すると、『なんか面白いことをやっている若手がいる』と社長の目にとまり、新たにオープンするミュージアムのプロジェクトに参加させてもらえることになったんです」 小さな会社だからこそ、多くのことに挑戦できる ミュージアムとは、2015年6月に栃木市内にオープンした「岩下の新生姜ミュージアム」のことだ。館内には、商品に関する展示だけではなく、新生姜を使った料理が味わえるカフェや新生姜の被り物をかぶって記念撮影できるコーナーや、岩下漬けの体験コーナーなど、遊び心あふれるコンテンツが充実している。 「私は主に『新生姜の部屋』を担当しました。ここは人間サイズになった新生姜が暮らす部屋をイメージして、細部まで新生姜にまつわるネタを散りばめています。新生姜と恋人になった気分で、さまざまな写真が撮影できるフォトスポットです!」 このほかにも、新生姜の被り物の企画や館内にあるジンジャー神社のおみくじ、絵馬のデザインなどを担当。クリスマスなどのイベント時には、飾りつけなどもすべて自分たちで行っている。 「ミュージアムに来てくれたお客さまに『あの展示がすごく面白かった!』『初めてこの商品を食べたけど、おいしかった!』などの声をいただくと、ますますやる気がわいてきます。岩下食品の魅力は、大きな会社ではないので、いろんな仕事に携われるところ。自発的に動くことで、さまざまなことに挑戦できます」 どんどん広がっていく、街の人たちとのつながり 毎朝、自転車で会社に向かう早川さん。通勤時間はわずか10分ほど、渋滞や満員電車に悩まされることはない。一方、住まいから栃木市の中心部へは、歩いて10分ほど。休日には散歩がてら、雑貨店や飲食店などに出かけることも多いという。 「栃木市には、おいしい飲食店が多くて、先輩たちとよく通っている市内のリゾット屋さんがミュージアムの料理を監修してくれたり、ファンだった洋菓子店が新生姜のマカロンを提供してくれたり、暮らしと仕事がつながっているところが楽しいですね。仲良くなったお店の方と一緒に、イベントやライブに出かけることもあるんです」 また、ここ数年で栃木市の街中には、シェアスペース「ぽたり」や古道具と雑貨の店「MORO craft(モロクラフト)」など、若い人たちが営むお店が次々と誕生している。早川さんも、ぽたりで開催されているライブやワークショップ、飲み会などに参加。ぽたりをきっかけに知り合った大工さんが開催する、木工教室のサポートも行っている。 「ここ1、2年で、地元の友達が本当にたくさん増えました。今、栃木市では、同世代の若い人たちが地域を盛り上げようとさまざまな活動をしていて、街に活気があふれています。私も、さらにつながりを広げていきたい。そして、ウェブなどの得意分野をいかして、地域の活動にも積極的に関わっていきたいです」 早川さんにとってこの栃木の街は、仕事に打ち込む場所であり、普段の暮らしを楽しむ場所。さらに今では、新たな出会いが広がっていく大好きな場所に。

芸術を核に、人の力が集う“渦”を

芸術を核に、人の力が集う“渦”を

小坂憲正さん・朋子さん

目ざすのは、土地に根ざした家 「シルバーパインを切り出してくれる山主が見つかったぞ!」 フィンランドからの電話の主は、材木の輸入を手がける知人だった。シルバーパインとは、厳しい自然のなかで立ち枯れたまま、数百年の年月を重ねた木。収縮がほとんどなく、ログビルダーの間では「幻の木」と呼ばれている。 「いつかシルバーパインで家を建てたい」と周囲に話していた小坂憲正さんは、先立つものはなかったが購入を決意した。その後、融資してくれる銀行を見つけ、美しい自然に魅了された霧降高原の土地を購入。3年の歳月をかけて、2004年に「幾何楽堂」を完成させた。 樹齢400年から600年のシルバーパインを重ねたログハウスの構造と、昔ながらの日本建築のよさを融合することで、約40畳のメインルームが実現できた。その大きな窓からは、霧降の美しい森が一望できる。憲正さんが家づくりで何よりも大切にしているのは、周囲の空間を生かした建物をつくること。それを象徴するのが、幾何楽堂の大きな玄関扉の横に掲げられた“渦”のマークだ。 「宇宙がそうであるように、渦と空間は物を生み出す原点であり、同じように家の周りの周辺から生まれてくるイメージが自分の中にはあるんだ。住む人が大切に選んだ土地の力をもらいながら、空間にとけこみ、地に根をはったような家をつくっていきたい」 つくることが自信になり、前に進んでいける 北海道で生まれ育った憲正さんは、神奈川の大学で建築を学んだあと、手に職をつけたいと鳶の道へ。厚木や横須賀で働き30歳を迎え、これからの人生について考えたとき、もともと興味のあったログハウスへの思いがよみがえってきた。日光の小来川(おころがわ)に、ログハウスの神様といわれるB・アラン・マッキーさんがいることを知り、彼のもとを訪ねログビルディングを学んだ。 「木という自然の恵みを、頂いて家をつくる。自分でつくり上げることは、生きていく上で大きな自信に繋がる。細かいことは気にせず、まずはつくることが大切だというマッキーさんの考えにすごくひかれました。マッキーさんは『斧で家をつくるのが一番好きだ』と聞いて、自分も最初に建てる家は斧でつくろうと思ったんだ」 神奈川に戻り、斧と手道具のみでログハウスを建てたのは1998年のこと。自らの手で家をつくるうちに、どんどん木の仕事に魅了されていった。日光に移住したのは、何のしがらみのない土地で、ゼロからスタートを切りたいと思ったからだ。 「“日の光”って書く、地名にもひかれてね。それ以外、本当に特別な理由はないんだ」 扉も建物も、体にいい自然素材で 日光に移り住んでから、便利屋、石屋を経て、ログハウスや日本の在来建築を手がける地元の工務店へ。そこで7年間働きながら、木の家づくりを学んだ。 「夜、仕事が終わってからも、余った材料を使わせてもらって、犬小屋や棚などをひたすらつくっていました。木と木を抜けないように組むにはどうしたらいいかなど悩みに悩んで、自分の頭で考えたからこそ、基本が身についたと思うんだ」 そんなとき、霧降高原の観光施設から扉づくりを頼まれる。 「初めて木を使って扉をつくらせてもらったとき、扉によって建物の印象が大きく変わることを実感しました。当時はもう、集成材やビニールクロスでつくる家が主流になっていたけど、木の扉をつくったことで、その先の空間も木や漆喰などの自然素材でつくりたいという思いが大きくなっていったんだ」 住む人が、参加できる家づくりを 現在、ログハウスの聖地として知られるようになった小来川。この地で育った杉を使い、ログハウスと在来工法を組み合わせることで開放的な空間を実現したそば屋「山帰来」をはじめ、憲正さんは数多くの住まいや店舗を手がけてきた。 南三陸町歌津地区の集会場に携わったのは、震災後、継続的にボランティアに訪れたことで、地元の人たちとの深い縁が生まれたことがきっかけだった。 「あの震災で、自然の力の大きさを痛感してね。地元の人たちと話し合って、今だからこそ“原点”に立ち返ろうと、竪穴式住居を建てることにしたんだ」 大切にしたのは、自分たちの手でつくること。地元の人や日光の仲間たち、ボランティアに訪れた人たちとともに丸太の皮をむくところからはじまり、手堀りで直径9m、深さ1mの大きな穴を掘った。憲正さん以外は皆、素人であったが、はじめて持つノミやのこぎりを手にして木を組み上げていった。こうして、限りなく円に近い24角形の竪穴式住居が完成した。 「大地にかえる素材を用い、自分たちの力で建てた自然に調和するこの建物は、原点でありながら、これから進むべき建物の形でもあると思うんだ。じつは、竪穴式住居はエアコンがなくても、夏涼しくて冬暖かい。これからも体にいい素材を使って環境に寄り添う建物を、そこに住む人たちと一緒につくっていきたいね」 厳しくも豊かな自然が、たくさんのヒントをくれる 霧降高原に暮らして13年。この地の魅力は、自然の厳しさだと憲正さんはいう。 「険しい山道をのぼるからこそ、頂上にたどり着いたとき大きな感動があるように、厳しい自然のなかに暮らすからこそ、本当の喜びが見えてくる。標高差の大きい、厳しくも豊かな霧降の自然は、たくさんのヒントを与えてくれる。ここに身を置くことで、一歩先に進んだものづくりができるのではないかって思っているんだ」 2015年6月、憲正さんと朋子さんは仲間の作り手たちとともに「キリフリ谷の藝術祭」を開催した。今後は幾何楽堂の前に広がる谷に自らの手で舞台をつくり、劇団四季などの出身俳優が活躍する「心魂プロジェクト」とともに、芸術祭で演劇を開催するのが二人の夢だ。 憲正さん:「障がいを持った子どもたちや両親に、ひとすじの喜びを届ける心魂プロジェクトの舞台を観たとき胸が熱くなって、この人たちと一緒に何かをつくりたいと思ったんだ。誰かと一緒に笑ったり泣いたり、感動を共有できる舞台を核に、いろんな人の力が集う“渦”をここから巻き起こしていきたい」 朋子さん:「仲間と一つのことに一生懸命に立ち向かうとき、自分が想像もしなかった力が生まれてきます。そのとき感動は、生きる力になる。そう被災地で実感しました。多くの人と一緒に芸術祭をつくり上げていくことで、感動が生み出す力の輪を、霧降の谷から広げていけたら嬉しいですね」

ぼくはこの吉田村が大嫌いだった

ぼくはこの吉田村が大嫌いだった

伊澤 敦彦さん

素材の持ち味を、最大限にいかしたジェラートを 「正直にいうと、ぼくはこの吉田村が大嫌いだったんです」 どこまでも続くのどかな田園風景や、夜空に広がる満点の星は美しく、子どものころから好きだった。けれど、最寄り駅まで自転車で30分以上かかる不便さや、近くに飲食店や商業施設などが何もない環境にたえられず、伊澤さんは高校を出てすぐに東京のデザイン学校へ。卒業後も都内でデザイナー・アートディレクターとして8年間、グラフィックやWebの制作に携わってきた。 そんな伊澤さんが地元に戻る決意をしたのは、いちご農園を営む父親が、近くにオープンする道の駅でジェラート店を開こうとしたことがきっかけだった。 「父の計画では、どこの田舎にでもあるようなお店になってしまいそうで。いちご農園がジェラート店をやるのであれば、『どこよりもおいしい、いちごのジェラート』を出さなければ意味がない。そのためには、自分がやるしかないと思ったんです」 それから伊澤さんは、都内の名だたるジェラート専門店を訪ねて回った。そのなかで、東京・阿佐ヶ谷にあるジェラートの有名店「Gelateria SINCERITA(ジェラテリアシンチェリータ)」の門をたたく。 「素材のよさを最大限に生かすという考え方に強くひかれました。ジェラートは、材料の配合バランスが命。素材のおいしさを引き出すためには、糖分や乳脂肪などの質や量を綿密に計算し、その素材に合った最適な配合にすることが大切です。『Gelateria SINCERITA』でジェラートづくりの本質を学べたことは、本当に幸せでした」 2011年3月「道の駅しもつけ」の開業とともに、ジェラート専門店「GELATERIA 伊澤いちご園」はオープン。ショーケースをいろどるのは、常時15種類から20種類ほど用意されるジェラートだ。その素材は、県内外問わずいいものを厳選して使用。たとえば、ブドウは栃木市大平町のブドウ園から、りんごは長野のりんご園からと、伊澤さんは生産者に直接会って仕入れることを大切にしている。 「いい素材には、それぞれの生産者の思いが詰まっています。ぼくはその思いを大切に受け継ぎながら、おいしさや素材感を高めたジェラートとして提供していきたい。ブドウよりもブドウらしい、りんごよりもりんごらしいジェラートをつくり、生産者をヒーローにすることが、いちごの生産者でもある自分の責任だと思うんです」 現在、伊澤さんは父親とともに、いちごの栽培にも携わっている。「伊澤いちご園」のいちごは、ハウスで完熟の一番おいしい状態に育てたうえで、出荷されるのが特徴。そのためには、徹底した温度管理とスケジュール管理が欠かせない。伊澤さんは、これまで父親の経験に頼ってきたその技術をすべて数値化。栽培の要点を、いち早くつかもうと努めている。一方、父親も、適度な酸味があり加工品に適した「女峰」という品種を新たに栽培するなど、伊澤さんの取り組みを応援している。 地元を快適な居場所に、自分たちの手で 2014年5月、伊澤さんは旧吉田村にイタリアンカフェ・バール「L'ape Ronza(ラーペロンツァ)」をオープンした。そのきっかけは、高校の後輩であり、ジェラート店を手伝っていた伊藤美琴さんや父親と、飲みながら「伊澤いちご園」の将来について語り合ったことだった。 「ジェラートは、どうしても冬場に売上が下がってしまう。だから、ジェラート店にカフェを併設したい」と漠然と考えていた伊澤さんに対し、都内のフレンチやイタリアンなどのレストランで経験を積んできた伊藤さんは「イタリアの農村にあるような、地域に根ざしたレストランができたら素敵だよね」と語った。すると「使われていない、あの農協の建物がいいのでは!」と父親。翌日、みんなでその建物を見にいくことに。 「築50年ほど経った無骨な鉄骨の事務所や、大谷石でつくられた石蔵を見たとき、お店のイメージが一気に膨らんできました。『吉田村に飲食店がないなら、自分たちでやるしかない』と考えていたこともあり、イタリアンカフェ・バールを開く決意をしたんです」 大谷石の石蔵を、たくさんの人が集う場所に 2015年10月4日、「L'ape Ronza(ラーペロンツァ)」の前の敷地には、栃木や茨城にあるカフェの有名店をはじめ、古道具店や花屋、農家などが集まった。「吉田村まつり」の会場は、各ブースから漂うおいしそうな香りや、アイリッシュバンドが奏でるメロディ、そして多くの笑顔で満たされていた。 地元の旧吉田村にイタリアンカフェをオープンし、マルシェも成功させた伊澤さんに「この街が、だんだん好きになってきたのでは?」とたずねると、返ってきたのは「まだまだですね」という言葉だった。 「まだ、このイタリアンカフェが一軒、オープンしたにすぎません。これからは、カフェの向かいに建つ大きな石蔵を改装し、パン屋や花屋など、いろんなお店が出店できる場所にするのが目標です。ぼくはこの吉田村を、住む人が誇れる街にしていきたい。わざわざ友だちを呼びたくなるような、子どもたちがずっと住み続けたくなるような、何よりもここに暮らす自分たちが快適に過ごせる街に」 何もないからこそ、可能性はあふれている 中学や高校のころ「何もない」と感じていた地元には、じつはたくさんの魅力や可能性があることを、いま伊澤さんは実感している。 「豊かな田畑、おいしい野菜、あたたかな人々。何もないからこそ残る、のどかな田舎の風景は、首都圏の人たちの目にきっと新鮮に映るはずです。栃木県内には、吉田村のような地域が数多くある。UIターンした人たちが新たな視点で地域の魅力を掘り起し、培ってきた能力をいかして、これまでにない仕事を生み出せる可能性はあふれています」 伊澤さんが「吉田村まつり」を始めたのは、豊かな田舎の風景が残るこの地域の魅力を、県内外にアピールするのも狙いの一つだという。 「ぼく一人でできることは限られている。だから、活気あふれる吉田村の“青写真”を鮮明に描くこと、常にそれを発信し、多くの人を巻き込むことが大切。それこそが自分の役割だと思うんです。“青写真”には、たくさんの人に色をつけてほしい。いろんな個性が集まったほうが、きっと魅力的な地域が実現できるから」 いま旧吉田村では、伊澤さんの思いに共感した設計士やデザイナーが参加し、石蔵を人が集う場に再生する「吉田村プロジェクト」が動き始めている。東京から地元に戻って5年。伊澤さんの思い描く“青写真”が現実になる日は、きっともうすぐそこだ。

誰もが地域を面白くすることができる

誰もが地域を面白くすることができる

田中 潔さん

400年にわたり受け継がれた、米づくりを守るために 田中さんが写真に興味を持ったのは、姉の結婚式を撮影したことがきっかけだった。そのとき撮った一枚の写真を、姉夫婦をはじめ多くの人がほめてくれた。大学受験に失敗し将来について悩んでいた田中さんにとって、周囲の言葉はひとすじの希望の光となった。 「その写真は、本当にたまたま撮れた一枚でした。けれど、一瞬で勝負が決まる写真の魅力に、強くひかれたのを鮮明に覚えています。当時は農業を継ぐのが本当にイヤで、カメラマンになろうと家出同然で実家を飛び出したんです」 20歳で上京した田中さんは、写真スタジオに勤めたあと、アシスタントとして経験を積み独立。十数年間、カメラマンとして第一線でキャリアを重ねてきた。「実家に戻るつもりは、まったくなかった」という田中さんだが、いつも実家から送ってもらい食べていたお米が、じつは他人がつくっているものだと知ったとき、その心境に大きな変化が。 「父は、年齢を重ねるうちに手が回らなくなり、米づくりを業者に委託していたんです。そのことを聞いたとき、400年続く米農家が他人のつくったお米を食べていることに危機感を感じました。自分が米づくりを守らなければと、実家に戻る決意をしたんです」 こうして2010年に地元に戻った田中さんは、栃木県内の農家のもとで有機栽培の基礎を学んだ。同時に、父親からも新波の土地に合った栽培方法など、多くのことを教わったという。 「昔、新波地区では洪水が多く、一面が水につかったこともあったそうです。それでも先祖がこの地を離れなかったのは、土地が豊かだったからにほかなりません。田中家には代々受け継がれてきた栽培の知恵や、粛々と続けられてきた自然を敬う風習などが息づいている。ぼくはこうした“土地の魅力”をもう一度掘り起し、大切に受け継いでいきたい。それこそが、自分の役割だと思うんです」 農業を魅力的かつ、稼げる仕事にしていきたい! 川が運んだ肥沃な土地に恵まれ、古くから「おいしい」と評判だった新波のお米。田中さんはこの地で、春には地元から出る“米ぬか”と“酒粕”でつくった有機質肥料を、秋には“米ぬか”や“もみ殻”を田んぼにまき、農薬や化学肥料を一切使うことなくコシヒカリを栽培している。また、肥料のもちをよくするために栃木県特産の“大谷石”の粉末を入れるなど、「土地ならではの味」を引き出すことを追及。こうして大切に育てたお米を、「NIPPA米(ニッパマイ)」という新たなブランドとして販売している。 「ぼくにとって、米づくりも写真の仕事も同じ“ものづくり”。その姿勢が変わることはありません。大切なのは『自分がいいと思うもの、おいしいと思えるお米をつくること』。写真表現で培った感性を生かしながら、自分だからこそできる新たな米づくりを、この新波から発信していきたいと考えています」 「NIPPA米」のファンは県内だけでなく首都圏にも多く、田中さんは直接「NIPPA米」を発送している。栃木市や宇都宮市にあるカフェや雑貨店、古道具店などでも「NIPPA米」を販売。益子の陶器市などのイベントにも積極的に出店し、「NIPPA米」でつくったおにぎりなどをお客さんに届けている。 また、毎年、田植えと稲刈りの時期に開催している体験イベントには、県内外から多くの家族が参加。「自分で植えたもの、かかわったものを食べるのは本当に豊かなこと。暮らしや食生活を見つめ直す、きっかけにしてもらえたら」と田中さんは願う。 「お客さんから直接『おいしかった』、『子どもがNIPPA米ばかり食べています』などの声をいただいたとき、この道に進んで本当によかったと実感します。ぼくは、農業を魅力的で稼げる仕事にしていきたい。カフェや雑貨店でお米を販売したり、イベントに積極的に参加したりと新たなチャレンジを続け、自分自身がその先駆けになることで、新波で農業をやってみたい、住んでみたいという人が増えていったら最高ですね!」 地域を面白くできる可能性が、誰にでも 現在、田中さんは、栃木市の中心部にある古道具と雑貨の店「MORO craft(モロクラフト)」の店主や、シェアスペース「ぽたり」のオーナーなど、同世代、若い世代の人たちと一緒に「ニュートチギ」という団体を設立。合併により広くなった栃木市全域で、つくる人・商う人・使う人のつながりを育みながら、新たな価値観で地域を見つめ直し、暮らしの楽しみや魅力を発信していきたいと考えている。 「地元に戻って感じたのは、つくり手やショップオーナーなど、身近なところにたくさん魅力的な人がいるということ。栃木市内ではまさに今、つくる人や商う人の連携が生まれ、新たなチャレンジが始まったばかりです。だからこそ、やる気と思いさえあれば、誰もが地域を面白くすることができる。そんな可能性にあふれているところが、このエリアの大きな魅力ですね」 昨年、田中さんは初めて酒米の栽培に挑戦。地域の酒蔵とコラボして「新波」という酒をつくり、地元の神社に奉納することを目ざしている。また、自分の田んぼの土とワラを焼いた釉薬を使い「めし椀」をつくるなど、今後は県内の作家と連携しながら「お米にまつわるさまざまなもの」をつくっていきたいという。 新波の地で田中さんが起こす新たな波は、きっとこれからも多くの人を巻き込み、さらに大きく広がっていくに違いない。

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

宮本 吾一さん

魅力的な人が集う、那須という街にひかれて 「Chusという店名は、那須五山のひとつ“茶臼岳”から名づけました。ふだん那須の山々を眺めながら暮らす人たちが気軽に集まり、人と人がつながって、みんなで街をおもしろくしていけるような、そんな場所にしていきたいと思って」 そう話すのは、Chus代表の宮本吾一さん。 Chusは、まさに「マルシェ(直売所)」と「ダイニング」が一体となった場所。約200坪の広々とした店内の手前には、那須の農家の人たちが育てたおいしい食材とともに、宮本さんが生産者に会って直接仕入れた全国各地の食材も並べられている。その理由は、ここで一度にいろいろな食材を購入できたほうが、那須の食材を食べてもらえる機会が増えると考えたから。食材と食材の出会いも楽しんでほしいという。一方、店内の奥はカフェスペース。Chusに並ぶ食材を使った料理が楽しめる。 東京で生まれ育った宮本さんは、20歳のときワーキング・ホリデーでオーストラリアへ。1年間、自然が身近な環境で暮らしたことをきっかけに、帰国後も田舎で暮らしたいと考えるようになった。そのとき、たまたま見つけたのが那須のリゾートバイト。それから3年間、観光シーズンは那須で働き、残りの期間は海外や国内を旅してまわった。 「はじめは、那須に住み続けようとは思っていませんでした。けれど、ここで過ごすうちに、いろいろな人と出会い、那須にはおもしろい人がたくさんいることを知ったんです。例えば、黒磯のSHOZO COFFEEや、森の中にある納屋を改装したバーなど、センスあふれるお店を営む魅力的な人が多くて。こんな生き方ができるんだ、自分もまだ誰も手がけたことがないお店を、那須で始めてみたいと思ったんです」 地元の農家とつながるために、マルシェを まずはリヤカーを改造した屋台で、コーヒー屋台を始めた宮本さん。その2年後に、オープンしたのが「Hamburger Cafe UNICO」だ。 「お店の場所からは、那須の美しい山々が一望できて、目線を上げて景色を眺めながら食べてもらえるものをと考え抜き、ハンバーガーにいきつきました。当時、ハンバーガーはファストフードの代名詞。だからこそ、あえてスローフードと手づくりを大切にした、那須の食材をまるごと味わえるようなハンバーガーを提供しようと思ったんです」 けれど、地元の食材だけで、つくり続けるのは難しかった。 「冬場には、どうしても地元の野菜が少なくなってしまう。那須でカフェやレストランを営む仲間に聞いてみたら、みんな同じ悩みを抱えていました。なんとか、農家の方にお願いして野菜をつくってもえないか。そのためには、何よりも農家と“つながること”が大切だと思ったんです」 “つながる”ための手段として、宮本さんは「マルシェ」を開くことを決意。那須の農家に5軒、10軒と電話をかけ続けるうちに、1軒の農家が協力してくれることに。その方に会いにいくと、マルシェの趣旨に共感し、いろいろな生産者を紹介してくれた。こうして10台の軽トラが並ぶマルシェを、2010年に初めて開催することができた。 「来場者は数百人ほどでしたが、お客さんも農家の方もとても喜んでくれて、笑顔で会話をするシーンが会場のいたるところで見らました。直接、顔と顔を合わせてつながることの大切さを、改めて実感したんです」 「マルシェを毎日開催してほしい」。その声がChusのはじまり それからもマルシェの開催を続けていくと、那須で設計事務所や不動産屋、牧場、味噌屋、カフェを営む人など、協力してくれる人が増えていった。そして7人のメンバーが集まり、2012年にマルシェは「那・須・朝・市」にバージョンアップ。現在は春と秋の2回開催され、毎回5000人が訪れるイベントに。お客さんからは「毎日開催してほしい」という声が多く寄せられるようになった。 「とてもありがたいことですが、メンバー全員が他に仕事をしながらボランティアで参加していて、毎週集まって準備を重ねても、半年に1回開催するのがやっとなんです。でも、諦めたくなかった。毎日開催すれば、人と人のつながりがどんどん広がり、街が面白くなっていく。どうしたら実現できるか?お店にするしかないと思ったんです」 ちょうどタイミングよく、もと家具屋だったこの物件が見つかった。こうして「那・須・朝・市」の7人のメンバーが共同運営するChusが、2015年1月にオープンした。 誰もが参加できる「公民館」のような場所に Chusは、一言で表現するなら、マルシェをそのままお店にしたような場所だ。 「マルシェの魅力はいろいろなお店が集まり、人と人、人とモノがつながる機会があふれているところ。同じようにChusも、多くの人が参加できる場所にしていきたい。一応、僕が代表ですが、Chusは僕のものでも、7人のメンバーのものでもありません。那須連山のふもとに暮らす人はもちろん、県外の人も、誰もが参加することができる。そんなマルシェの会場のような、公民館のような場所をつくることを、僕たちは目指しています」 例えば、毎週木曜日は、イベントを開催したい人のためにお店を開放。イタリアンや中華のディナー会、音楽ライブ、映画上映会など、オープンから1年足らずで50件以上イベントが開催されている。 「これまでにマルシェを開催し、Chusをオープンしてきましたが、行政からの補助金などは一切もらっていません。ただ自分たちが面白いから続けているだけなんです。楽しんでやっているからこそ、人の輪が広がっていく。それは結局、自分にとってもプラスになると思うんです。それに、マルシェやChusによって街が面白くなっていけば、自分のライフスタイルも充実していきます。 多くの人にChusに参加してもらうことで、Chusや那須の街を“自分の居場所”だと思ってくれる人を増やしていきたい。そして、一人でも多くの人が、自分の居場所を良くしようと一歩を踏み出してくれたら嬉しい」 2011年に震災が起こったとき、宮本さんは自宅の建設を計画中だった。観光客は激減し、お店を続けられないのではと不安になることもあったが、宮本さんは計画を変更せず、那須に自宅を建てることを決意。現在、家族3人で暮らしている。 ここが自分の居場所だと決めた宮本さんは、これからもChusから、街を面白くする様々な試みを発信してくれるに違いない。

人と人、技術と技術をつないでいきたい

人と人、技術と技術をつないでいきたい

中村 実穂さん・俊也さん

人や技術をつなぐ。新たな関係から生まれるものを 見る角度や動きによって表情を変える木枠や、まるで星座のようにつながる糸とスチール、円を描きながらやわらかに連なる真鍮など、さまざまな形や素材、技術を組み合わせて、美しいモビールをつくり上げるのは、栃木県足利市にある「mother tool」。さらにステーショナリーや暮らしの道具など、全国各地の工場やデザイナーたちと連携しながら、数多くのオリジナルプロダクトを手がけている。 代表の中村実穂さんは、足利市の隣町、群馬県邑楽町(おうらまち)の出身。都内の短大を卒業し、インテリア・家具デザインの専門学校に進んだあと、両親が営んでいた組み立て工場を継ぐために地元へ戻ってきた。 実穂さん:「じつは親戚中に説得されて、しぶしぶ工場を継ぐ決心をしたんです。当時、主に手がけていたのはパチンコ台を組み立てる仕事。深夜までかかって何千台と組み立てる日もあれば、ぽっかりと数日空くこともある。納期が厳しく仕事に波があるうえ、依頼先からは『代わりの工場はいくらでもある』といわれることもあったりして、この仕事を続けていく意味が、なかなか見いだせなかったんです」 そんな状況のなか、実穂さんと俊也さんの心の中では「自らの手でものづくりをしたい」という思いが膨らんでいった。実穂さんはとにかく一歩を踏み出そうと、専門学校時代の先生である家具デザイナーの村澤一晃さんのもとへ相談に。そのとき村澤さんがかけた「組み立ては、パーツとパーツをつなぐのが仕事。その“つなぐこと”を意識してものづくりに取り組んでいったらいいのでは」という言葉によって、これからやるべきことが見えてきたという。それから実穂さんは、足利をはじめ、岐阜や徳島、福井、東京などの工場を見学したり、気になるデザイナーに会いに行ったり、全国各地を巡った。 実穂さん:「いろいろな方にお会いするなかで、それぞれの工場、デザイナーさんが得意とする分野や技術が分かってきました。その良さをより引き出す形で、人と人、技術と技術をつないでいきたい。それこそが、組み立て屋である私たちの役目だと思ったんです」 モビールは“組み立て屋”の腕の見せどころ 2006年2月にmother toolを設立し、最初に手がけたのが「木とアルミ」のシリーズだ。足利では戦前の飛行機から現在の自動車部品まで、アルミなどの金属加工が盛ん。その技術を代表するのが、ロクロのように回転する板状のアルミに、ヘラを押し当てながら形をつくる“ヘラ絞り”という職人技だ。 実穂さん:「熟練の職人さんが手仕事で生み出すパーツの誤差はほんのわずか。丁寧につくられた強固なアルミに、木目や色味など樹種のよさを引き出すことに長けた徳島の『テーブル工房 kiki』さんの木のパーツを組み合わせることで、やさしさもあわせ持ったステーショナリーをつくることができました」 その後、2011年にモビールづくりを始めたのは、村澤さんの「モビールをつくってみない?」という、何気ない一言がきっかけだった。モビールが大好きだったという実穂さんは「ぜひつくってみたい!」と、モビールをはじめプロダクトデザインを手がけるユニット「DRILL DESGIN」に相談。すると、「せっかくならオリジナルのモビールブランドを立ち上げよう」とDRILL DESGINが快くディレクションを担当してくれた。こうしてモビールブランド「tempo」が誕生。5人のデザイナーによる9種類のモビールに、いまではmother toolのオリジナルをくわえ10種類を展開。海外でも取り扱われるほど注目を集めている。 工場では俊也さんが、デザイナーが手がけた図面や模型をもとに試作を行い、どのスタッフが組み立てても均一なモビールになるよう、工程ごとのマニュアルや、パーツ・工具の作業位置を示す器具づくりなどを行っている。 「モビールは、各パーツをテグスなどでつないで組み立てていきます。そのとき、パーツとパーツの距離や角度が少しずれるだけで、せっかく職人さんがいいパーツをつくってくれても、表情や雰囲気が台無しになってしまう。モビールづくりは、まさに“組み立て屋”の腕の見せどころなんです」 さらに、実穂さんが続ける。 実穂さん:「モビールには金属や木、樹脂、ガラスなどさまざまな素材が使われます。そのため、いつか一緒にものづくりができたらと思っていた多くの工場と、新たに仕事ができるようになりました。モビールの展開を始めたことで、よりmother toolらしいものづくりができるようになったと感じています」 足利の地で育まれた技術や人を活かして 足利学校のほど近く、石畳の通りに面した建物に、2009年mother toolのお店がオープンした。「ものをつくるだけではなく、使う人に直接届けたい」「つくり手の思いや背景を伝えることで、つくる人と使う人をつなぐ役割も果たしていきたい」との思いから、店内にはmother toolの道具だけではなく、つながりのあるデザイナーや工場のプロダクトも数多く並べられている。さらに2014年には、工場も足利市内に移転。その理由は、足利にはさまざまな技術を持った工場が集まっているからだという。 俊也さん:「足利では金属加工だけでなく、古くから繊維業も盛ん。フットワークの軽い小規模な工場が多く、ありがたいことに、私たちと一緒に楽しみながらものづくりに取り組んでくださる工場も増えています。何か相談ごとがあれば、すぐに会いに行ける距離。雑談のなかから新たなアイデアが生まれることもあるんです」 実穂さん:「歴史ある建物が点在している足利の石畳エリアは、散歩をしていてとても気持ちがいい。のびやかな雰囲気が気に入っています。屋台をはじめ、おいしいコーヒー屋さんや個性あふれる飲食店など、個人が営む小さなお店が多いのも魅力ですね」 そんな足利の魅力を多くの人に知ってもらいたいと、実穂さんは地域づくりの団体「いしだたみの会」のメンバーとして、石畳エリアの魅力を伝える冊子「TALIRU」の制作にも携わっている。 「今後は足利に息づく技術をさらに掘り起し、新たなプロダクトとしてその魅力を発信していきたい」と考える二人。 地域で育まれた技術や人の強みを活かし、ほかの産地の素材や技術と組み合わせることで、新しい価値をつくり出す。mother toolのプロダクトは、東京などの大都市でなくとも面白いものづくりができること、地域に根ざしているからこそ生み出せるものがあることを気づかせてくれる。

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

辻井 まゆ子さん

鹿沼の魅力的な人たちにひかれ、4日で移住を決意 「時間があるなら、ぜひ鹿沼へ行ってみたら!」 そうすすめてくれたのは、日光にあるゲストハウス「巣み家」のオーナー夫妻だった。旅行で日光を訪れていた辻井さんは、その言葉をきっかけに鹿沼へ立ち寄ることに。ちょうどその日は、ネコヤド商店街というマルシェの開催日。鹿沼にお店を構える若いオーナーや作り手たちが出店し、街は多くのお客さんで賑わっていた。 「じつは、初めて足を運ぶまで、鹿沼のことはまったく知りませんでした。鹿沼は観光地などではない、いわば普通の街。けれど、魅力的な人がたくさんいることに驚いたんです」 魅力的な人とは、マルシェに出店していた若い人たちだけではない。この日、辻井さんは、鹿沼で16年続く「CAFE 饗茶庵」のオーナー・風間教司さんと知り合い、街を案内してもらった。すると「どこから来たんだい?」と、街の人たちが気さくに声をかけてくれた。 「この街で商売を続けている方や、地元の祭りに登場する彫刻屋台(山車)を手がける職人さんなど、長年鹿沼に住んでいる人のなかにも魅力的な人がたくさんいて。風間さんをはじめ若い人たちと一緒に、街を盛り上げようとしている様子が伝わってきました。そんな温かい人のつながりや、何か楽しいことが起こりそうな街の雰囲気に強くひかれたんです」 その後、京都に戻った辻井さんは、仕事で奈良に来ていた風間さんと再会。「鹿沼に移り住みたい」という決意を伝えた。なんと、初めて鹿沼を訪れてから4日後のことだった。 誰かが一歩を踏み出す、きっかけになる場所を 神戸の大学を卒業後、辻井さんは2年ほど京都・大阪にあるカフェやパン屋で働いてきた。けれど、「将来こうなりたい」という明確な目標はなかったという。それが、鹿沼を訪れたことで「ゲストハウスを開く」という目標が見えてきた。 「初めて鹿沼を訪れた日、楽しかったこともあり、あっという間に夕方に。鹿沼に泊まろうとしたのですが、宿泊施設がほとんどなくて、そのとき『ゲストハウスがあったらいいのに』『ゲストハウスを開いて、自分がひかれた鹿沼の人たちのことを多くの人に紹介したい』と思ったんです」 また、日光の『巣み家』に宿泊したことも、大きなきっかけとなった。 「私は、『巣み家』のオーナー夫妻に鹿沼のことを教えてもらったから、ここへ来ることができた。そんな、誰かが一歩を踏み出すきっかけになるような、ゲストハウスをつくりたいなって思ったんです」 オープン前から広がった、つながりの輪 2013年5月から2カ月間、「巣み家」で修業をした辻井さんは、鹿沼市観光物産協会の臨時職員を経て、風間さんのもとで働き始めた。その間も1年にわたり物件を探し続け、ようやく旅館だったこの物件と出会った。 「大家さんは、江戸時代から続いていた旅館をやむなく閉めた経験から、『ここで宿をやるのは、なかなか難しいよ』と首を縦にふってくれませんでした。それでも諦めきれずに何度もお願いにいくと、『そこまで決意が固いなら』と大家さんが了承してくれて、1年越しで貸していただけることになったんです」 2015年3月、作業が始まった建物には、多くの人たちの賑やかな声があふれていた。この日、現地では鹿沼に事務所を構える一級建築士の渡辺貴明さんに協力してもらいながら、平面図をつくるワークショップが開催された。 辻井さんは準備段階から多くの人に参加してもらおうと、風間さんとともに「日光例幣使街道・鹿沼宿旅館再生プロジェクト」を立ち上げ、掃除や壁紙はがし、ペンキ塗りなど、さまざまなワークショップを開催。街の人たちや鹿沼を出て首都圏で働いている人など、たくさんの人たちが協力してくれた。 「いつもお世話になっている鹿沼のおじちゃんやおばちゃんが差し入れを持ってきてくれたり、『巣み家』をはじめ、県内や秩父のゲストハウスの方が応援に来てくれたり、人の輪がどんどん広がっていくのが本当に嬉しかった。消防法の申請などの高いハードルも、なんとしても乗り越えなければと思ったんです」 目標は、鹿沼のファンを増やすこと 開店準備が佳境に差しかかったころ、ゲストハウスの名を「CICACU(シカク)」と決めた。“CI”は“Civic”で鹿沼の人たちを、“CA”は“Cabin”でゲストハウスに泊まる旅行者を、“CU”は“Culture”(文化)や“Curation”(共有・編集)を意味している。 「私はCICACUを、単なる宿泊施設ではなく、地元の人や旅行者が集まれる場所にしていきたい。いろいろ人たちが集い交流するなかで、鹿沼の伝統や文化が受け継がれつつ、新たな文化が生まれ発信されていくような場所に」 そこで、CICACUの2階にある大広間をレンタルペースとして開放。オープン前から、すでにヨガ教室や料理教室、音楽ライブなどが開催されている。 「これからも珈琲ドリップ教室や映画上映会など、さまざまなコンテンツを増やしていく予定です。ときには鹿沼の人が先生になったり、旅行者が主催者になったり、学びやイベントを通じて多くの人が集い、つながる拠点にできたらと思っています」 さらに、鹿沼で自転車の卸を手がける大倉ホンダ販売に協力してもらい、CICACUのオープンに合わせて「レンタサイクル」も始める予定だ。 「ぜひ自転車に乗って、鹿沼の郊外へも出かけてほしい。郊外には豊かな自然や田園風景が広がり、農業を頑張っている若い方や田舎暮らしを楽しんでいる移住者がいます。一方で、鹿沼の街中にも魅力的な方がたくさんいる。CICACUに2泊、3泊しながら、ゆっくり両方の魅力に触れてもらえたらと考えています」 さらに、辻井さんは続ける。 「鹿沼のいちばんの魅力は、街の人たちの温かさ。新しい何かを始めようとする人を、たくさんの人が応援してくれます。CICACUに宿泊したり、教室に参加したり、街の人とふれ合ったりするなかで、鹿沼に移り住んでみたい、ここで新しいお店や仕事を始めたいという人が増えていったら、何よりも嬉しい!」 春の足音が近づくころ、鹿沼の街にCICACUはオープンする。鹿沼に旅へ出かけたときはもちろん、カフェを訪れたとき、「ネコヤド商店街」に遊びにきたときなどに、ぜひ気軽に立ち寄ってみてほしい。新たな出会いや発見に満ちた、その場所に。

那須に新たなスペクタクルを

那須に新たなスペクタクルを

鈴木 和也さん

那須の美しい自然にいざなわれて 那須どうぶつ王国に隣接する牧場からは、緑豊かな森や田畑に抱かれた那須の街並みを見渡すことができる。振り返れば、那須岳の雄大な山並み。今から28年前、この美しい自然に魅せられた一人の男性がいた。 「那須高原を訪れたのは、ちょうど5月の終わりごろ。360度見渡すかぎりの新緑がまぶしくて。日本にこんなに美しい場所があったんだ! ここで仕事がしたい! と強く思ったんです」 その男性の名は、鈴木和也さん。当時、東京のホテルチェーンに入社したばかりだった鈴木さんは、リゾート開発プロジェクトの視察で役員の運転手として那須高原を訪れた。それからというもの「現地でプロジェクトに携わりたい!」と、何度も上司に直談判。2年を経て思いは受け入れられ、鈴木さんは那須町に移り住んだ。事業立ち上げのために最初に取りかかったのは、地元の人たちとの交渉だ。 「地元の人たちと飲みに行って、膝を突き合わせてお話する機会がたくさんありました。みなさん、とても温かくて。当時、独身だったぼくにゴハンを差し入れてくれるなど、本当によくしてくれました。那須には四季折々の美しい自然、おいしい食材、何よりも魅力的な人がたくさんいる。ぼくはそんな那須の魅力をいかした、地域に密着した施設をつくりたいと思ったんです。首都圏から訪れる人だけではなく、地元の人にも愛される動物園を」 那須の食材100%!地元のおいしさが詰まった「なすべん」 「那須どうぶつ王国」がオープンしてからも、鈴木さんは観光協会の理事を務めるなど、地域活性化の活動に積極的に取り組んできた。そんな活動のなかから誕生したのが、「なすべん」の愛称で親しまれる「那須の内弁当」だ。 「それまで『那須どうぶつ王国』で提供していた料理は、ありきたりなものばかりで。なんとかメニューを充実させたかったんです」 鈴木さんは、地元農家や酪農家、飲食店を営む人たちと協力し、2006年に「なすとらん倶楽部」を結成。那須の看板メニューを生み出すべく、話し合いを重ねた。また、地元野菜を料理に活かすために、JAにも直談判を行った。 「那須町は農業がとても盛んで、『白美人ねぎ』『美なす(ビーナス)』などのブランド野菜がたくさんあります。けれど当時は、それらの野菜はすべて首都圏に出荷されていて、地元では流通していませんでした。そこで、JAさんにお願いに行き、戻り際何度も足を運ぶうちに、気骨ある職員の方が協力してくれるようになって、ブランド野菜の入手が可能になりました。こうして2010年に『なすべん』が誕生したんです」 現在では、「那須どうぶつ王国」を含む9店舗が、これらの地元食材を活かしたオリジナルメニューを提供している。2015年には「なすべん」の地産地消の取り組みが評価され、「農水省食料産業局長表彰」を受賞した。 大切なのは、自分の言葉で発信すること その後も鈴木さんは、那須の広大な自然のなかで若手アーティストの作品を発表するアートイベント「スペクタクル・イン・ザ・ファーム」を開催するなど、那須の魅力を積極的に発信してきた。その「発信すること」の大切さを気づかせてくれたのは、うれしい偶然の出会いだったという。 「たまたま那須にあるホテルで早稲田大学の中村好男教授にお会いして、それがきっかけで早稲田大学のスポーツ科学学術院で、ぼくたちの那須での取り組みについてお話させていただくことになったんです。そのプレゼンの後の懇親会で、中村先生から『那須の魅力を活かす鈴木さんの取り組みは、『那須だけではなく、日本のためにもなることだと思いますよ』と言っていただいて」 その言葉をきっかけに、鈴木さんはこれからの自分の使命に気付いたという。 「地域を活性化していくためには、自分の住んでいる街を愛し、地域の魅力を徹底的に掘り下げることが重要。けれど、それだけでは十分とは言えない。大切なのは『自分の言葉で積極的に発信すること』『そして他地域と連携して輪を広げていくこと』だと、中村先生は気づかせてくれたんです」 地域への熱い思いが実現した、数々の奇跡 これまでの取り組みにより、来場者が順調に増えていたちょうどそのころ、東日本大震災が発生した。那須町への観光客は激減し、那須どうぶつ王国でも、スタッフを自宅待機させなければならない状況となった。 「それでも、きっと何かできることがあるはずだと考え抜き至った結論は、やはり『自分の言葉で発信すること』でした。そこで那須町観光協会の支援も頂き、震災後も那須で頑張る人々の情報を発信するラジオ番組をスタートしたんです。また、那須の有志で「那須元気プロジェクト」を立ち上げ、震災で那須町に避難されて来た皆様への情報提供等も行いました。さらに、那須に事業所を持つ企業が連携して協議会を立ち上げ、那須を盛り上げるさまざまな活動を、一緒になって行ってくれるようになったんです」 鈴木さんをはじめ有志が集まり、震災前から準備を進めてきたサイクルイベント「那須高原ロングライド」を初めて開催したのも2011年のことだ。 「震災後のイベント自粛ムードのなか、『誰も参加してくれないのでは』という声もありました。でも、こんなときだからこそやらなければいけないと、あえてリスク承知の上で開催すると、なんと800人以上もの人が参加。首都圏からも多くの人が来てくれました。みなさんからの『頑張ってください!』『応援していますよ!』という温かい言葉がうれしくて、うれしくて。涙があふれてきました」 このイベントから活動が広がり、翌年にはプロチームの「那須ブラーゼン」が誕生。2014年には、所属選手が全日本チャンピオンとなった。「那須ブラーゼン」は観光客や子ども向けのイベントも開催し、町を盛り上げている。また、ブラーゼンがモデルの地域密着のテレビドラマが全国放送されるなど全国にもその輪が広がっている。 これからも、新たなスペクタクルを ラジオ番組をはじめたころから、鈴木さんは「スペクタクル鈴木」というサブネームを使い始めた。アートイベントの名前にも使われた“スペクタクル”という言葉には、人と人との交流を通し、場に大きな化学変化が起きることで、そこに感動が生まれる、「まさに奇跡的な瞬間」という意味が込められている。 「自分の言葉で積極的に発信しはじめてから、活動に興味を持ってくれる人、応援してくれる人のつながりがどんどん広がり、奇跡のような出来事がたくさん起こりました。栃木県内には、地域の魅力をいかし自分たちで楽しみながら、スペクタクルを起こしている人がたくさんいます。そんな奇跡的な瞬間を目にした若い人たちが、さらに自分の街で新たな取り組みを始めようとしています。これからも、他地域の魅力的な人たちと連携しながら、自転車ロードレースの国際イベントや那須を舞台にした映画など、新たなスペクタクルを巻き起こしていきたいですね」

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