interview

先輩移住者の声

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人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

高橋 潔(たかはし きよし)さん

起業と農業、東京と矢板 栃木県内の高校を卒業後、大学は群馬県へ。社会人としてのスタートは、人材派遣会社の営業職だった。全国に拠点があり、東北や関東エリアを中心に経験を積んだ。20代後半で転職した会社では、人事や経営企画、秘書業務など経営層に近い部分に携わった。 「全国を拠点に、特に製造業への人材派遣をメインとしていたのですが、ここ十数年で多くの企業が工場の閉鎖や廃業するのを目の当たりにし、地方の危うさというか、将来への危機感を募らせていました。2011年の震災も経験し、何か地方を盛り上げることや地域に還元できることをしていきたい、と考えるようになったんです」 そして2014年、思い切って会社を辞め起業した。 「とにかく地方を盛り上げたい想いだけはあって、会社を作りました。以前、オンラインで全国会議をしたことがあり、この仕組みを使えば何かおもしろいことができるのでは?と考えたんです。今では当たり前のオンラインですが、10年以上も前だとまだそこまで一般的ではなかったですよね」 そうして立ち上げた事業のひとつが、オンライン配信サービスであった。当時はビジネスとしてはまだ競合も少なかったが、ニーズはあったため、順調に軌道に乗った。 「ただ、私自身はITまわりにそこまで強い訳ではなくて。社員に“配信はやらなくていいです”と言われるくらいでした(笑)そのため、配信の実務は当初から信頼できる社員に任せています」 会社を経営する一方、高橋さんがずっと気にかけていたのが、矢板市で叔父が経営するぶどう園だった。 「りんごの生産が有名な矢板市ですが、叔父は市内唯一のぶどう園を経営しています。ただ跡継ぎがおらず、今後どうするんだ、という話を以前からずっとしていました。先代の頃からワイン作りやワイナリーの夢もあり、叔父も自分も諦めたくない、という想いが強く、2015年の正月に話し合いをしました。起業して1年も経っていませんでしたが、自分が畑を手伝うことにしたんです」 こうして東京と矢板、オンライン配信サービスと農業という全く異なる分野での2拠点生活が始まった。 ぶどう園での手伝いから協力隊へ 2015年6月からぶどう畑で作業するようになった高橋さん。 日々の作業の中で、市役所の農業や広報の担当者と接点を持つ機会が増えた。当初は農業に関する話が多かったが、徐々に今後の矢板市について語り合うことも増え、「矢板市は、地域おこし協力隊の募集はしないのですか?」と尋ねたことがあった。 以前から全国の地域活動に目を向けていたため、地域おこし協力隊のことは知っていたという。ちょうど矢板市でも、募集に向けて動いているタイミングだった。 矢板で過ごす時間が増え、叔父のぶどう園だけでなく、周辺地域のこと、農業のこと、市の未来について考えることが多くなったという。 「自分が育った矢板を、どうにか盛り上げていきたい」という想いは、日々強くなっていった。 そんな中、矢板市での地域おこし協力隊募集が始まり、手をあげた高橋さん。 地域への想いや活動の実績が評価され、“中山間地域の活性化”をミッションに2017年4月から活動を始めることとなった。 「活動地域が泉地区という、ぶどう園とは異なる地域だったので、協力隊としては泉地区にコミットし、休みの日にぶどう園の作業、夜に自社の仕事をオンラインで、という生活スタイルでした。全く違う頭を使わなければならなかったので、切り替えは大変でしたね」 泉地区では、まず地域を周り、現状を知ることからスタート。矢板市の中でも過疎化が著しいこの地域では、住民たちも危機感を募らせていた。 そこで都内の大学生を呼び、地域課題に取り組むプログラムをコーディネートしたり、全国の地域課題に取り組む団体の方を講師に呼んで勉強会を開いたりと、様々な取り組みに着手。 2年目には、既に地域で活動している人たちのサポートに入り、一緒に事業の収益化を考えるなど、コンサルタントのような立場でまちづくりに取り組むようになった。 そんな中、矢板市で人口減少などの地域課題に取り組むための拠点(後の『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』)を作る構想が立ち上がる。協力隊卒業後は市内で団体を立ち上げ、矢板に人を呼び込むような仕組みを作りたいと考えていた高橋さんは、市からの依頼もあり、協力隊2年目の途中から拠点の構築に取り組むこととなった。 「泉地区の皆さんには、3年間携われず申し訳ない気持ちも大きかったですが、関わった期間の中での取り組みにはとても感謝してもらえて。今でも飲みに誘ってもらえる関係を築けています」 TAKIBIの立ち上げ 新たなミッションとなった『矢板ふるさと支援センター』の構築については、拠点の場所探し、運営の構想、スタッフの採用、その全てを担った。 「人々が自然と集まってくるような場所。その時々でカタチを変えるような空間。薪を集めて火を灯すことがスタートアップのイメージにもつながることから“TAKIBI(焚き火)”という名称になりました」 スタッフとして新たに3名の地域おこし協力隊を採用。市内の空き家を借り、採用した協力隊と共に地元の高校生なども巻き込みながら自分たちで改修作業を行なった。 そして2019年6月『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』として、地域内外の人々が気軽に集えるシェアスペースがオープン。 「自分の力を出し切り、やっと形になった時は嬉しかったですね」 その後、移住相談窓口やテレワーカーの仕事場、地元学生の勉強の場、イベントスペースなど幅広く活用された『TAKIBI』だったが、2022年8月に矢板駅東口からほど近い場所へ移転。現在、高橋さん自身もより広くなった新生『TAKIBI』を利用している。 「商業施設などとも隣接しているので、多くの方の目に触れやすく利用しやすい環境だと思います。シェアスペースやシェアキッチンを多くの方に利用いただきたいですね」 『TAKIBI』のスタッフの皆さん、顔馴染みの利用者さんと 地域での商売を、うまく循環させたい 今も変わらず、矢板と東京の2拠点生活を続けている高橋さん。協力隊卒業のタイミングが2020年3月だったこともあり、卒業と同時に会社のオンライン配信サービスの仕事が急激に忙しくなってしまったが、それぞれで仕事がある時に行き来しているという。 「協力隊卒業を見越して、矢板でNPO法人を立ち上げたんです。コロナのタイミングと重なりほとんど活動できていなかったのですが、少しずつ準備を整えていて、2023年はやっと動き出せそうです」 市内の空き物件を借り、整備を進めている。 「この空間を整備して、地域住民のための情報発信拠点を作ります!」 地元の商店主たちと話をする中で、「何かをやるにもPR手段がない」との声を多く聞いた。 広報物では情報発信までのタイムラグが生じ、SNSでは一部の人にしか届かない。誰でも聴けるラジオを通じて、リアルタイムの情報を地域の人に届けるサービスを展開したいと考えている。 「配信ツールは、会社の機材があるので整っています。例えば、飲食店の店主にスタジオに来てもらって“今夜のテーブル席、まだ空いてます!”といった情報を発信してもらえたらと。事前に日にちを決めて、数万円の広告費を払ってもらうのではなくて、発信したいときに来てもらって、ワンコインでもいいから気持ちを収めてもらう。その方が、お互いに気持ちよくサービスを続けられると思うんです」 目指すところは、この仕組みがうまく循環し、店主たちにとって“商売しやすいまち”となることだ。そのためにも、できるだけ気軽に立ち寄れるよう、普段から誰でも自由に出入りできるフリースペースも設ける。偶然ではあるが、情報発信拠点は地域の方が立ち寄りやすい場所にあるという。 「『くじら亭』という焼鳥屋があるんですけど、地元のみんなのたまり場みたいな場所なんです。縁があり、お店のすぐ隣の物件を借りられることになって。大将とは20年来の付き合いで、常連さんたちとも顔馴染み。これから地元の皆さんとの縁をより大切にしていきたいですね」 矢板への想い 「当面は2拠点生活を続けることになりそうですが、いずれは矢板を軸にという思いはあります。その時に、もっと矢板を生活しやすいまちにしたいと思っていて。そのために今種撒きをしている感じですね」 まずは情報発信拠点を稼働し、多くの人に利用してもらえるようにする。地元で商売をしている人だけでなく、移住者やテレワーカーなど、さまざまな人が交流し情報交換できる場になれば、と考えているという。 またぶどう園についても、まだまだやりたいことはたくさんある。現在、ぶどうジュースは道の駅や直売所で取り扱いをしているが、ワイン作り、ひいてはワイナリーへの夢は膨らむ一方だ。 「ワインで儲けたい。という訳ではなく、矢板市産のワインを作ることで地域を盛り上げるツールにしたいんです。ワイナリーを作ることができたら、雇用を生むことだってできる。この地域に人を呼び、ここに暮らして一緒に矢板を盛り上げる人たちを増やしていきたいです」

東京と栃木の人がつながるハブのような場所を

東京と栃木の人がつながるハブのような場所を

大倉 礼生さん

栃木にも素晴らしいものがたくさんある 取材当日の朝、大倉礼生さん、結衣さん夫妻と待ち合わせたのは、宇都宮市の中心部から車で10分ほどの距離にある「BROWN SUGAR ESPRESSO COFFEE」(下写真)。 「ここのコーヒーが本当においしくて、休日にはブラウンシュガーさんか、こちらに豆を卸しているムーンドッグさん(MOON DOGG ESPRESSO ROASTERS)に立ち寄るのが、ルーティーンになっています」(礼生さん)。 休日には出かけることが多いという二人は、おいしいお店があると聞けば、県内外問わずどこへでも足を運ぶ。栃木市でパンを買って、佐野市でコーヒーを飲んで、宇都宮市でランチを食べて……と、1日に5、6軒のお店を巡ることもあるという。 「おいしいものを食べたり、素敵な空間で過ごしたりするのが好きで、楽しいのはもちろんですが、やっぱりいいものに触れると仕事のインプットにもなります。味やサービス、お店づくりなど、『自分はこれができていなかったんだ』とハッと気づかされることも多く、いろんな場所へ出向くのは大切だと実感しています」 そう話す礼生さんは、若いころは「栃木になんて何もない」と思っていたとのこと。けれど、東京で15年以上過ごし、いいものに多く触れた後、栃木県に戻ってみると、地元にも素晴らしいお店や魅力的な人がたくさんいることに気づいた。 「東京だと行列に並んで買うようなおいしいコーヒーが、こっちでは並ばずに買えて、店主との会話を楽しみながらゆっくり味わえる。こんなふうに魅力的な人とつながりやすく、深い付き合いができるのも、戻ってきて感じた栃木の魅力ですね」 まだ世にあまり出ていない燻製料理店を宇都宮に 東京で美容師を経て、駒沢のカフェで働き始めた礼生さんは、料理もサービスも担当し、瞬く間に店長となり、そこで10年にわたり経験を積んだ。 「オーナーが異業種の方だったこともあり、お店のことは任せてくれたのですが、僕は飲食店で修業したわけでもなく、とにかく自分で調べてやるしかなかった。ご飯を食べに行っておいしいと思ったら、『これはどうやってつくるんですか?』と聞いたり、『この音楽は誰のですか?』『この椅子はどこで買ったんですか?』と尋ねたり、そうやって自分がいいなと思ったもの、やりたいことを調べて形にしていくのが楽しくて。20代後半には、もっと自由にできる自分のお店を開きたいと考えるようになったんです」 なかでも惹かれたのが、好きでよく食べに行っていた燻製料理だ。カフェはコーヒーがあったり、食事も出していたりとオールジャンルなところが魅力だが、逆に何か一つに特化した、他にはないようなお店をやってみたいと思うようになった。 スモークマンの人気メニューの一つ「燻製の前菜盛り合わせ」(1680円)。魚介や生ハム、ナッツ、野菜と一度にいろいろな種類の燻製が味わえる。 「その点、燻製料理は、ソーセージやベーコンなどの一般的な燻製以外は、多くの方がまだ味わったことがなく、未知の領域だと思うんです。燻製なら、まだ世に出ていないような、自分のお店でしか味わえない料理が提供できるのではないか。そう考え、友人の燻製料理店で修業をさせてもらうことにしたんです」 こうして燻製料理を学んだ礼生さんは、2015年に地元の栃木県へUターン。宇都宮市の中心部にあるこの物件と出会い、2016年2月に念願だった「燻製レストラン&バー SMOKEMAN(スモークマン)」をオープンした。 宿泊施設を営む夢に向けて一歩ずつ お店を開く場所として、東京ではなく宇都宮を選んだのは、なぜですか? そんな疑問を礼生さんに投げかけると、「僕は、いつかホテルやペンションのような宿泊施設を開くのが夢なんです」と話してくれた。 「その宿泊施設にはカフェやサウナなどもあって1日ゆったりと過ごすことができる、そんな旅の目的地になるような場所をつくりたい。食事を提供して、サウナを楽しんでもらい、心地よい部屋を用意して、翌朝お見送りする。サービス業のなかで、お客さんの1日により深く携われるホテル業がとても面白そうで、独立を考え始めたころからいつかやってみたいと思っているんです」 宿泊施設を開くことを考えたとき、家賃などのコストが多くかかる東京は現実的ではなく、地方で開きたいと考えるように。なかでも、地元の栃木県は東京からのアクセスもよく、宿泊施設を開くにはうってつけの場所だと感じた。こうして礼生さんは、夢への第一歩である燻製料理店を、宇都宮にオープンした。 燻製のメニュー開発は、まるで実験のよう この日は、特別に厨房の中を見せてもらった。厨房の一角には、特注の大きな燻製器が鎮座。このほか、小型の燻製器や鍋を食材ごとに使い分け、礼生さんは燻製をつくっている。新しいメニューを考案するためには、トライアンドエラーが欠かせない。 お店には結衣さんも立ち、調理やサービスを手がけている。 例えば、ランチの燻製ハンバーガーは、パティの牛挽肉を燻製しているのだが、温度は何度で、どのくらいの時間、どの木でいぶすかによって、仕上がりが大きく変わってくる。また、パティを燻製するのか、ソースを燻製するのかなど、決められた答えはない。 「だから、試作はまるで実験のようです。失敗することもめちゃくちゃ多いのですが、そのぶん、『これだ!』という味を実現できたときの喜びは大きいですね」 目指すのは、食材そのものの良さを生かしつつ、燻製の香りも楽しめる料理。スモークマンでは、すべてのメニューが燻製料理のため、香りが強くなりすぎないよう絶妙な燻製加減を何度も試作して追求している。 最近では、遠方に住んでいるなどの理由でなかなか来店できない人にも、気軽にスモークマンの燻製料理を楽しんでもらいたいと、オンライン販売にも力を入れている。30度以下で燻製する「冷燻法」という手法で、16時間もかけて燻製したチーズをはじめ、燻製ナッツや燻製オリーブ、燻製牛タンジャーキー、燻製調味料などを販売中。これからは道の駅や百貨店などにも置いてもらえるよう働きかけていこうとしている。 ランチの定番「SMOKEMAN BURGER」(1250円)。パティは牛肉100%に、和牛の牛脂を加えてうま味をプラス。ブリオッシュパンのバンズの甘みが燻製されたパティとよく合う。 オンラインでの販売をスタートした「燻製ナッツ」(1100円)。 東京での経験を活かし、栃木を盛り上げていきたい 休日にはおいしいお店を巡るだけでなく、ゴルフも楽しむ礼生さん。東京にいたころからゴルフはやったことがあったが、本格的にハマったのはUターンしてからだ。 「栃木県内にはゴルフ場が多く、近くて料金も比較的安いので、本当に気軽に楽しめます。僕は、土日に店があるので、友人たちとはなかなか休みが合わないのですが、ゴルフだとみんな日程を合わせて平日に有給を取ってくれて、一緒に遊べる機会が増えました。また、ゴルフを通じて、普段は出会わないような人とのつながりが広がるのもいいですね」 もう一つ、礼生さん、結衣さんが共にハマっているのがサウナだ。栃木県内をはじめ、新潟や東京などのサウナまで出かける“サウナ旅”も楽しんでいる。 「サウナに入ると疲れがすっと取れて、気持ちがリセットできるところが気に入っています」と話す礼生さんは、将来の夢である宿泊施設を手がけるための足がかりとして、現在、地元の塩谷町に貸し切りサウナを開こうと動きはじめている。 「栃木県をはじめとした地方なら、東京と同じ家賃で何倍もの広さの物件が借りられ、やれることの幅も大きく広がります。お金を稼ぐことももちろん大切ですが、僕はそれよりも、やりたいことを我慢せずにできることが何よりも幸せだと思うんです。地方でもレベルの高いものを提供していれば、全国からお客さんが来てくれたり、オンラインで各地へ販売できたりと、大きく広がっていく可能性もあります」 宇都宮に今年の夏オープンした大谷石蔵の貸し切りサウナ「KURA:SAUNA UTSUNOMIYA」を訪れたときの一枚。 サウナが実現できたら、次はいよいよ念願の宿泊施設の開業にチャレンジしたいと考えている礼生さん。 「東京で15年以上過ごしてきた経験やつながりを活かして、東京と栃木をつなぐハブ的な役割が果たせるような、ホテルとカフェやサウナが一体となった場所をつくり上げたい」 そこには、地域の特産品を販売するコーナーがあって、地元の生産者と東京などの都心部から訪れた人が気軽にコミュニケーションをとることができる。コーヒー店をはじめ、栃木で素晴らしいお店や活動を展開する人たちとコラボしたイベントも定期的に開催されている。そんなワクワクするような場所を形にし、地元・栃木を盛り上げていきたいと礼生さんは考えている。 栃木、東京の大切な人たちを招き開催した結婚式の思い出の一枚。

農業で町を盛り上げる

農業で町を盛り上げる

柴 美幸(しば みゆき)さん

日常の風景に魅了されてこの地へ 小学生の頃から「カメラマンになりたい」と考えていたという柴さん。栃木県内の高校を卒業し、都内の写真専門学校へ。その後、カメラマンとして様々な分野で経験を積み、30歳で独立した。 「仕事は順調でしたが、帰って寝てまた仕事という日常。例えば“趣味は?”と聞かれても答えられなかったんです。それって幸せなのかな・・・と考えてしまって。写真を撮るのは好きなのに、なんか違うなって。そんな時、市貝町役場に勤める友人に誘われて初めて市貝町を訪れました。それが転機になったんです」 目にしたのは観光名所でもオシャレなお店でもなく、市貝町の日常の風景。しかし、ありのままの里山の景色こそが、柴さんの心をとらえた。 「当時の働き方や今後の生き方についてその友人に相談した際に、“移住して仕事も栃木でしたいなら、地域おこし協力隊という制度もあるよ”と教えてもらいました」 “自分が身を置きたい場所で、やりたいことができそう”と感じ、協力隊として栃木県へ戻ることを決意。2017年10月、市貝町の地域おこし協力隊としての活動がはじまった。 町のみんなに喜んでもらえることを 活動内容はフリーミッションだったので、自身の武器である写真を軸に、観光プロモーション、観光協会会員向けの特産品の撮影、町民向けの写真講座などに携わった。写真を通じて、町のことを良く知ることができ、町民の方と広く知り合えるきっかけにもなったという。 「ただ、これまでプロとして働いてきたので、無料でいくらでも撮るよ、といった安売りはしませんでした。それによって仕事量の調整もできましたし、卒業後も継続して仕事をいただけているので、正しい判断だったと思います」 プロとしてのマインドを持って活動していた柴さんだが、以前の働き方と大きく異なったのは“定時”という概念だった。 「仕事を終えて帰宅しても、夜なにもすることがなかったんです。ふと、町の子どもたちはどう過ごしているんだろう?と考えて。この町で何か楽しい思い出ができれば、きっと町が好きになるし、将来戻って来たくなるんじゃないかって思ったんです」 そこで思いついたのが、野外シアター。お盆休みやハロウィンの時期に、役場の前に広がる芝生広場に大きなスクリーンを張り、ファミリー向けの映画を上映した。 「人が来るのか不安でしたが、いざ上映時間になると、この町にこんなに子どもがいたの!?と驚くほど集まって。みんなの笑顔が今でも忘れられません」 悔しい思いを乗り越えて今がある 市貝町観光協会を拠点に活動することも多かった柴さん。その時、新たに着任した事務局長の存在がとても印象的だったという。 「次から次へと新しい試みをはじめられて、“この町が変わる”という予感をひしひしと感じました。私だけでなく、多くの町の人が期待しているのが、手にとるようにわかりました」 その試みのひとつが、市貝町の情報誌『イチカイタイムズ』の発行。柴さんも企画や撮影など全面的に取り組んでいた。 しかし、協力隊2年目の終わり頃、事務局長が退任することに。 「私がその役割を引き継いでいければ良かったのですが、その時はまだ力が及ばず・・・。せっかく町全体の機運が高まっていたのに、みんなが落胆してしまいました。その後『イチカイタイムズ』の発行も打ち切り。本当に悔しかったです」 任期中、ゲストハウス運営にも真剣に取り組んだが、断念した経験もある。 3年間という活動期間は、うまくいくことばかりではない。そんな時、柴さんは初心に戻り、カメラに没頭する。すると、また気持ちを持ち直し、次へのチャレンジに向かっていけるのだという。 「挫折も色々味わいましたが、活動を通して学んだのは、道は1つではないということ。選択肢はたくさんあるので、可能性があることには何でもトライしてみるといいと思います。違うと思ったらやめればいい。動けば、何かしら広がりはあるので、まずは動くことが大事ですね」 卒業後に広がった人とのつながりと農への道 市貝町は主要産業が農業であることから、農家さんとの交流も多かった。 「活動中に自分が直接農業に携わるという機会は少なかったですが、卒業後に農に携わるご縁をいただくことが増えました」 市貝町のグリーンツーリズム事業『サシバの里くらしずむ』の企画、道の駅の移動販売『ピックイート』の運営、隣接する益子町の農と食に関する広報物製作、農業生産や加工品生産に取り組む『YURURi』の活動など、協力隊の活動中につながったご縁や、やってみたかったことが卒業後に形となっており、その範囲は市貝町にとどまらず広がりをみせている。 「私の実家は栃木県真岡市でいちご農家をしています。出荷できないいちごの行き場を探っていた時に、農や食をテーマに別の町で協力隊として活動していた友人と『YURURi』というチームを結成し、いちごジャムを作りはじめました」 現在は益子町の畑を借りて、加工品の原材料となる農作物を作っている。 「夏場は畑の作業が多いのですが、そのとき必ず立ち寄るのが益子町にあるカフェ『midnight breakfast』です」 畑からほど近く、コーヒースタンドなので気軽に入りやすい。何より、店主の早瀬さんは元地域おこし協力隊員で、柴さんの幼なじみでもある。お互い一度は県外に出たが、時を経て再び益子町で交流を深めている。 お店ではできるだけ地元産の食材を使用していることもあり、農作物の話や畑の進捗など、作業の合間のお喋りを楽しむのが日課となっている。 そして市貝町で無農薬・無化学肥料で育てた野菜や果物でジャムやピクルスを作る『ぴーgarden』さんとも、協力隊卒業後に、より交流が深まったという。 「『YURURi』で加工品を作るにあたり、いろいろ相談に乗ってもらいました。そうするうちに仲良くなって、今では何か悩んだり、話を聞いてもらいたいときにふらっとお茶しに来てます」 ちょっとした息抜きの時間が、新たな活動のヒントになったり、新たな人とのつながりが生まれることも。柴さんにとって、とても大切な時間となっている。  

美容×福祉の可能性を私らしく追求したい

美容×福祉の可能性を私らしく追求したい

大坪 亜紀子(おおつぼ あきこ)さん

美容室ではなく美容屋 2022年3月末。地域おこし協力隊を卒業するタイミングで、下野市内にお店をオープンさせた。 オーナー兼スタイリストとして一人でお店を切り盛りする大坪さんは、『美容屋youi』という店名に自身の想いを込めた。 「ごはん屋さんが、イタリアンや定食屋などいろんなジャンルがあるように、美容室にもいろんなジャンルがあっていいんじゃない、って思ったんです。美容師として”髪をセットする場をつくること”で完結するイメージがなかったので、あえて美容室ではなく、美容屋と名付けました。youi は”You”&”I”、あなたと私。意味よりも言いやすさを重視しました」 高齢者でも覚えやすく、馴染みやすい店名にしたかったという。非常に悩んだという店名は、協力隊として活動を支えてくれた多くの人たちにも相談しながら決めた。 店舗探しについても、いくつか条件を持って見つけた。 「車椅子の方でも来店しやすいように、1階であること、介護車両でも乗り付けられることは絶対条件でした。空きテナントだけでなく、事業継承の観点から市内の空いていそうな美容室などにもアプローチしましたね。3〜4ヶ月かけて市内を探しまわり、最終的にこちらの物件に決めました」 そう語る大坪さんだが、もともと福祉に興味があった訳でも、介護の経験があった訳でもない。 美容師から未知の分野へのチャレンジ 地元、北海道の高校を卒業して東京の美容専門学校へ。それからは美容師一筋で歩んできた。 「年を重ねるごとに自分の美容師としての目標を達成していき、30代半ばには”もう東京にいる必要はないな”と思うようになりました。むしろ東京以外の場所で、美容以外の知識を身につけたいなって。でも美容師しかやってこなかった自分に、異業種での就職は難しいだろう・・・とモヤモヤしていた時に、地域おこし協力隊という働き方を知り“これだっ!”と思いました」 東京からの距離感や、活動内容を考えた際に興味を持ったのが下野市だった。 実際に現地を訪れ、市役所の担当者とも話をし、応募を決意。2019年4月、大坪さんは下野市地域おこし協力隊として、この地で新たなチャレンジをすることになった。 活動のミッションは、市内の観光資源を連携させた周遊型観光の企画やS N Sを活用したプロモーションなど。市内の観光地のひとつである天平の丘公園に拠点を置きながら、イベントやツアーの企画運営、市内の情報ポータルサイトを制作するなど、さまざまな活動に取り組んだ。 「着任当初、天平の丘公園では毎週のようにイベントが開催されていて、主催者や出店者との繋がりは、その後の協力隊活動にもさまざまな場面で活かすことができました。公園内にはカフェや、ゆっくりくつろげるスペースもあります。スタッフメンバーとは今でも仲良くしていて、休日にはたまに遊びに行きますよ。」 この時に関わりのあった方の多くが、今はお客さまとして大坪さんのお店に足を運んでくれているという。 また、登山が趣味という大坪さんにとって、栃木県に住むことで山が身近になったことも嬉しいという。下野市で出会った山仲間とともに、休日には北関東の山へ行くこともしばしば。 「ゆかりのない土地であっても、多くのお客さまや仲間に支えられているのは、協力隊としてのつながりがあったからこそ。美容の世界にいたら知り得なかったこと、出会えなかった人たちがここにはいます。それだけでも協力隊になってよかったし、下野市に来てよかった、と思えますね」 これまで縁のなかった福祉の世界へ 天平の丘公園でのイベントでは、大坪さんが『美容屋youi』を立ち上げるきっかけとなる出会いもあった。 下野市内で介護付有料老人ホーム『新(あらた)』の施設長をしていた横木淳平さんだ(現((株)STAY GOLD company代表取締役)。施設内にあるカフェがイベントに出店する際、横木さんも出店者として参加していた。 話をする中で「入居しているおばあちゃんの髪を切ってもらえないかな?」と相談された。退院が決まった100歳のおばあちゃんに、何かプレゼントがしたい。おめかしが好きな方なので“髪を切ること”をプレゼントにできればと思いついたとのことだった。粋な相談に、大坪さんは快諾。 後日、施設で髪を切るとおばあちゃんに大変喜ばれ、それ以降、定期的にカットの依頼を受けるように。当初は大坪さん自身も介護美容の経験を積むためにボランティアで髪を切っていたが、そのお礼にとランチをご馳走してもらいお喋りを楽しんだ。 ふと、「お客さまとこういう関係づくりってできるんだ」と気づいた。 「東京で美容師をしていた頃は、忙しいこともあってお客さまと個人的な関係づくりってしてこなかったなぁって。それが下野市では自然にできていて。地域で美容師をすると、こういう良い部分もあるんですよね」 その後、大坪さんの腕の良さは口コミで広がり、次から次に「私の髪も切ってほしい」という依頼が来るように。 そうした活動を、“give to”と”gift”を掛け合わせた造語で、大切な人へ“髪を切ること”をプレゼントしてほしいという想いから『giveto(ギブト)』と名付けた。 施設内には髪を切るためのスペースも作られ、入居者専用の美容ルームとして利用されている。 「協力隊1年目の終盤から、プライベートでgivetoの活動をスタートさせました。徐々に形となっていったことで、2年目の後半には“やはり私は美容の道を進んで行く”と決意したんです。そこから、協力隊×美容×福祉を掛け合わせた活動をするようになりました」 下野市社会福祉協議会と連携し、高齢者の見守り活動や美容講座なども活動の一環として関わるようになった。 「これまでとは違う、新しい形での美容の道が、少しずつ切り開かれて行く手応えを感じていました」 新しい訪問美容の形を、下野市から広げていく 協力隊として3年目、givetoが形になりつつある中で、卒業後の自分の進路についても強く意識するようになった。 当初は、givetoの活動を継続する形で月の半分は下野市、残り半分は東京の美容室で働こうと考えていた。 「でも、地域に求められるサービスを提供して行こうと思いながら、しっかり地域に根ざさないのはやっぱり違うな、と思って。その時ふと、“自分のお店を持とうかな”と思うようになったんです」 東京にいた頃は、自分の店を持つことの大変さを知っていたので、全くその気はなかった。しかし、下野市であればそれができるのでは、と感じた。 それからは市内を巡って物件探し。やっとの思いで出会ったのが現在お店となっている物件だ。 「内装については、車椅子の方でも入店できるか、車椅子でも店内を余裕をもって移動できるか、高齢者の方でもゆったり座って寛げるソファか、お手洗いは介添の方がいても利用しやすいか、など、実際に横木さんに車椅子を持ってきてもらい、相談しながらレイアウトを決めました」 ただ、バリアフリーを全面には出しすぎず、来店する誰もが心地よい空間をつくれるかも大切にした。 「最初はお子さんが髪を切りに来て、そのあとはママ、それからおばあちゃんといった流れもあるんです。どなたにでも気軽に利用いただくことで、まだこういうお店があることを知らない人たちにも知ってもらえる機会は増えると思います」 大坪さんの目指すところは、「“美容室”と“既存の訪問美容”の中間」だという。 「訪問美容は福祉サービスの一環として既に存在していますが、施術スピードであったり、シャンプーしやすい髪型か、などが優先される部分があるので、髪型を楽しみたい方にとっては満足できていないのではないかと思うんですよね。年齢関係なく、女性は美容への意識があります。いつまでもキレイでいたい、という高齢者の方に、私を知ってもらえたら嬉しいですね」 訪問美容の認知度は高まってきてはいるが、まだまだ提供者は少なく、選べるほどのサービスが充実していないのが現状だという。 「訪問しただけで感謝されることが多いです。でも本来は訪問したことではなく、仕上がりに満足したことで初めて感謝されるものなんですよね。現状、“福祉的なサービス”というイメージを持つ訪問美容ですが、いくつになってもおしゃれを諦めなくて良いんだ、と思えるサービスにしていきたいです」 そして、その先に目指すものは− 「できればお店に来ていただきたいんです。こういう空間で髪を切ることで特別な気分を味わえますし、そうするとおしゃれ魂に火が付くんですよ。最初は鏡も見なかったお客さまの背筋が、だんだん伸びてきて。美容が皆さんの心の健康に繋がれば、と願いながら、これからも髪を切っていきます」

住む人が誇りに思えるような地域づくりを

住む人が誇りに思えるような地域づくりを

國府谷 純輝(こうや じゅんき)さん

自分たちの住む地域に自信と誇りを 2022年6月。普段は静かな寺尾地区に続々と人が訪れた。目当ては「テラオ“ピクニック”マルシェ」。寺尾地区の象徴とも言える三峰山(象が寝そべった姿に見えるので通称「象山」とも呼ばれる)の麓、芝生が広がる寺尾ふれあい水辺の広場で、初めて開催されたマルシェだ。このイベントの仕掛け人こそが國府谷さんである。 寺尾をPRするためのマルシェはこれが2回目。1回目は2021年12月。栃木市の街の中心部にあるとちぎ山車会館前広場にて「テラオ“キッカケ”マルシェ」を開催した。寺尾地区を知ってもらうきっかけになれば、というコンセプトのマルシェ。寺尾地区で商売をしている方による飲食・物販での出店や、名物・出流そばの実演実食などを行った。 当初は、「寺尾のイベントに人が集まるのか・・・」と地元の皆さんは不安でいっぱいだったそうだが、蓋を開けてみたら大盛況。 「イベントを終えたその時点で、“次はいつ開催する?”と、皆さんから声をかけられました。地域の皆がひとつになってイベントを大成功に導き、自信にも繋がったと思います」 移住して約半年でのイベント開催。テラオ“キッカケ”マルシェは、國府谷さんが寺尾地区の人たちにしっかりと受け入れられるキッカケにもなったであろう。 「1回目のイベントは寺尾を知ってもらうためのもの。次回は寺尾に来てもらうイベントにしたいと考え、自分が寺尾で好きな場所でもあり、みんなに知って欲しい場所でもある寺尾ふれあい水辺の広場で開催しようと決めました」 しかし、寺尾地区を会場とするマルシェは初めて。街中から車で20分ほどかかる場所での開催に、「さすがに今回は人は来ないだろう・・・」という声も多く聞こえた。 迎えたマルシェ当日。開始前から集まってくる人の姿を見て、住民たちの不安は一気に吹き飛んだ。赤ちゃん連れのファミリーから、手押し車で訪れるおばあちゃんまで、普段はひと気のない広場が、多くの人で賑わい、訪れたお客さんたちからは、「こんなにいい場所があったなんて」と喜びの声で溢れた。 「イベントが大成功だったのはもちろんですが、何より嬉しかったのは、出店してくれた地元の方に“寺尾にとって歴史的な一日になりました”と言われたことです。1回目のイベントの時も感じたのですが、“どうせ人は来ない”というような、どこか引け目のような思いを持たれている方が多い印象でした。でも2度のイベントを通じて、自分たちの住む寺尾に誇りや自信を持ってくれたんじゃないかな、って思っています」 コロナを機に自分の進みたい道へ 大学生の頃から地域活動に興味があったという國府谷さん。地域に学生を派遣してインターンシップを行う学生団体に所属し、事務局長を務めた経験もある。卒業と同時に起業も考えたが、一度は社会人経験を積むため人材サービス会社の営業職へ。 「人と人とを繋ぐことに興味があったので、仕事は大変ではありましたが楽しかったです」 しかしコロナウイルスの感染拡大に伴い状況が一変。在宅ワークになり、人と会う仕事はリモートで完結。徐々に楽しいと思えることがなくなってしまった。 「何のために仕事をしているんだろう?と考えるようになってしまって。3年間働いて社会人としての仕事の仕方もわかってきたし、自分の好きなことをやる時期が来たんだな、と捉えました」 まちづくり会社、NPO、地域おこし協力隊などへの興味から、実際にそれらの仕事に就く人たちから話を聞いた。そんな中、地元・栃木県での地域おこし協力隊募集の中から、一番自分の希望に近い栃木市・寺尾地区での活動に興味を抱いた。 「活動するなら、生まれ育った農村部のような田舎がいいなと思っていました。自由に動きたいこともあったので、フリーミッションだった点も希望に合っていました」 実際に現地を訪れ、寺尾地区の公民館で働く市職員や、住民の方とも話をした。中でも強く印象に残っているのが、寺尾地区への移住者で有機での農業を営む「ぬい農園」の縫村さんとの出会いだ。 「栃木市を訪れた時にいろんな方とお話ができて、移住するイメージが一層膨らんだのですが、帰り際に縫村さんが寺尾への想いを熱く語ってくれて。ぜひ来てほしい、と力強く言ってくれたんです。その想いに、グッと引き寄せられましたね」 すぐに決意が固まった國府谷さんは、栃木市地域おこし協力隊へ応募。2021年6月より、寺尾地区を拠点に活動することになった。 何事もチャレンジしてから判断する 地域おこし協力隊として着任し、まず行なったのは地区内の挨拶まわり。自治会長、企業、個人事業者といった方々はほとんど挨拶に伺った。 「職場が寺尾地区の公民館勤務だったので、その点もよかったです。開放感のある明るい雰囲気の公民館には、自治会長や農家さんなど多くの方が来られるので、その都度、職員さんが紹介してくれました」 少しずつ寺尾地区での人脈を広げながら、一年目はさまざまな取り組みを行なった。 マルシェの企画・運営、寺尾地区の総合情報サイト「テラオノサイト」やお店を紹介している「テラオノマップ」の製作、名物・出流そばのP Rのための動画製作、農業体験用の畑づくり、大学生のインターンシップ受け入れ、若手事業者を集めたプレイヤーズミーティング、テレワークスポットの発掘や紹介、YouTubeラジオ番組など、多岐に渡る。 「現在は活動2年目ですが、実際にやってみて違うな、と思うものもあったので、そういったものは一度やめて、手応えのあったものだけ継続しています。何でもやってみないとわからないので、今後もいろんなチャレンジをしていきます」 次々と新しいことへ挑戦する國府谷さんだが、それは寺尾地区の皆さんの支えがあってこそだという。 「寺尾の人たちは、チャレンジに前向きな人が多いんです。同世代だけでなく、上の世代の方たちが応援や感謝をしてくれて、“どんどんやれ!”といつも後押ししてくれます。自分がこれだけ自由に動けるのは、皆さんのサポートがあってこそだといつも感謝しています」 また、得意なことをやっているというより、初めてのことにチャレンジすることが多いという。そのため、その分野に詳しい方たちに話を聞きに行ったり、修行させてもらうことで、自分にできることを少しずつ増やしている。 「移住を後押ししてくれた縫村さんには、移住者の先輩として教えてもらうことも多いですし、畑のお手伝いをさせてもらうことで農作物のことを教えてもらったりもしています。こういった方が近くにいるのも心強いですね」 新しいことにチャレンジする姿勢は、プライベートでも人とのつながりを広げている。 「隣接する小山市協力隊の横山さんが“クロスミントン”というスポーツで日本チャンピオンになった経験があって、何度か練習会に参加させてもらいました。初めてでも楽しめるスポーツなので、栃木市でも流行らせたいなと思い、参加者を募って栃木市でも練習会をスタートしました。また、栃木市役所にサッカーチームがあり、そのメンバーにも加わらせてもらっています。趣味であるスポーツをきっかけに、寺尾地区以外のコミュニティも広がっていますね」 意外なことに、実は人見知りだという國府谷さん。 「だからこそ、いろんなものを創り上げて、自分がやっていることをコミュニケーションツールにしています。何か形になるモノやコトがあれば、それをきっかけに話を広げられるので、そういった地域への入り方もあると思いますよ」 寺尾をより多くの人に知ってもらいたい これからの取り組みについて、大きく2つの軸で動いていきたいと語る。 「イベントを通じて、寺尾に住むことへの誇りを持つ人を増やしたり、外から来る人の視点により、地元の人が寺尾の魅力を再発見する気づきを与える機会を作っていきたいと思います。また、自分自身もずっと寺尾に居られるように、事業化を意識しながら今後の活動に取り組んでいきたいです」 前回のテラオ“ピクニック”マルシェからコーヒー屋として自身も出店したり、育てたハーブでハーブティーを作るといった取り組みも始動している。 またこうした國府谷さんの動きが話題となり、寺尾地区に隣接する周辺地区からも「うちの地域も盛り上げてくれないか」と声が掛かるようにもなってきたという。 「うまくいくことばかりではないですが、主体的にチャレンジする気持ちは常に持って行動することが大事だと思っています。次は2022年12月10日に開催するテラオ“キッカケ”マルシェVol.2に向けて動いています。寺尾地区の皆さんとひとつになって、寺尾の魅力を伝えられたらと思います」

考えるより行動。動いていたら、やりたいことが見つかった

考えるより行動。動いていたら、やりたいことが見つかった

疋野 みふ(ひきのみふ)さん

転職を考えたときに知った“地域おこし協力隊”という働き方 前職は旅行会社勤務。5年間働き、これからのライフプランを考えたときに「どこか地方で、全く別の仕事を経験してみたい」と考えていた疋野さん。転職の相談をしていた先輩が「こんな働き方もあるみたいよ」と教えてくれたのが、地域おこし協力隊だった。 全国の市町村が、さまざまな活動内容で協力隊を募集していることを知り、「これだ!」と思ったそう。北は北海道、南は沖縄までさまざまな地域を調べた中で目に留まったのが栃木県日光市。 「旅行会社で働いていたので、もちろん日光市のことは知っていました。観光地に住んでみるのもおもしろそうだな、と思いましたし、最長5年間勤務できるという市独自の支援制度(※現在は廃止)は魅力的でした。また同じ関東圏なのでどこか安心感があったという点も決め手になりました。」 選考を受け、採用となった疋野さんは、2016年4月より日光市地域おこし協力隊として栗山地域で活動することとなった。 「栗山地域に初めて来たときの印象は、“思った以上に山の中だな”とは思いましたが、移住するなら街でも山でも、どっちでもいいと思っていたので、特に不安はなかったですね。」 まずは地域を知ることで、やるべきことを見つける 日光市の募集内容はフリーミッション。栗山地域の活性化のために、活動内容は自分で考えるというものだった。 「正直、来る前から“あれをやろう”“これがしたい”という明確なものはなかったんです。地域を見て、地域の人と話をする中で、何が求められているのか。それを見つけて、課題解決に取り組めたらいいなって。」 周りの人たちにも恵まれた。栗山地域で協力隊を採用したのは疋野さんで4期目。既に先輩たちの活躍があったので、地元の人たちも「新しく来た人だね〜」とすんなり受け入れてくれた。 また市役所の上司も「1年目は、まず地域のことをしっかり知ることが目標。くらいの気持ちで活動してみて。」と優しく見守ってくれた。 そのような環境だったからこそ、疋野さんも安心して、地域に入っていくことができたという。 そうした中で、力を入れて取り組んだのは女子旅ツアー。旅行会社での経験を活かし、栗山地域に人を呼ぶ企画を考えた。また、都内の大学生に来てもらい、地域を巡って名所や暮らす人たちを紹介する冊子『あがらっしぇ栗山』を製作。(※「あがらっしぇ」とは「あがっていきな、寄っていきな」というニュアンスの栗山地域の方言)いずれも好評を得て、成果を感じられたという。 しかし、活動を続けていく中で、徐々に課題も見えてきた。 「若い世代が仕事を求めて栗山地域を離れていく。どうすれば仕事を生み出せるかな、ということを考えるようになりました。」 未経験からの革製品づくり 地域に仕事をつくる。そんな想いでたどり着いたのが“鹿革”を使った革製品だ。シカの食用以外の用途として皮革を資源化し、活用する取り組みをしているグループ『日光MOMIJIKA』に出会ったことがきっかけであった。 「東京にいた時は、野生動物による鳥獣被害なんて全く知りませんでした。農作物や植物への被害を減らすために、増えすぎてしまった野生動物は捕らえないといけないんです。」 ただ、ひとりでこの問題に取り組んでも意味がない。仲間を見つけることからはじめた。 「“鹿革塾をやります”というチラシを作り、地区内の回覧板で受講者を募りました。講座に参加してくれたメンバーに加え、その後に出会った手芸が得意なメンバーが加わり、現在8名が在籍しています。」 それまで、革製品づくりは未経験だったという疋野さん。 「会社員時代は毎日帰宅が夜中になるのが日常だったのですが、協力隊になったら定時上がりで。帰宅しても時間が有り余っていたんです(笑)それでアクセサリーづくりをはじめてみたのですが、それが案外楽しくて趣味となり、革製品づくりへと繋がっていきました。」 現在、『Nikko deer』というブランド名で活動しており、アクセサリーやキーホルダーといった小物から、バッグやサンダルといったものまで製作している。 「デザインは各メンバーの発案で、みんなが“いいね!”と言ったものを、作り方を共有して製作しています。どんどん新作ができていくし、それぞれのアイディアも良いものになっていくので、日々進化を感じますね。」 コロナ禍で、集まって製作する機会は減ってしまったが、疋野さんが各家を周って打ち合わせをしたり、出来上がった作品を回収したりしながらコミュニケーションを深めている。 「作品はイベントを中心に販売しています。Webショップもありますが、実際に手に取って、背景にある鹿革の話も知ってもらいたいので、今後もイベントには力を入れていきたいですね。」 これからの夢と、伝えたいこと 2児の母でもある疋野さん。同じ栗山地域で活動していた先輩隊員の男性と結婚し、子育てと仕事を両立する働くママでもある。 「育児については、夫と役割分担をしながら何とかこなしています。近所の方にも、みんなに可愛がってもらっているので、ありがたいですね。」 そんな疋野さんも、2023年3月に協力隊を卒業する。 「卒業後は、引き続き鹿革製品の販売や製作体験に取り組んでいきます。新たに、店舗販売も考えていて、現在物件の交渉中です。また、それとは別にキッチンカーでの移動販売もやりたくて。将来的には、キッチンカーと店舗を併設して、ジビエをやりながら鹿革製品の販売ができたらいいなぁと考えたりもしています。」 卒業後に向けての夢がどんどん膨らんでいるという。 「協力隊になった当初は、“自分に合わなければ、3年で東京に戻ればいい”そんな気持ちでした。でもこんなにも地域の方に受け入れてもらえて、地域の方と一緒にやりたいことが見つかって、そしてまさか結婚して、子どもが生まれるなんて。協力隊になったことで、人生が大きく変わりました。だから最初から“こうあるべき”と気負わずに、“なんとかなる”くらいの精神で移住先に飛び込んでみてもいいんじゃないかな。ひとまず動いてみて、ダメならダメでまた別なことを考える。考えすぎると悩みが増えるだけなので、とにかく行動する。それが私からのアドバイスですね。」

変化を受け入れ、新たな試みも

変化を受け入れ、新たな試みも

児珠大輔さん

移住の決め手は通勤のしやすさだった 下野市へ移住するまでは、埼玉県狭山市から東京都品川区のオフィスまで約2時間かけて通勤する日々。 こまめな乗り換えが多く通勤ストレスを抱えていたことと、IT企業で働いているため「いずれはテレワークになるだろう」という思惑もあり、「家を建てるときは地方でも良いかもしれない」との想いは長年あった。 自身は埼玉県の生まれだが、両親の転勤で中学から大学卒業までは宇都宮市で過ごした。また、奥様の出身は栃木県。土地勘のある栃木県は、必然的に移住候補地のひとつだった。 移住先を決める上でのポイントは、「通える範囲であることと、通勤のしやすさ」。埼玉県内のターミナル駅や宇都宮線、高崎線沿線などを候補に挙げたが、最終的に選んだのは下野市。始点・終点にもなる「小金井駅」があることが最大の魅力であった。 「宇都宮線は“小金井止まり”という電車も多く、都内からでも下野市までであれば本数は結構多いです。」 移住により通勤ストレスが軽減されたものの、埼玉県から栃木県に移住したことで、同僚は「通勤、大変じゃないのか」と気にかけてくれるようになった。 「通勤時間で言えばそれほど大きな変化はないのですが、埼玉県から通勤していた時は乗り換えが多くて、まとまった時間が取れなかったんです。座れないことも多く、とにかく通勤が苦痛でした。下野市からは乗り換え無しで通勤できるので、読書したり、映画を観たり、睡眠が取れたり。時間を有効活用できるのが嬉しいですね」 テレワークで変化した、仕事環境とライフスタイル 下野市からの通勤は苦ではなかったと話す児珠さん。2020年3月末までは毎日オフィスへ出社する日々が続いていた。 しかし、東京都で緊急事態宣言が発令される直前に、状況は一変。完全にテレワーク生活となった。 「栃木から通勤していた自分に限った話ではなく、全社員がテレワークになりました。幸い、我が家には自室があったので、そのまま仕事部屋になりましたが、都内に住む同僚たちは部屋数が限られる人も多いので、家族との折り合いは大変そうですね」 そんな児珠さんにも、テレワークを機に買い足したアイテムが2つある。 情報漏洩を防ぐためのヘッドホン、そして背景用のグリーンバックだ。テレワーク当初は、毎朝グリーンバックをセットするところから仕事の準備が始まったという。 また、作業環境を整えるために、長年取り付けたいと思いつつ後回しになっていたキーボードスライダーをDIYで設置した。これにより、作業効率がアップ。 「もっと早く設置すればよかったのですが、毎日使うデスクではないのでなかなか重い腰が上がらなかったんですよね」と苦笑い。デスク周りの環境を整えられたことも、テレワークを機とした変化のひとつである。 そして、テレワークによってもたらされた生活面での変化も。 また市役所の上司も「1年目は、まず地域のことをしっかり知ることが目標。くらいの気持ちで活動してみて。」と優しく見守ってくれた。 そのような環境だったからこそ、疋野さんも安心して、地域に入っていくことができたという。 そうした中で、力を入れて取り組んだのは女子旅ツアー。旅行会社での経験を活かし、栗山地域に人を呼ぶ企画を考えた。また、都内の大学生に来てもらい、地域を巡って名所や暮らす人たちを紹介する冊子『あがらっしぇ栗山』を製作。(※「あがらっしぇ」とは「あがっていきな、寄っていきな」というニュアンスの栗山地域の方言)いずれも好評を得て、成果を感じられたという。 これまで1時間40~50分ほどかかっていた通勤時間を、そのままウォーキングの時間に充てたことだ。 下野市に移住して2年ほど経った頃から、生活習慣の改善としてウォーキングをはじめたが、当初はそれほど長い距離ではなかった。しかし、テレワークをきっかけに距離を伸ばし、今では毎朝8kmほど歩いているそう。 「毎日歩いていると、季節の変化を感じられるんですよ。夏は田んぼの稲が少し伸びたな、とか。秋だと葉が色づきはじめたな、とか。純粋に自然を楽しんでリフレッシュすることが多いですが、今日仕事でこなしたいタスクなど、始業前に頭の中を整理する時間でもあります」 歩くことは週末も欠かさない。お子さんも一緒に歩いてくれることは、週末だけのウォーキングの楽しみだからだ。 テレワークで大切なのは同僚との信頼関係 朝6時に起床。ウォーキングと朝食を済ませ、8時50分には自室のデスクへ。正午に1時間の休憩をはさみ、18時~19時に仕事を終えるというのが現在のワークスタイル。 オフィスへ出勤していた頃と比較して一番大きな変化は、終業時間が2~3時間早まったことだ。 「自宅だと、自分でやらなければいけない作業に集中できるので、とても捗ります。会社だと、誰かに声をかけられると作業が中断してしまうので。一人で取り組む仕事が多い場合、テレワークは本当に良いなと感じています」 逆に、デメリットについては、「他の人と連携して取り組まねばならない仕事はスムーズにいかなくなった、と感じています。隣の席にいればちょっとしたことでもすぐ聞けたことが、できなくなった。あとで聞こうと思って、そのまま忘れてしまうことも。長期的プロジェクトだと、些細なことがあとで大きなトラブルにもなりかねないので、その点は気をつけなければと思っています」 完全にテレワークが始まった2020年3月末以降、同僚のサポートもあり2回しか出社していないという児珠さんだが、出社をした際に、やはり同僚と直接顔を合わせてコミュニケーションが取れる時間もいいな、と感じたという。 「贅沢なわがままかもしれませんが、本音を言うと、月に2~3回くらいは出社するスタイルが、自分には一番合っているかもしれません」とはにかむ。それも下野市からの通勤に苦痛がないからこそ思えるのだ、とも。 テレワークをうまく実践するための、児珠さん流のコツを聞くと、 「見られていない分、しっかり仕事して結果は出さないといけない。わからないことは誰かに聞いて、すぐに解決する。結局テレワークは”信頼関係”によって成立するものだと思うんです。一度でも相手を疑ってしまうと、関係がギクシャクしてしまう。そうなると、仕事もうまくいかなくなってしまいますから」 テレワークを通じて見つけた、 自分の住むまちでやりたいこと 下野市で過ごす時間が増え「自分も何か地域に貢献できないか」と意識するようになったという。 まずは地域のイベントに参加してみようと、情報を探していた時に見つけたのが、下野市が開催していた「しもつけクエスト」だ。 関係人口の創出や、まちづくりに関わる人材の育成を目的としたもので、児珠さんはそこで市役所の職員、市内で活動する若手プレイヤーなど、多くの出会いを得た。 「やりたいことは、どんどん発信しないとできないよ!」。イベントのプレゼンターが発したこの言葉が、児珠さんの背中を押した。 「自分には、仕事を活かしたパソコンのスキルがある。例えば子どもたちにスマホの使い方を教えたり、おじいちゃん・おばあちゃんが遠方に住む孫とテレビ電話ができるようにサポートしたり、地域の為にできることはあるんじゃないかと思っています。今後は、そういった自分のスキルを発信し、まちに貢献できる人になりたいですね」と力強く語った。 テレワークを通じて、またこのまちに新たなプレイヤーが現れようとしている。そう感じた瞬間であった。

テレワークにより実現した、理想のライフスタイル

テレワークにより実現した、理想のライフスタイル

石毛葉子さん

Uターンによって始まったテレワーク 石毛さんのテレワーク生活は、2019年11月、神奈川県鎌倉市から壬生町へUターンしたタイミングでスタートした。 鎌倉に住んでいた時は自宅から15分ほどの職場に通い、同じ職種の仲間たちとリペア作業に取り組む日々。7年ほど働いたタイミングで、次へのステップアップを意識し始め、考えたのが地方への移住だった。 鎌倉での暮らしは、周囲にアーティストや作家なども多く、刺激を受ける日々ではあったものの「東京よりも田舎に住むのであれば、別に鎌倉ではなく地元でもいいのでは」と思うようになったという。四国、九州など、友人が住む場所を軸にさまざまな地域も検討したが、最終的には土と水が合う地元・壬生町へのUターンを決意。 職場にはこれまでテレワークの前例がなかったため、転職も考えたが、「テレワークしながら続けてみたら」と会社からの勧めもあり、拠点を壬生町へ。実家の一室を作業場として、石毛さんのテレワークが始まった。 「今がちょうどいい」仕事とプライベートのバランス 移住して一年が過ぎた石毛さん。 一番大きく感じる変化について、「仕事と並行して自身のブランド『YOGE』の活動もしているので、鎌倉に住んでいた時は何とかして自分の活動を発信しないと!見つけてもらわないと!という思いで、常に背伸びして頑張っていました」と語る。仕事と『YOGE』の活動のバランスがうまく取れず、悩むこともあった。 「あれだけ肩肘張って踏ん張っていたのに、栃木に戻ってきたら、そういったことが全く無くなって。背伸びしなくても、自然と誰かが手招いてくれて、人と人との繋がりがどんどん広がっていくんです」。 隣町の栃木市では定期的に個展を開催する場所も見つけた。栃木市でのご縁はプライベートでも広がり、今や遊びに行く場所は栃木市になりつつある。そこでの友人を通じた出会いで茨城県在住の作家とも仲良くなり、茨城で開催するイベントでも作品を販売できるようになった。2020年12月には茨城の作家仲間と共に個展を開催し、更に輪が広がったという。 「無理せず、常に等身大でいられるようになったのは、栃木に戻ってきてからです。今は理想と現実のバランスがちょうど保たれていて、本当に戻ってきてよかったなぁと思います」。 テレワークを機に変化したワークスタイル 今だからこそ当たり前のテレワークだが、石毛さんがテレワークを始めたのは2019年11月。職場でのテレワーク第一号だったこともあり、色々なことが手探りだったという。 しかし2020年春の自粛期間を経て少しずつ職場のテレワーク化が進む中で、実践者として同僚にアドバイスすることもあるそうだ。 アドバイスとして必ず話題に上がるのが、テレワークに必要なアイテム。石毛さんはテレワークを始め、2つのアイテムを購入した。 1つは手元を明るく照らすデスクライト。細かい作業の多いリペアには必須アイテムだという。そしてもう1つはオンラインミーティングや友人との会話用に購入したリングライトだ。 「リングライトを購入したのは最近ですが、使用すると顔色が全く違います。画面映りが良いと、ミーティングも前向きに参加できる気がするのでおすすめですよ!」 テレワークは、自分のペースで仕事に取り組むことができ、仕事に集中できるため、自分には合っていると話す石毛さん。 勤務時間は9時間(途中で休憩1時間)だが、始業のタイミングは調整できるので、朝、家の周りをウォーキングして、外の空気を吸ってから仕事に取り組むことが日課になったそうだ。 また、気分を上げるために部屋にお気に入りの花を飾ることも、テレワークをきっかけに始めた。 「部屋にこもっての作業になるので、自分の好きなものや気分転換できるものを部屋に取り入れることは大切だと思います」とアドバイスしてくれた。 テレワークを実践する上で意識していることは「自己管理がとても大切です。テレワークって自由と責任で、自分の思うように動けますが、その分結果も残さなければいけません。個人事業主のように作業効率を意識して取り組んでいます。また、積極的に自分で情報を取りに行くことも大切です。入ってこない情報もどうしてもあるので、抜け落ちがないよう、職場の仲間とはこまめに連絡を取り合っています」。 何かあれば職場のメンバーとすぐやり取りできる環境は整っているが、やはり実際に会ってやり取りしたいと思うこともあるという。仕事の進め方や効率という点ではテレワークはとても合っているが、オフラインに比べてコミュニケーション不足になりがちなのは「テレワークあるあるだね」と仲間とも話している。テレワークにおいても円滑なコミュニケーションをとる方法を模索中だ。 テレワークを通じて、叶った夢 石毛さんには、テレワークが始まったことで叶った夢が2つあるという。 1つは念願の畑仕事ができたこと。鎌倉に住んでいた頃から、ずっとやってみたいと思いつつ、近所で畑を見つけることができず諦めていたという。 栃木へUーン後も、週末は東京や鎌倉に行って過ごすことが多かったが、移住して4ヶ月ほどで新型コロナウィルスが流行し始め、しばらく県外に行けなくなった。週末も基本的に栃木に居られるようになったため、自粛期間にいよいよ畑仕事に取り組むことにしたという。 「父が持っていた土地があり、試しに畑にしてみたらとても良い土だったんです。初年度にも関わらず夏にはたくさんの野菜が収穫できました。今では父の方が野菜作りに熱心になってしまって、一緒に本を読んで研究しながら、いろんな野菜を育てています」。 最近では近所に住む友人も、石毛家の畑で野菜を育てるようになり、お互いに収穫できた野菜を物々交換することも。「畑仕事をきっかけにいろんな人と、いろんな楽しみが広がっていますね」。 もう1つの夢は、子どもたちにリペアの魅力を教えることだ。縫製というと、服を作る方に光が当たりがちだが、自身が誇りを持って取り組むリペアはカッコいい仕事だということを、若い世代に伝えたいという。 「つい先日、小学生向けに洋服のお直し会を開きました。ほつれたり、穴があいてしまった洋服を持ってきてもらい、自分で可愛くリメイクしてもらうイベントです。みんな、すごく楽しんでくれました」。 後日、イベントを開催した話を、以前お世話になった上司に報告した。すると、「夢が叶ったんだね、おめでとう!」と言われたそう。 「私もすっかり忘れていたのですが、何年も前に『いつか学生にリペアを教えたいんです!』って目をキラキラさせながら語っていたそうで(笑)。何年か越しに、地元で夢を叶えられて嬉しいなって、その時すごく思いました」。 テレワークを通じ、ワークスタイルとライフスタイルの変化によって実現した2つの夢。 いずれも栃木というフィールドで、石毛さん自身に心の余裕ができたタイミングだからこそ、自然であり必然と叶った夢なのかもしれない。 そんな石毛さんには、次の夢がある。 「場所づくりがしたいです。自分がここにいるよ、と言える場所。作業場でもあり、友人たちが気軽に訪ねて来られるような場所がほしいなと思っています。そこで、モノづくりの楽しさや、リペアの魅力を伝えていけたらいいですね」。 いつか叶えたい夢、皆さんはありますか。 もしかすると、テレワークを機に、栃木で叶えられる夢があるかもしれません。 栃木でテレワーク、はじめてみませんか。

子育て、家事、仕事。今がちょうど良いバランス

子育て、家事、仕事。今がちょうど良いバランス

冨永美和さん

山形、栃木、茨城、やっと見つけた定住の地 山形に生まれ、就職も山形で。冨永さんが長年の慣れ親しんだ土地を離れたのは、結婚がきっかけであった。夫も同郷の出身だが、栃木県内で働いていたこともあり、2015年に山形から栃木県下野市へ移住。 冨永さんの会社は都内にも事業所があり、仕事は辞めずに転勤という形で東京に通勤することになった。その後、夫の転職を機に一度は茨城県古河市へ。 ちょうどその頃、第一子が生まれたこともあり、古河近辺でマイホームを建てたいと考えるようになったという。 東京通勤が可能な街を条件に、茨城県、埼玉県なども調べてみたが、条件に一番合ったのが現在暮らしている小山市であった。 下野市や古河市に住んでいた頃は、東京・港区のオフィスまで電車で通勤していた。在来線なので電車に乗る時間は1時間30分程度。ドアtoドアだと2時間ほどかかっていたという。 「下野市に住んでいた時は、まだ子どもがいなかったので東京通勤でもよかったのですが、出産後、古河市に移住し通勤していた時は、子どもと触れ合える時間がとても少なかったんです」。 朝は子どもが起きる前に家を出ていたため、コミュニケーションを取れるのは帰宅後のわずかな時間のみ。 「私の中で、子どもと会話する時間を確保することはとても大切で。通勤していた時の働き方ですと、いずれ会社を辞めなければいけないな、と考えていました」。 育児と仕事の両立の難しさに悩む中、第二子出産のため産休を取ることに。 ちょうど小山市に建てたマイホームも完成し、2018年4月、冨永さんファミリーは小山市に移住し、新たな暮らしが始まった。 仕事、育児、家事、全てをこなせるのはテレワークのおかげ 育児休暇の最中、世の中の動きが一変した。 新型コロナウイルスの影響で、2020年4月から所属する部署の社員は全員テレワークに。冨永さんは2020年8月に職場復帰するも、他の社員と同様にテレワークという形での復帰となった。現在もテレワークは続いているが、事務処理のため月に一度だけ出社している。 テレワークになったことで、生活は大きく変化したという。これまで通勤に充てていた時間で家事ができるようになったので、夜に家族とくつろぐ時間がとれるようになった。 「毎晩、子どもに絵本を読んであげられるようになりました。テレワークになったことで、仕事、育児、家事、全てが効率よくこなせられるようになったのはとても嬉しいですね」。 またテレワークのメリットとして、「昼休みを有効活用できるのは大きい」という。 細々した家事を昼休みの間にこなしたり、気分転換に外出し、簡単な買い物を済ませることもできる。最近は家にいる時間を心地よく過ごせるよう、花を買いに行くことも増えたそうだ。 逆にデメリットも多少なりともある。 2020年8月の職場復帰の際に部署が変わったのだが、同僚全員がテレワークだったため、顔と名前、担当業務を十分に把握しきれていない部分があった。そのため作業の非効率を感じることが稀にあるそう。 「私の場合、異動とテレワークのタイミングが重なってしまったという稀な状況ではありますが、全員がテレワークだとこういう難点もあるんだな、と感じています」と苦笑い。 それでも、チャットですぐ連絡が取り合えるため大きな支障はなく、テレワークの継続は強く望んでいるという。 取り入れたいヒントがたくさん、 冨永さん流テレワーク環境と実践のコツ 冨永さんの主なワークスペースは、リビングとキッチンの間にある。一般的な住宅の間取りではあまり見慣れない、半個室のようなスペース。 たまたまなのか、意図的なものなのか伺うと「もちろん意図的です。職場に数名、以前からテレワークをしている方がいたんです。地元に戻られて仕事を続けている方たちで。前例があるので、いつか私もテレワークができるかも。という思いがあり、家を建てる際に作業スペースを確保しました」。 専用の部屋を作らず、あえてリビングとキッチンの間にレイアウトした点が、仕事と育児と家事を両立したいという冨永さんらしい。 「ここなら、子どもがいる時でも目を離さずにちょっとした作業ができますし、昼休みや終業後、すぐ家事に取りかかることができるのでとても便利な場所です」。 良い点は他にも。「1つの部屋に、自分のデスク、リビングテーブル、ダイニングテーブル、3つの机があるんです。仕事では主に自分のデスクを使いますが、食事や気分転換したい時は使うテーブルを変えています」。 同じ部屋にいながら作業する場を変えるというのは、気分転換の方法として誰でも気軽に取り入れられそうだ。 そしてテレワークを楽しむために冨永さんが実践しているのが、飲み物を充実させることだ。「珈琲や紅茶は専用のマシンを使って、様々なフレーバーを楽しめるようにしています。毎日麦茶では、なかなかモチベーションが上がらないので」。 仕事をする上で心がけていることを聞くと「会社の方から連絡があった際は、すぐにレスポンスします。また、社内の方とはチャットを使ってやり取りしているので、できるだけ簡潔に、わかりやすく相手に伝えるよう意識しています」。 相手から見えない分、常に仕事をしている姿勢を示すことで信用を失わないようにすること。また相手もスムーズな仕事ができるよう心がけて対応すること。このようなことはテレワークによって学べたことだ、と話してくれた。 テレワークと小山の暮らしがもたらした日々の幸せ テレワークはしばらく続きそうではあるが、会社としては一時的な対応であるという。 「ただ、私としてはこのままテレワークを続けたい。会社にも相談しています」と話す。 仕事、家事、育児、全てがこなせる今のバランスが良いのはもちろんだが、その場所が小山であることもポイントになっている。 「今まで、いくつかの街で暮らしましたが、小山での暮らしがとても気に入っているんです」。 その理由として、気候が良いこと、広い公園が多いこと、子どもも楽しめるマルシェが多いことなど、子育て環境の良さがまず挙がるという。 またテイクアウトを行なっているお店や、SNSで情報発信してくれるお店も多く、小さな子どもがいるママにとってはとてもありがたいのだそう。 「お店の方の、地域を盛り上げよう!という気持ちが、SNSやマルシェを通じて伝わってくるんです。地元への愛着がとても強いんだなぁって。そんな街に暮らせて、本当に良かったと思います」。 小山で暮らしはじめて新たに見つけた趣味もある。 「次男が生まれてから、洋裁を始めたんです。息子たちの洋服を作ったり、洋服を作ってお友達にプレゼントしたり。子どもの為でもありますが、自分の趣味でもあるので、楽しいです。そういった時間が取れるようになったのもテレワークのおかげですね」。 東京から近く、新幹線も停車する小山市。その利便性の良さから、人口が増え続けている街でもある。 東京通勤している方も非常に多いが、小さなお子さんを持つママであれば、少しでも子どもと一緒にいる時間を確保したいところ。 テレワークによりお子さんとの時間をしっかり確保しながらも、月に1度の東京通勤は気軽に行ける、そんなバランスが子育てママにはちょうどいいのかもしれない。皆さんも、とちぎでテレワークをしながら、理想の暮らしを実現してみませんか。

テレワーク移住で、暮らしとビジネスのクオリティUP

テレワーク移住で、暮らしとビジネスのクオリティUP

岡田陽介さん

東京近郊でやっと見つけたベストな移住先 2020年12月に那須塩原市へ移住した岡田さん。以前から旅行で那須エリアに訪れていたのかと思いきや、初めて訪れたのは僅か2ヶ月前、10月のことだという。 新型コロナウィルスの感染拡大により世界の状況が変わり始め、2020年3月には早々にオフィスを移転。全社員テレワークに切り替えた。住まいを地方に移したり、働き方を変えるなど、テレワークを前向きに捉え、より自分に合った働き方を選択してくれる社員が増えたという。岡田さん自身も「今後、日本の経済モデルは、東京一極集中ではなく地方に向いて行かないと立ち行かなくなる」。そう感じて、早々に地方への移住を考え始めていた。 移住先に求めたのは主に3点。程々の広さ、インターネット環境、東京へのアクセス。週に1、2回は東京へ行くことを想定し、1時間圏内を中心に探した。当初は神奈川県の逗子や葉山周辺などを具体的に調べていたが、東京と比較してそこまでのメリットを感じられなかった。東京近郊で様々な地域を検討するも、なかなか思うような場所が見つからない中、2020年10月、たまたま夫婦旅行で那須塩原市を訪れた。 訪れる前は「東京から新幹線で70分だし、この辺りもいいかもね」くらいの軽い気持ちではあったが、実際に訪れてみると、新幹線駅がありながらもまだ開発途中で、他地域と比べ格安で新築一軒家を購入できることに驚き、直感で「ここだ!」と思い立ったという。そして翌月には家を購入、翌々月には移住という急展開を迎えることとなった。 周りにも勧めたい、那須塩原市での暮らし 実は那須塩原市に移住したことを、これまで周辺にはあまり話をしていなかったという岡田さん。移住して3ヶ月が過ぎ、デメリットよりもメリットの方がはるかに多い今の暮らしを通じて、この選択は間違いではなかったと確信を得ている。 「この働き方が日本の基準になっていくと思うんです。東京のヒト・モノ・カネを地方に循環させるというのは、モデルとして正しいと思うので」。 現在の暮らしについて聞いてみると、夫婦揃って「何を食べても、素材がとても良くて美味しい」というのが一番感じていることだそう。新鮮で美味しい野菜は近所の直売所で、乳製品や精肉も高品質のものが気軽に手に入る。ドラッグストアやスーパーマーケットなど、生活に必要なものも数分圏内にあるので、何ひとつ不自由はしていない。自宅から15分ほどで行ける温泉も複数あり、その日の気分で使い分けている。そんな那須塩原市での暮らしに「クオリティオブライフは確実に上がりました」と断言。 「庭もあるので、暖かくなったら友人を呼んで、バーベキューをしたいですね」。 那須塩原市での暮らしは、都内に住む友人や会社の同僚にも勧めたい、と笑顔で話してくれた。 経営者自らも実感しているテレワークの良さ 東京に住んでいた頃は、朝6時30分に起きて身支度し、ほぼ終日取引先まわりの日々。現在はおおよそ8時から仕事を始めるが「テレワークは朝起きて、すぐ仕事に取りかかれるので本当にいいですよね」と、身支度や通勤時間がカットできたのは大きいと喜ぶ。日中はほぼテレカン(WEB会議)で、19時頃まで仕事が続く。夕飯・風呂を済ませ、少し寛ぐ時間を設けた後、自身のデスクワークに2時間ほど時間を費やす。 仕事に欠かせないアイテムは、パソコン、モニター、Airpods(Apple社のワイヤレスイヤホン)、主にこの3点だ。自宅が職場になったため、デスクや椅子にもこだわりがあるかと思いきや、そこは意外にも無いという。その理由のひとつはAirpodsを活用しているためだ。 日中はほぼオンライン会議になったが、必ずしもパソコンを前に行うものばかりではないため、Airpodsをつけてリビングであったり、家の中を動きながら参加することもあるという。場所を変えること自体が気分転換にもなる。 また、ウォーターサーバーやコーヒーメーカーも大活躍しているという。外に出ない分、飲み物を充実させることは多くのテレワーカーにとって大切なポイントだ。 テレワークになって一番大きな変化について聞くと「会食がなくなったこと」という意外な回答であった。以前は、ほぼ毎日会食続きで、深夜まで続くこともしばしば。今は平日の夜にこなしているデスクワークだが、当時はその時間が取れなかったため、週末に回すことになり、休日はない状況であった。そういった意味で「テレワークによって本質的な仕事ができるようになりました」と語る言葉に重みが感じられた。 メリットは多く聞けたので、栃木でテレワークすることのデメリットを伺ってみたが「特に無いんですよ」と一言。何かあれば東京に行くこともあるが、新幹線に乗れば1時間で到着するため、デメリットと言うほどではないという。 社員からも好評だという岡田さん流テレワークのすすめ 現在、岡田さんの会社では全社員がテレワークだ。IT企業のため、従来から週1でのテレワークを認めていた。また、東京オリンピック前後は交通機関が麻痺することを見越して、週2、3でテレワークができるよう環境整備はしていた。そのため、いざ完全にテレワークになっても特に問題はなかったという。 「テレワーク、テレカンを取り入れる必要性は絶対に出てくると思っていましたし、もともと海外オフィスとのやり取りもあったので、皆オンラインでの対応に慣れていました」。 2020年3月時点で以前のオフィスは解約し、本社機能はフレキシブルオフィスのWeWork内に移転。 都内在住者は自宅に仕事部屋がある人は少ないため「仕事をする場がない」という声もあるが、そのような場合はWeWorkのオフィスを使えるため、総じて好評だという。 テレワークのためのサポートも充実させた。例えば、元々のオフィスに備え付けていた椅子やモニターを、希望者が買い取れるようにした。また、自宅の環境整備のため月額の支援金も支給した。 テレワークは生産性が上がる、という声がある一方「一日中誰とも話さなかった」など、コミュニケーションの面ではネガティブな声も聞く。コミュニケーション不足を解消するために、社員同士がslack上でカフェテリアのようなスレッドを作り、雑談ルームで息抜きをしたり、昼休みにみんなで一緒にzoomランチ会をするなど工夫を凝らしている。「経営者として、テレワークは社員の業務状況のチェックだけでなく、メンタルケアもしっかり行うことが大切です」。 那須塩原で考える今後の展望 那須塩原市に住み始めてまだ3ヶ月ほどではあるが、移住の際に市の移住促進センターを利用したことで行政関係者との繋がりも生まれ、広がっているという。 「地方にはまだまだデジタル化していない部分は多いですが、暮らしの各部分にデジタルを導入することで、価値が生まれることがたくさんあると思います。それにより税金が効率的に使われるようになれば市民サービスも向上し、自分たちにもメリットとして返ってくるので、そういう流れが作れたらいいな、と感じています」。 また新たな取り組みとして動画配信を取り入れたいとも語る。 「動画を活用することで、より業務を効率化できる部分もあるので、自室を活用して撮影にもチャレンジしたいです」。 経営者にとってもメリットが数多くあるというテレワーク。 縁もゆかりもない土地への移住でも「クオリティオブライフは確実に上がった」と話す岡田さんの言葉に、背中を押される方も多いのではないでしょうか。 みなさんも栃木でテレワーク、はじめてみませんか。

小さな幸せが日常の中に

小さな幸せが日常の中に

春山良子さん

農業研修や移住体験施設を活用して候補地探し 「どこかに移住しようか……」 そう切り出したのは充さん。2021年1月、東京に2回目の緊急事態宣言が出されたときのことだ。当時のことを、良子さんはこう振り返る。 「私たちは二人とも東京出身なのですが、私は小さいころから田舎暮らしに興味があって。夫もキャンプなどのアウトドアが趣味で、だんだん自然豊かなところで暮らしたいと考え始めたようです。これまでは東京を離れる理由がなかったのですが、コロナ禍でお店を思うように開けられないのを機に夫婦で話し合い、東京で居酒屋を経営しながら、もう一つの拠点を地方に持とうと動き出したのです」 最初に参加したのは、「農家のおしごとナビ」というサイトで見つけた、県北エリアで行われた国主催の農業研修。4泊5日の研修中に出会った農園のオーナーやスタッフのみなさんは裏表がなく、とてもやさしく接してくれた。県北エリアでは多くの移住者を受け入れているからか、オープンな人が多いところにも惹かれた。 「ただ、雪が降ったときの車の運転が、ちょっと心配でした。そんなとき、研修で知り合ったある年配の方が、『大田原市だったら、雪はそれほど降らないよ』と教えてくれて、移住先の候補に加えたんです」 次に利用したのは、東京・有楽町の「ふるさと回帰支援センター」内にある「とちぎ暮らし・しごと支援センター」だ。そこで、主に県北エリアを候補として考えていると伝えたところ、それぞれの担当窓口を紹介してくれた。なかでも、最初に連絡がついた大田原市に、まずは見学に訪れることに。 このとき滞在したのは、市の南部にある「ゆーゆーキャビン」というログハウスの移住体験施設。ここを拠点に移住コーディネーターに案内してもらいながら、農家や移住者のもとを訪ねて話を聞いたり、空き物件を見学したりして回った。そのなかで訪れた、裏にきれいな川が流れる小さな一軒家がとても素敵で、「こんなところに住んでみたい」と感じたという。その帰りに、近くの小学校に立ち寄ると、校長先生が「どうぞ見学していってください」と案内してくれた。 「児童数40人ぐらいの学校だったのですが、板張りの校舎は明るくきれいで、一人一台パソコンが支給されていました。校長先生は、『うちには不登校の子も発達障害の子もいますが、みんなで支え合いながらやっています』と話されていて、ここならうちの子たちもやっていけそうだと思ったんです」 さらに、2カ月のお試し移住を経て大田原に 4泊5日の滞在を終えて、東京に戻った良子さんは充さんと相談し、大田原市への移住を具体的に考え始めた。見学の際に気に入った小さな一軒家は築年数が古かったこともあり、近くで別の物件を探し、現在のこの一軒家(下写真)と巡り合った。 「ただ、賃貸ではなく売買物件だったので躊躇していたところ、大家さんが『試しに2カ月住んでみて、それで決めてくれたらいいよ』とおっしゃってくれて。2021年7月に私(良子さん)と子どもたち二人で、とりあえず引っ越してきたんです」 この2カ月間が、地域を知るために大いに役立った。 「近所のみんなさんはフレンドリーで、地域のことを教えてくれたり、虫取りが大好きな息子に捕ってきたクワガタをくれたり、本当に親切にしてくれました。そのうえ、家の周りの山々は緑が濃くとてもきれいで、夜には満天の星空が眺められるんです。夫は東京の居酒屋を経営しながらだったので、滞在は1週間ほどでしたが、もう早い段階で『ここに決めよう』と話していました(笑)」 近所の皆さんは地域のことや野菜づくりのことなど、親切に教えてくれる。 子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなる! こうして新たな暮らしのスタートを切った春山さん家族。良子さんと子どもたち二人は大田原に移り住み、充さんは東京で居酒屋を経営しながら、月に10日間ほど大田原に滞在するという二拠点生活を続けている。 大田原に移り住んで一番うれしい変化は、子どもたちが学校に楽しく通うようになったことだ。 「二人とも、見学に訪れたときに校長先生とお会いした小学校に通っているのですが、学校に楽しく通えるようになりました。学校の行事にもちゃんと参加しているので、いろんな思い出ができて良かったなと思っています。何よりもすごく明るくなりましたね!子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなります」 先生たちの顔が見えることもポイントで、安心して子どもを預けられるという。 「児童数が多すぎるというのもあると思いますが、東京にいた頃は担任の先生以外はほとんど顔も知らない方ばかりでした。それがこっちでは校長先生まで出てきてくれますからね。学校全体でちゃんと子どもを受け入れてくれていると感じます」 良子さん自身も、移住後すぐに家の前にある畑で野菜づくりを始め、最近は中古の耕運機も手に入れた。 「ジャガイモや玉ねぎ、ニンニク、スナップエンドウなど、いっぱい収穫できました。とれたての野菜は本当においしく、東京のスーパーに並んでいる野菜との違いに驚いています。子どもたちも、喜んで食べていますよ」 さらに、良子さんは近所にあるガソリンスタンドで、1日4時間ほどだがアルバイトもしている。 畑で野菜が多く収穫できたときは、自分で袋詰めをして、ガソリンスタンド内の商店で販売している。 「おばあちゃん、おじいちゃんをはじめ、地域の人が買い物に来てくれて、良く世間話をしています。バイトを始めたことで、地域について詳しくなりました」 一方、ご主人の充さんの楽しみは、庭に張ったテントで過ごすこと。ハンモックでくつろいだり、家族みんなでカレーを食べたり、「キャンプ場に行く必要がなくなった」と喜んでいるそうだ。 ハーブの栽培や道の駅での販売にもチャレンジしたい 春山さん家族は、大田原市西部の、周囲に山々が広がる地区に暮らしている。 「大田原市の中心部も見ましたが、街中では東京の暮らしと大きく変わらないのではないかと思い、あえて自然が豊かな地区を選びました。私たちはお店を始めるためでも、おしゃれな田舎ライフを楽しむためでもなく、家族で生活をするために移住先を探していました。それには自然が豊かで、地域の人もあたたかい今の場所が、ぴったりだと感じたんです」 他の移住者のように、「移住先でお店を開いた」、「新たな事業を始めた」というような“大きな変化”はないが、子どもたちが外を元気に走り回っていたり、充さんは庭でキャンプができてうれしそうだったり、毎日食べる野菜がおいしかったり、そんな“小さな幸せ”をたくさん感じるようになった。 それだけではない。東京ではどこへ出かけても人が多く、スーパーなどで騒ぐ子どもたちをつい怒ってしまうことや、些細なことでイライラすることがあったが、そんな小さなストレスも移住してからはなくなった。物理的な広さやゆとりがあると、気持ちにも余裕が生まれるのではないかと話す春山さん。 「子どもをやたらと怒らなくなった」 これも移住して良かったと感じることの一つだという。 「当面は、東京で居酒屋の経営を続けながら、徐々に大田原での生活も築いていきたい。これからは畑でハーブを育てたり、市内の道の駅で野菜を販売したりと、新たなことにもチャレンジしていきたいです」

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