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那須エリア

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Uターン起業で挑む、 <br>小さなまちの大いなる可能性<br>を引き出すまちづくり

Uターン起業で挑む、 小さなまちの大いなる可能性を引き出すまちづくり

高塚 桂太(こうつか けいた)さん

世界を見た末に選んだ、人口1万人のまち バックパッカーとして世界中を旅し、フィリピンへの1年間の交換留学を経験するなど、大学在学中、精力的に活動していた高塚さん。外務省管轄の独立行政法人に内定し、卒業後はタイで日本語教育の普及に携わる予定だった。 そんな矢先、世界中を新型コロナウイルスのパンデミックが襲う。国内待機が言い渡された高塚さんは、卒業後、東京のゲストハウスで働きながら渡航を待つことに。だが、一向に目途が立たない……。先の見えない日々の中で、高塚さんは自身のキャリアを見つめ直した。 「これからどうしていきたいのか、何をしたいのか。考えた末に、地元である塩谷町に戻ろうと決意しました」 内定を辞退し、Uターンを決めた高塚さん。その背中を押したのは、地元の幼馴染や応援してくれる地域の大人たちだった。 「大学時代からローカルスタートアップに興味があって、地域への感度は高かったんです。幼馴染たちと『何か面白いことができないか』と話し合い、イベントを企画したり地元の人たちとつながったりできるようなコミュニティスペースをつくろうというアイデアが生まれました」 栃木県塩谷町。人口約1万人の、県内でもっとも人口の少ない小さなまちだ。世界を見てきた高塚さんが、このまちを選んだ理由とは。 「この規模感だからこそ、できることがたくさんあると思いました。自分が表現したいこと、やりたいことが実現できる場所だと」 小さなまちだからこそ、自分たちの手でゼロから何かを生み出せる。その可能性に魅力を感じた高塚さんは、新たな挑戦への第一歩を踏み出した。 サウナから始まる、まちづくりの物語 Uターン後、高塚さんは早速、コミュニティスペースづくりに取り組み始めた。しかし、右も左もさっぱり分からない。それでも、夢やビジョンを伝え続けることは忘れなかった。 「ある日、コミュニティスペースづくりの進め方について地元の事業者さんに相談すると、『資材やお金は全部用意するから、君は仲間だけ集めてくればいい。任せなさい』と言ってもらえて。その後も、私のビジョンに共感する方が集まり、気づけば100名近い方が関わってくださいました」 こうして誕生したのが、コミュニティスペース「Step One」だ。ここを拠点に、高塚さんたちの活動は大きく広がっていく。 「塩谷町を面白くするための『地域会議』を開いたり、『朝サウナ』を実施したり。朝サウナはまさに裸の付き合い。朝6時に河原に集合して、サウナでまちの未来について語り合うんです」 朝サウナには、地元の若者のほか、役場の課長クラスの方たちも集まった。ここから生まれたアイデアは、次々と実現していく。 「町営キャンプ場を貸し切ってサウナフェスを開催したり、さまざまなプロジェクトが生まれました。サウナで語った想いに共感してくれた人たちが、今は当法人の役員になって日々の業務を支えてくれています」 高塚さんは、自分の想いや迷いすらも正直に伝えることで、周囲の支援を得てきた。 「分からないことや困っていることは、言葉にして伝えるように心がけています。ビジョンは描いているけれど、そこに至る道が見えない。そう正直に伝えると、多くの方が助けてくれます」 高塚さんの熱い想いが大きなうねりとなり、小さな塩谷町でのまちづくりが動き出していった。 設立間もなく、塩谷町の地域活性化を担う存在に コミュニティスペース「Step One」で実績を重ねた高塚さんは、2023年4月にまちづくり会社「ローカルキャンバス」を設立した。主な事業は、塩谷町役場からの地域活性化に関する受託業務だ。地域おこし協力隊の伴走支援や関係人口の創出、高校生の地域定着促進に関する事業などを展開している。 「『朝サウナ』で築いた人間関係が、今の事業にもつながっています。振り返ってみても、ビジョンを伝え続けることの大切さを実感しますね」 高塚さんの学びへの姿勢は貪欲だ。全国各地の地域創生の現場を巡り、さまざまな事例やノウハウを吸収してきた。 「イベントの収益を握りしめて、多くの市町村を訪れました。現地のトッププレーヤーに会って話を聞いたり、人脈を広げたりという経験が今の仕事の糧になっています」 ビジョンの発信、積み重ねた実績、そして現場で得た確かな知識。これらが、ローカルキャンバス設立からわずか1年足らずで、想いを形にする原動力となっている。 高塚さんが現在、特に注力しているのが地域おこし協力隊の伴走支援だ。 「『チャレンジできるまちづくり』が、私たちローカルキャンバスの使命です。新しいことを始めるには、時に苦しくとも走り続けなければならないこともあります。そんな時もともに走り続け、安心して挑戦できる環境を整えることで、新たな取り組みを促進していきたいと考えています」 ローカルキャンバスは、高校生向けの郷土愛育成プログラムにも取り組む。 「子どもたちが普段関わるのは、たいてい親か学校の中の人だけですよね。でも、地域には魅力的な大人や、自分の想いを表現している事業者さんがたくさんいます。そういう方たちとの出会いの場を設けることで、子どもたちの視野を広げていきたいです。子どもは大人の背中を見て育つものだと思っているので、地域の大人たちがワクワクしながら仕事をしている姿を見て欲しいですね」 高塚さんの活動は、塩谷町に新しい風を送り込んでいる。挑戦する人を増やし、地域全体で新たな取り組みを推進する。そんな高塚さんの想いが、確実に実現化しつつある。 小さなまちで見つけた大きな可能性 Uターンした高塚さんにとって、塩谷町の見え方はどのように変化したのだろう。 「子どもの頃は正直、『何もない』と感じていました。でも大人になった今は『余白がある』と捉え直せています」 この「余白」こそが、クリエイティブな活動の源泉になっているという。東京では常にサービスを受ける側だったが、ないものが多い塩谷町では、自分たちで作り出す必要がある。そこに楽しさがある。人口約1万人の小さなまちに、高塚さんは無限の可能性を見い出している。 「完成されていないからこそ、自分が関わる余地があります。それが塩谷町の最大の魅力だと思います」 人とのつながりも、塩谷町ならではの魅力だという。 「顔を合わせれば自然と挨拶ができたり、突然焚き火の誘いが来たり(笑)人との温かいつながりが豊かな暮らしを形成しています」 さまざまな年齢層の方と交流できることも、大きな特徴だ。 「都会ではどうしても同世代の人たちだけと関わりがちですが、私が塩谷町で日々関わるのは、小学生に30代のママ、40代のイケオジ、60代の人生の大先輩と、本当に幅広い年齢層の方たちです。多様なコミュニティとのつながりが、自己表現の幅を広げてくれています」 都会と比較すると塩谷町には「完成されたもの」は少ないかもしれない。しかし、何でも「創り出せる環境」がある。自分で何かを生み出したい、新しいことに挑戦したい人には最適な環境だといえるだろう。 塩谷町を「チャレンジできるまち」へ 今や塩谷町の未来をリードする高塚さん。Uターンして良かったと感じる点を尋ねると、即座に答えが返ってきた。 「大切な仲間ができたことですね。切磋琢磨しながらともにプロジェクトを進める仲間、わいわいとプライベートを楽しめる仲間、辛い時に支えてくれる仲間……。仲間と過ごす一瞬一瞬がとても楽しくて温かくて、彼らとの出会いは私にとってかけがえのない財産になっています」 素晴らしい仲間に囲まれる高塚さんが思う、仲間づくりの秘訣は、弱みをさらけ出すことだという。ビジョンを発信することはもちろん大切だが、かっこつけず、ありのままの自分を表現することで、頼れる仲間ができる。 塩谷町を舞台に、挑戦を続ける高塚さんの今後の抱負は―。 「塩谷町をチャレンジできるまちにすることです。地域おこし協力隊や移住者など、新しいことを始めようとしている方たちの背中を押し、支援していきたいです。塩谷町には、温かさがある一方で田舎ならではの厳しさもあります。困難に直面しても、何としてでも前に進む。その覚悟を持って、地域と共に成長していきたいですね」 最後に、塩谷町の可能性について語ってくれた。 「塩谷町は栃木県で一番人口の少ないまちです。小さなまちだからこそ、アイデア次第でどうにでもできる。支えてくれる仲間もたくさんいる。塩谷町は表現の場として最高の環境です。この環境を活かして、塩谷町をもっと面白いまちにしていきたいです」 高塚さんの挑戦はまだ始まったばかり。情熱と行動力で塩谷町に新たな風を吹き込む彼の描く未来図が、この小さなまちをどう変えていくのか。高塚さんの活動とともに、塩谷町の変化にも注目が集まりそうだ。

創造力育む、</br>「余白ある」暮らし

創造力育む、「余白ある」暮らし

天谷 浩彰(あまや ひろあき)さん
渡部 幸恵(わたべ ゆきえ)さん

「ゆっくりできる」その本当の意味を理解した 移住前、職場の関係で、塩谷町が持続可能なまち「オーガニックビレッジ」を目指していくという話を聞き、約30名とともに塩谷町に足を運んだ。 訪れたのは冬。どうしてもいきいきとした印象は受けない。 「正直、第一印象としてはピンと来ませんでしたね」と浩彰さん。 同じく視察に来ていた元同僚で友人のともちゃんが塩谷町に移住したのは、視察からわずか2、3ヶ月後のことだった。ともちゃんが移住したことで、浩彰さんと幸恵さんのお二人は月に1回ほど塩谷町に遊びに行くようになり、まちへの印象も徐々に変わっていった。 人の数や時の流れ。体がついていけないほどに、塩谷町と首都圏ではまったく異なっていた。 「ゆっくりできるとは、こういうことか」塩谷町での滞在中、その意味を感覚的に味わった時、塩谷町への移住は着実に近づいていた。 そもそもお二人には「家族と動物たちがゆったりと豊かに暮らせる"楽園"をつくる」という構想があった。周りが木々に囲まれた野球場ひとつ分ほどの土地。畑や田んぼもあって、動物たちが自由に走り回れるような……。そんな舞台を求めていた。 長野県の安曇野市や伊那市、南箕輪村なども訪ねたが、まちの雰囲気、そして人のおもしろさに惹かれたのが塩谷町だった。 「都内の大学に在学中にバックパッカーとして旅をして、タイで働く予定だったんですが、コロナの影響で塩谷町にUターンしたけいちゃんという若者がいて。彼からまちづくりへの想いを聞いて、『こういうことを考えている若者が住む塩谷町はおもしろくなるな』そんな直感がありましたね」と浩彰さん。 まちづくりに取り組む若者との出会いもあり、塩谷町への移住を決めた。 懐に飛び込めば、あっという間に心が通う まちづくりについて熱く語ってくれたけいちゃん、「竹細工をやってみたいな」という幸恵さんの一言で竹を切り、竹細工を教えてくれた友人宅の大家さん。 「気持ちの通い方が早いっていうんですかね……。みんなあったかいし、人懐っこい。スピーディにコトが進むというか」 新しい土地、特に田舎での移住生活。人付き合いがうまくいくのかと心配する方も多いだろう。 「最初は不安もありましたよ。でも、自分たちがよそ者である以上、自分から距離を詰めていかないと、というのは思っていて。自分から声を掛けずに仲良くしてもらおうなんて、そんな美味しい話はないですからね。自分から行動して関係性を築いていく。あとは、『自分がやるべきことを、ちゃんとやる』。結構、見てくれているので」 浩彰さんは続ける。 「移住者として見られるし、自分から行動しないといけないし、移住するにあたって自分なりの軸がしっかりしていないと、苦労するかもしれないです。暮らしが全然違うので、当たり前ではありますよね」 浩彰さんの言葉は、田舎暮らしを検討している方にぜひ知ってほしい、リアルな声だ。 自ら行動を起こしたお二人は、友人に驚かれるほど、あっという間に地元の方とのつながりができたという。地元の方と、年代に関係なく、一緒にお酒を飲むこともある。“はじめまして”の時には、知り合いを通して、相手とつながるようにしているそうだ。 「人との直接的なコミュニケーションが、都会よりも頻度・重要度ともに高いのかもしれないですね」と幸恵さんが教えてくれた。 「栃木県の中でも、塩谷町の知名度は低いかもしれないですが、だからこそいいと思います。刺さる人にだけ刺さる、隠れた魅力に溢れるまちです」 口を揃えて言ったお二人の言葉がとても印象的だった。 手づくりの結婚式を自宅で 2023年5月、自宅で結婚式を挙げた。 「この集落に根を下して暮らしていこう」移住後に二人でそう再確認したことが決め手だった。 「集う」をコンセプトに、円を描くように形作られた畑に、大好きな家族や仲間が集う。近い未来に実現させたい「馬のいる暮らし」をちょっぴり先にお披露目するように、幸恵さんが馬に乗って登場する。手づくりの草冠を互いに授けあう……。 自分たちでアイデアを出しあいながら計画を立て、仲間の協力も得ながら、一つずつ準備を進めた。「馬のいる暮らし」を見せてくれたサラブレットのグランデくんは、地元牧場・UMAyaカントリーファームのゆうきさんとみおさんのご厚意もあり、馬運車で運ばれてきた。 結婚式をやると決めてからの50日間は、怒涛で濃密で豊かな時間だった。 結婚式の中で、お二人独自のアイディアのパートがあったそうだ。題して、祝婚の宴。 参列された方について、お二人との関係性を赤裸々に語り、紹介された方からも言葉をもらう。これを、参列者全員に対して行った。 笑いあり、涙あり。当初2時間の予定が4時間に延びるほど、想いに満ち溢れていた。あっという間に陽は傾き、あたたかい西日がみんなの笑顔を照らし出す。 18時を知らせる音楽がまちに鳴り響くと同時に、祝宴の宴も幕を閉じた。 結婚式に参列した浩彰さんのご両親は、祝婚の宴でのやり取りを見て聞いて、友人との関係性やあり方など、普段目にしない浩彰さんの姿に、見え方が180度変わったのだとか。 浩彰さんのご実家がある藤沢市から塩谷町に移住したことも、関係性が変わる一つのきっかけとなった。 「近くにいてほしい、という気持ちはあったでしょうが、今も隔週くらいで藤沢に帰っているので喜んでくれていますよ。幸恵と会えることも楽しみにしてくれています」と浩彰さん。 「浩彰のご両親には、実の両親と同じように言いたいことを言おうと決めていて。ぶつかったりできるのも生きているからこそだよねって感じられるようになった出来事もあり、どんどん関係性が濃くなっていると感じます」と幸恵さんも振り返った。 離れているからこそ分かることや見えるもの、伝えられることはあるのかもしれない。お二人の実体験がそう教えてくれた。 思いを形にできる場所で、チャレンジの連続 結婚式を自宅で。これはお二人のその後の考え方にも大きな影響を与えた。 すべてを自分たち、仲間内、友人たちとで準備したからこそ、「自分たちで、自宅で、何でもできる」という考え方を得られたのだという。 そんな経験を糧に、結婚式ができるなら、と自宅で“えんがわらいぶ”と題する初ライブを開催した。ライブ後、参加者全員との語らいの時間には、地元のカフェ“風だより”のケーキや、“稲と珈琲”のコーヒーが振舞われた。 お二人の行動力とそれによって紡がれてきたつながりが、ライブというひとつのカタチになったのだった。 それ以外にも、塩谷町に移住後、たくさんのチャレンジを重ねている。……というより「チャレンジしかしていない」んだとか。 たとえば、米づくり。都会であれば、何をどうやって始めればいいのか見当もつかない。 お二人が米づくりを始めたきっかけが、「近所の農家さんに挨拶した時に『うちの田んぼを2枚使っていいよ』と言われた」ことだというから驚きだ。都会では決してありえないシチュエーションである。 田んぼ2枚、二人ではとうてい作業しきれないからと友人に声をかけ、友人から友人へと広がり、イベントという形で稲刈りを行った。昔ながらの手植え、手刈り。曲げた腰の痛みをはるかに上回る、ワクワクとドキドキがあったに違いない。 自ら働きかけるお二人。ここでもつながりが広がっていく。 古民家の古材や廃材をいただき、移住後に飼い始めたヤギの“はなちゃん”の小屋も自作した。 「やればできる。それは移住前も頭では理解していましたが、塩谷町ではすべてが揃っていて、本当にチャレンジできる環境があるなと感じます。『あ、本当にできるんだな』と感じることがどんどんと出てきていますよ」と浩彰さん。 都会に行けば確かに何でもモノが揃っているが、ここには環境や素材、そして余白がたっぷりとある。 思いを形にできる、創造力を育んでくれる土地なのだ。 お二人のこれからと、塩谷町のこれから 移住前、浩彰さんは川崎市へ、幸恵さんは都内に通勤しており、帰宅は19時、20時頃になるというのが当たり前だった。今はリモートワークや畑仕事を中心に、自然のサイクルに合わせたリズムで生活を送る。 食卓には自分たちで種を蒔き、成長を見守ってきた、採れたての食材が並ぶ。スーパーで買うものよりも、味が濃く、野菜の個性を感じられる。ほうれん草が実は甘かったり、包丁で切ったきゅうりの断面から水分がにじみ出るのを目の当たりにしたり。さつまいもの収穫時期には、暖を取るストーブでつくったふかし芋が、朝食やリモートワーク中のおやつにもなった。 「日々のご飯が一番美味しい」 幸恵さんのその言葉には、毎日の暮らしへの満足感があふれていた。 2024年4月には、一日一組限定のプライベートキャンプ場もオープン予定だ。 お二人の自給農園“にゃす”で育った採れたて野菜を味わったり、ヤギのはなちゃんと触れ合ったり、焚火を囲んで語り合ったり……。 塩谷町で暮らすように泊まり、静けさと動物の息吹を味わえるキャンプ場だ。 「演出ではなく、私たちの暮らしのリアルを一緒に体験していただく、そんな場所です。『あっ、こんな暮らしもありだな』と、キャンプ場で過ごした時間によって人生の新しい選択肢が生まれたらうれしいです。」 お二人がこれから望むこととは―。 「私たちのように家族で土地を耕し、環境も生き方もデザインされる方が増えてほしいと思っています。その舞台として塩谷町を選んでいただけると一番うれしいですが、栃木県のほかの市町でも構いません。仕事も大切ですが、それ以上に家族が豊かであること、何気ない日常の幸せを感じられることの方が重要で大切なことだと考えています」 移住を機にお二人の生活は大きく変化したが、お二人の存在は周囲に、そして塩谷町にも影響を与えていそうだ。 お二人が移住した時期は、塩谷町がまちづくりに、より力を入れ始めたタイミングでもあった。移住・定住支援サイト「塩谷ぴーす」を開設し、近々移住コーディネーターも設置される予定である。 「まちも、自分たちも、まさに変化の中にいると感じます。変わり始めた今だからこそ、塩谷町はこの先5年、10年が一番おもしろい時期でしょうね」 お二人の楽園づくりは、着実に根を張りめぐらし、苗木から若木へとバージョンアップしているようだ。 創造力が沸き立つこの土地で、まちをも巻き込みながら、楽園づくりを進めていく。

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

高橋 潔(たかはし きよし)さん

起業と農業、東京と矢板 栃木県内の高校を卒業後、大学は群馬県へ。社会人としてのスタートは、人材派遣会社の営業職だった。全国に拠点があり、東北や関東エリアを中心に経験を積んだ。20代後半で転職した会社では、人事や経営企画、秘書業務など経営層に近い部分に携わった。 「全国を拠点に、特に製造業への人材派遣をメインとしていたのですが、ここ十数年で多くの企業が工場の閉鎖や廃業するのを目の当たりにし、地方の危うさというか、将来への危機感を募らせていました。2011年の震災も経験し、何か地方を盛り上げることや地域に還元できることをしていきたい、と考えるようになったんです」 そして2014年、思い切って会社を辞め起業した。 「とにかく地方を盛り上げたい想いだけはあって、会社を作りました。以前、オンラインで全国会議をしたことがあり、この仕組みを使えば何かおもしろいことができるのでは?と考えたんです。今では当たり前のオンラインですが、10年以上も前だとまだそこまで一般的ではなかったですよね」 そうして立ち上げた事業のひとつが、オンライン配信サービスであった。当時はビジネスとしてはまだ競合も少なかったが、ニーズはあったため、順調に軌道に乗った。 「ただ、私自身はITまわりにそこまで強い訳ではなくて。社員に“配信はやらなくていいです”と言われるくらいでした(笑)そのため、配信の実務は当初から信頼できる社員に任せています」 会社を経営する一方、高橋さんがずっと気にかけていたのが、矢板市で叔父が経営するぶどう園だった。 「りんごの生産が有名な矢板市ですが、叔父は市内唯一のぶどう園を経営しています。ただ跡継ぎがおらず、今後どうするんだ、という話を以前からずっとしていました。先代の頃からワイン作りやワイナリーの夢もあり、叔父も自分も諦めたくない、という想いが強く、2015年の正月に話し合いをしました。起業して1年も経っていませんでしたが、自分が畑を手伝うことにしたんです」 こうして東京と矢板、オンライン配信サービスと農業という全く異なる分野での2拠点生活が始まった。 ぶどう園での手伝いから協力隊へ 2015年6月からぶどう畑で作業するようになった高橋さん。 日々の作業の中で、市役所の農業や広報の担当者と接点を持つ機会が増えた。当初は農業に関する話が多かったが、徐々に今後の矢板市について語り合うことも増え、「矢板市は、地域おこし協力隊の募集はしないのですか?」と尋ねたことがあった。 以前から全国の地域活動に目を向けていたため、地域おこし協力隊のことは知っていたという。ちょうど矢板市でも、募集に向けて動いているタイミングだった。 矢板で過ごす時間が増え、叔父のぶどう園だけでなく、周辺地域のこと、農業のこと、市の未来について考えることが多くなったという。 「自分が育った矢板を、どうにか盛り上げていきたい」という想いは、日々強くなっていった。 そんな中、矢板市での地域おこし協力隊募集が始まり、手をあげた高橋さん。 地域への想いや活動の実績が評価され、“中山間地域の活性化”をミッションに2017年4月から活動を始めることとなった。 「活動地域が泉地区という、ぶどう園とは異なる地域だったので、協力隊としては泉地区にコミットし、休みの日にぶどう園の作業、夜に自社の仕事をオンラインで、という生活スタイルでした。全く違う頭を使わなければならなかったので、切り替えは大変でしたね」 泉地区では、まず地域を周り、現状を知ることからスタート。矢板市の中でも過疎化が著しいこの地域では、住民たちも危機感を募らせていた。 そこで都内の大学生を呼び、地域課題に取り組むプログラムをコーディネートしたり、全国の地域課題に取り組む団体の方を講師に呼んで勉強会を開いたりと、様々な取り組みに着手。 2年目には、既に地域で活動している人たちのサポートに入り、一緒に事業の収益化を考えるなど、コンサルタントのような立場でまちづくりに取り組むようになった。 そんな中、矢板市で人口減少などの地域課題に取り組むための拠点(後の『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』)を作る構想が立ち上がる。協力隊卒業後は市内で団体を立ち上げ、矢板に人を呼び込むような仕組みを作りたいと考えていた高橋さんは、市からの依頼もあり、協力隊2年目の途中から拠点の構築に取り組むこととなった。 「泉地区の皆さんには、3年間携われず申し訳ない気持ちも大きかったですが、関わった期間の中での取り組みにはとても感謝してもらえて。今でも飲みに誘ってもらえる関係を築けています」 TAKIBIの立ち上げ 新たなミッションとなった『矢板ふるさと支援センター』の構築については、拠点の場所探し、運営の構想、スタッフの採用、その全てを担った。 「人々が自然と集まってくるような場所。その時々でカタチを変えるような空間。薪を集めて火を灯すことがスタートアップのイメージにもつながることから“TAKIBI(焚き火)”という名称になりました」 スタッフとして新たに3名の地域おこし協力隊を採用。市内の空き家を借り、採用した協力隊と共に地元の高校生なども巻き込みながら自分たちで改修作業を行なった。 そして2019年6月『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』として、地域内外の人々が気軽に集えるシェアスペースがオープン。 「自分の力を出し切り、やっと形になった時は嬉しかったですね」 その後、移住相談窓口やテレワーカーの仕事場、地元学生の勉強の場、イベントスペースなど幅広く活用された『TAKIBI』だったが、2022年8月に矢板駅東口からほど近い場所へ移転。現在、高橋さん自身もより広くなった新生『TAKIBI』を利用している。 「商業施設などとも隣接しているので、多くの方の目に触れやすく利用しやすい環境だと思います。シェアスペースやシェアキッチンを多くの方に利用いただきたいですね」 『TAKIBI』のスタッフの皆さん、顔馴染みの利用者さんと 地域での商売を、うまく循環させたい 今も変わらず、矢板と東京の2拠点生活を続けている高橋さん。協力隊卒業のタイミングが2020年3月だったこともあり、卒業と同時に会社のオンライン配信サービスの仕事が急激に忙しくなってしまったが、それぞれで仕事がある時に行き来しているという。 「協力隊卒業を見越して、矢板でNPO法人を立ち上げたんです。コロナのタイミングと重なりほとんど活動できていなかったのですが、少しずつ準備を整えていて、2023年はやっと動き出せそうです」 市内の空き物件を借り、整備を進めている。 「この空間を整備して、地域住民のための情報発信拠点を作ります!」 地元の商店主たちと話をする中で、「何かをやるにもPR手段がない」との声を多く聞いた。 広報物では情報発信までのタイムラグが生じ、SNSでは一部の人にしか届かない。誰でも聴けるラジオを通じて、リアルタイムの情報を地域の人に届けるサービスを展開したいと考えている。 「配信ツールは、会社の機材があるので整っています。例えば、飲食店の店主にスタジオに来てもらって“今夜のテーブル席、まだ空いてます!”といった情報を発信してもらえたらと。事前に日にちを決めて、数万円の広告費を払ってもらうのではなくて、発信したいときに来てもらって、ワンコインでもいいから気持ちを収めてもらう。その方が、お互いに気持ちよくサービスを続けられると思うんです」 目指すところは、この仕組みがうまく循環し、店主たちにとって“商売しやすいまち”となることだ。そのためにも、できるだけ気軽に立ち寄れるよう、普段から誰でも自由に出入りできるフリースペースも設ける。偶然ではあるが、情報発信拠点は地域の方が立ち寄りやすい場所にあるという。 「『くじら亭』という焼鳥屋があるんですけど、地元のみんなのたまり場みたいな場所なんです。縁があり、お店のすぐ隣の物件を借りられることになって。大将とは20年来の付き合いで、常連さんたちとも顔馴染み。これから地元の皆さんとの縁をより大切にしていきたいですね」 矢板への想い 「当面は2拠点生活を続けることになりそうですが、いずれは矢板を軸にという思いはあります。その時に、もっと矢板を生活しやすいまちにしたいと思っていて。そのために今種撒きをしている感じですね」 まずは情報発信拠点を稼働し、多くの人に利用してもらえるようにする。地元で商売をしている人だけでなく、移住者やテレワーカーなど、さまざまな人が交流し情報交換できる場になれば、と考えているという。 またぶどう園についても、まだまだやりたいことはたくさんある。現在、ぶどうジュースは道の駅や直売所で取り扱いをしているが、ワイン作り、ひいてはワイナリーへの夢は膨らむ一方だ。 「ワインで儲けたい。という訳ではなく、矢板市産のワインを作ることで地域を盛り上げるツールにしたいんです。ワイナリーを作ることができたら、雇用を生むことだってできる。この地域に人を呼び、ここに暮らして一緒に矢板を盛り上げる人たちを増やしていきたいです」

テレワーク移住で、暮らしとビジネスのクオリティUP

テレワーク移住で、暮らしとビジネスのクオリティUP

岡田陽介さん

東京近郊でやっと見つけたベストな移住先 2020年12月に那須塩原市へ移住した岡田さん。以前から旅行で那須エリアに訪れていたのかと思いきや、初めて訪れたのは僅か2ヶ月前、10月のことだという。 新型コロナウィルスの感染拡大により世界の状況が変わり始め、2020年3月には早々にオフィスを移転。全社員テレワークに切り替えた。住まいを地方に移したり、働き方を変えるなど、テレワークを前向きに捉え、より自分に合った働き方を選択してくれる社員が増えたという。岡田さん自身も「今後、日本の経済モデルは、東京一極集中ではなく地方に向いて行かないと立ち行かなくなる」。そう感じて、早々に地方への移住を考え始めていた。 移住先に求めたのは主に3点。程々の広さ、インターネット環境、東京へのアクセス。週に1、2回は東京へ行くことを想定し、1時間圏内を中心に探した。当初は神奈川県の逗子や葉山周辺などを具体的に調べていたが、東京と比較してそこまでのメリットを感じられなかった。東京近郊で様々な地域を検討するも、なかなか思うような場所が見つからない中、2020年10月、たまたま夫婦旅行で那須塩原市を訪れた。 訪れる前は「東京から新幹線で70分だし、この辺りもいいかもね」くらいの軽い気持ちではあったが、実際に訪れてみると、新幹線駅がありながらもまだ開発途中で、他地域と比べ格安で新築一軒家を購入できることに驚き、直感で「ここだ!」と思い立ったという。そして翌月には家を購入、翌々月には移住という急展開を迎えることとなった。 周りにも勧めたい、那須塩原市での暮らし 実は那須塩原市に移住したことを、これまで周辺にはあまり話をしていなかったという岡田さん。移住して3ヶ月が過ぎ、デメリットよりもメリットの方がはるかに多い今の暮らしを通じて、この選択は間違いではなかったと確信を得ている。 「この働き方が日本の基準になっていくと思うんです。東京のヒト・モノ・カネを地方に循環させるというのは、モデルとして正しいと思うので」。 現在の暮らしについて聞いてみると、夫婦揃って「何を食べても、素材がとても良くて美味しい」というのが一番感じていることだそう。新鮮で美味しい野菜は近所の直売所で、乳製品や精肉も高品質のものが気軽に手に入る。ドラッグストアやスーパーマーケットなど、生活に必要なものも数分圏内にあるので、何ひとつ不自由はしていない。自宅から15分ほどで行ける温泉も複数あり、その日の気分で使い分けている。そんな那須塩原市での暮らしに「クオリティオブライフは確実に上がりました」と断言。 「庭もあるので、暖かくなったら友人を呼んで、バーベキューをしたいですね」。 那須塩原市での暮らしは、都内に住む友人や会社の同僚にも勧めたい、と笑顔で話してくれた。 経営者自らも実感しているテレワークの良さ 東京に住んでいた頃は、朝6時30分に起きて身支度し、ほぼ終日取引先まわりの日々。現在はおおよそ8時から仕事を始めるが「テレワークは朝起きて、すぐ仕事に取りかかれるので本当にいいですよね」と、身支度や通勤時間がカットできたのは大きいと喜ぶ。日中はほぼテレカン(WEB会議)で、19時頃まで仕事が続く。夕飯・風呂を済ませ、少し寛ぐ時間を設けた後、自身のデスクワークに2時間ほど時間を費やす。 仕事に欠かせないアイテムは、パソコン、モニター、Airpods(Apple社のワイヤレスイヤホン)、主にこの3点だ。自宅が職場になったため、デスクや椅子にもこだわりがあるかと思いきや、そこは意外にも無いという。その理由のひとつはAirpodsを活用しているためだ。 日中はほぼオンライン会議になったが、必ずしもパソコンを前に行うものばかりではないため、Airpodsをつけてリビングであったり、家の中を動きながら参加することもあるという。場所を変えること自体が気分転換にもなる。 また、ウォーターサーバーやコーヒーメーカーも大活躍しているという。外に出ない分、飲み物を充実させることは多くのテレワーカーにとって大切なポイントだ。 テレワークになって一番大きな変化について聞くと「会食がなくなったこと」という意外な回答であった。以前は、ほぼ毎日会食続きで、深夜まで続くこともしばしば。今は平日の夜にこなしているデスクワークだが、当時はその時間が取れなかったため、週末に回すことになり、休日はない状況であった。そういった意味で「テレワークによって本質的な仕事ができるようになりました」と語る言葉に重みが感じられた。 メリットは多く聞けたので、栃木でテレワークすることのデメリットを伺ってみたが「特に無いんですよ」と一言。何かあれば東京に行くこともあるが、新幹線に乗れば1時間で到着するため、デメリットと言うほどではないという。 社員からも好評だという岡田さん流テレワークのすすめ 現在、岡田さんの会社では全社員がテレワークだ。IT企業のため、従来から週1でのテレワークを認めていた。また、東京オリンピック前後は交通機関が麻痺することを見越して、週2、3でテレワークができるよう環境整備はしていた。そのため、いざ完全にテレワークになっても特に問題はなかったという。 「テレワーク、テレカンを取り入れる必要性は絶対に出てくると思っていましたし、もともと海外オフィスとのやり取りもあったので、皆オンラインでの対応に慣れていました」。 2020年3月時点で以前のオフィスは解約し、本社機能はフレキシブルオフィスのWeWork内に移転。 都内在住者は自宅に仕事部屋がある人は少ないため「仕事をする場がない」という声もあるが、そのような場合はWeWorkのオフィスを使えるため、総じて好評だという。 テレワークのためのサポートも充実させた。例えば、元々のオフィスに備え付けていた椅子やモニターを、希望者が買い取れるようにした。また、自宅の環境整備のため月額の支援金も支給した。 テレワークは生産性が上がる、という声がある一方「一日中誰とも話さなかった」など、コミュニケーションの面ではネガティブな声も聞く。コミュニケーション不足を解消するために、社員同士がslack上でカフェテリアのようなスレッドを作り、雑談ルームで息抜きをしたり、昼休みにみんなで一緒にzoomランチ会をするなど工夫を凝らしている。「経営者として、テレワークは社員の業務状況のチェックだけでなく、メンタルケアもしっかり行うことが大切です」。 那須塩原で考える今後の展望 那須塩原市に住み始めてまだ3ヶ月ほどではあるが、移住の際に市の移住促進センターを利用したことで行政関係者との繋がりも生まれ、広がっているという。 「地方にはまだまだデジタル化していない部分は多いですが、暮らしの各部分にデジタルを導入することで、価値が生まれることがたくさんあると思います。それにより税金が効率的に使われるようになれば市民サービスも向上し、自分たちにもメリットとして返ってくるので、そういう流れが作れたらいいな、と感じています」。 また新たな取り組みとして動画配信を取り入れたいとも語る。 「動画を活用することで、より業務を効率化できる部分もあるので、自室を活用して撮影にもチャレンジしたいです」。 経営者にとってもメリットが数多くあるというテレワーク。 縁もゆかりもない土地への移住でも「クオリティオブライフは確実に上がった」と話す岡田さんの言葉に、背中を押される方も多いのではないでしょうか。 みなさんも栃木でテレワーク、はじめてみませんか。

小さな幸せが日常の中に

小さな幸せが日常の中に

春山良子さん

農業研修や移住体験施設を活用して候補地探し 「どこかに移住しようか……」 そう切り出したのは充さん。2021年1月、東京に2回目の緊急事態宣言が出されたときのことだ。当時のことを、良子さんはこう振り返る。 「私たちは二人とも東京出身なのですが、私は小さいころから田舎暮らしに興味があって。夫もキャンプなどのアウトドアが趣味で、だんだん自然豊かなところで暮らしたいと考え始めたようです。これまでは東京を離れる理由がなかったのですが、コロナ禍でお店を思うように開けられないのを機に夫婦で話し合い、東京で居酒屋を経営しながら、もう一つの拠点を地方に持とうと動き出したのです」 最初に参加したのは、「農家のおしごとナビ」というサイトで見つけた、県北エリアで行われた国主催の農業研修。4泊5日の研修中に出会った農園のオーナーやスタッフのみなさんは裏表がなく、とてもやさしく接してくれた。県北エリアでは多くの移住者を受け入れているからか、オープンな人が多いところにも惹かれた。 「ただ、雪が降ったときの車の運転が、ちょっと心配でした。そんなとき、研修で知り合ったある年配の方が、『大田原市だったら、雪はそれほど降らないよ』と教えてくれて、移住先の候補に加えたんです」 次に利用したのは、東京・有楽町の「ふるさと回帰支援センター」内にある「とちぎ暮らし・しごと支援センター」だ。そこで、主に県北エリアを候補として考えていると伝えたところ、それぞれの担当窓口を紹介してくれた。なかでも、最初に連絡がついた大田原市に、まずは見学に訪れることに。 このとき滞在したのは、市の南部にある「ゆーゆーキャビン」というログハウスの移住体験施設。ここを拠点に移住コーディネーターに案内してもらいながら、農家や移住者のもとを訪ねて話を聞いたり、空き物件を見学したりして回った。そのなかで訪れた、裏にきれいな川が流れる小さな一軒家がとても素敵で、「こんなところに住んでみたい」と感じたという。その帰りに、近くの小学校に立ち寄ると、校長先生が「どうぞ見学していってください」と案内してくれた。 「児童数40人ぐらいの学校だったのですが、板張りの校舎は明るくきれいで、一人一台パソコンが支給されていました。校長先生は、『うちには不登校の子も発達障害の子もいますが、みんなで支え合いながらやっています』と話されていて、ここならうちの子たちもやっていけそうだと思ったんです」 さらに、2カ月のお試し移住を経て大田原に 4泊5日の滞在を終えて、東京に戻った良子さんは充さんと相談し、大田原市への移住を具体的に考え始めた。見学の際に気に入った小さな一軒家は築年数が古かったこともあり、近くで別の物件を探し、現在のこの一軒家(下写真)と巡り合った。 「ただ、賃貸ではなく売買物件だったので躊躇していたところ、大家さんが『試しに2カ月住んでみて、それで決めてくれたらいいよ』とおっしゃってくれて。2021年7月に私(良子さん)と子どもたち二人で、とりあえず引っ越してきたんです」 この2カ月間が、地域を知るために大いに役立った。 「近所のみんなさんはフレンドリーで、地域のことを教えてくれたり、虫取りが大好きな息子に捕ってきたクワガタをくれたり、本当に親切にしてくれました。そのうえ、家の周りの山々は緑が濃くとてもきれいで、夜には満天の星空が眺められるんです。夫は東京の居酒屋を経営しながらだったので、滞在は1週間ほどでしたが、もう早い段階で『ここに決めよう』と話していました(笑)」 近所の皆さんは地域のことや野菜づくりのことなど、親切に教えてくれる。 子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなる! こうして新たな暮らしのスタートを切った春山さん家族。良子さんと子どもたち二人は大田原に移り住み、充さんは東京で居酒屋を経営しながら、月に10日間ほど大田原に滞在するという二拠点生活を続けている。 大田原に移り住んで一番うれしい変化は、子どもたちが学校に楽しく通うようになったことだ。 「二人とも、見学に訪れたときに校長先生とお会いした小学校に通っているのですが、学校に楽しく通えるようになりました。学校の行事にもちゃんと参加しているので、いろんな思い出ができて良かったなと思っています。何よりもすごく明るくなりましたね!子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなります」 先生たちの顔が見えることもポイントで、安心して子どもを預けられるという。 「児童数が多すぎるというのもあると思いますが、東京にいた頃は担任の先生以外はほとんど顔も知らない方ばかりでした。それがこっちでは校長先生まで出てきてくれますからね。学校全体でちゃんと子どもを受け入れてくれていると感じます」 良子さん自身も、移住後すぐに家の前にある畑で野菜づくりを始め、最近は中古の耕運機も手に入れた。 「ジャガイモや玉ねぎ、ニンニク、スナップエンドウなど、いっぱい収穫できました。とれたての野菜は本当においしく、東京のスーパーに並んでいる野菜との違いに驚いています。子どもたちも、喜んで食べていますよ」 さらに、良子さんは近所にあるガソリンスタンドで、1日4時間ほどだがアルバイトもしている。 畑で野菜が多く収穫できたときは、自分で袋詰めをして、ガソリンスタンド内の商店で販売している。 「おばあちゃん、おじいちゃんをはじめ、地域の人が買い物に来てくれて、良く世間話をしています。バイトを始めたことで、地域について詳しくなりました」 一方、ご主人の充さんの楽しみは、庭に張ったテントで過ごすこと。ハンモックでくつろいだり、家族みんなでカレーを食べたり、「キャンプ場に行く必要がなくなった」と喜んでいるそうだ。 ハーブの栽培や道の駅での販売にもチャレンジしたい 春山さん家族は、大田原市西部の、周囲に山々が広がる地区に暮らしている。 「大田原市の中心部も見ましたが、街中では東京の暮らしと大きく変わらないのではないかと思い、あえて自然が豊かな地区を選びました。私たちはお店を始めるためでも、おしゃれな田舎ライフを楽しむためでもなく、家族で生活をするために移住先を探していました。それには自然が豊かで、地域の人もあたたかい今の場所が、ぴったりだと感じたんです」 他の移住者のように、「移住先でお店を開いた」、「新たな事業を始めた」というような“大きな変化”はないが、子どもたちが外を元気に走り回っていたり、充さんは庭でキャンプができてうれしそうだったり、毎日食べる野菜がおいしかったり、そんな“小さな幸せ”をたくさん感じるようになった。 それだけではない。東京ではどこへ出かけても人が多く、スーパーなどで騒ぐ子どもたちをつい怒ってしまうことや、些細なことでイライラすることがあったが、そんな小さなストレスも移住してからはなくなった。物理的な広さやゆとりがあると、気持ちにも余裕が生まれるのではないかと話す春山さん。 「子どもをやたらと怒らなくなった」 これも移住して良かったと感じることの一つだという。 「当面は、東京で居酒屋の経営を続けながら、徐々に大田原での生活も築いていきたい。これからは畑でハーブを育てたり、市内の道の駅で野菜を販売したりと、新たなことにもチャレンジしていきたいです」

ふらっと、深い出会いを

ふらっと、深い出会いを

豊田彩乃さん

実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい 商店街に面した大きな窓が白み始めると、シャッターの開く音や、住民どうしが交わす挨拶の声などが聞こえてくる。ここは栃木県那須塩原市の黒磯駅前商店街。地域の人はもちろん、観光の人も行き交う、街の息づかいを身近に感じる場所に、2018年6月、「街音matinee(マチネ)」という名のゲストハウスが誕生した。 もし、街音に泊まったら、朝はいつもより少し早起きをして、7時からやっているという近所の和菓子屋さんやパン屋さんに出かけてみよう。近くには「1986 CAFE SHOZO」をはじめ人気のお店も点在している。少し足を伸ばして温泉につかったり、山登りを楽しんだり、自然に触れるのもいい。ただただ何もせず、街音の畳の上でゴロゴロと本を読む、という1日も贅沢かもしれない。 「まるで実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい」。それがオーナーの豊田さんの思いだ。 一方で、現在、豊田さんは那須塩原市の移住定住コーディネーターも務めており、「農業に挑戦したい」「お店を開きたい」などといった、移住を検討する希望者のニーズを聞きながら、一緒に街を巡ったり、人や物件を紹介したり、移住関係の補助金の申請などの手続きをサポートしたりといった仕事も手がけている。街音が、那須塩原を訪れ、この街について知るための〝起点〟になればという思いも持っている。 日本一周と世界各国の旅を経て知った、ローカルの魅力 豊田さんは埼玉県の草加市出身で、東京の大学に通っていた4年生のころ、留学のために1年間休学。資金を貯めようとアルバイトをすることにしたが、幸運にも、がん患者がタスキをつなぎながら日本を一周するというチャリティーイベントの運営スタッフに選ばれ、約半年かけて47都道府県を巡るという貴重な経験をした。 「このとき、日本には美味しいものや美しいもの、やさしい人など、知られていない魅力が山ほどあることを肌で実感しました。海外に留学する際も、いろんな地域を見てみたいと思い、アジアから中東、ヨーロッパ、アメリカまで、各国を巡ることにしたんです」 そんな旅の途中、イスラエルのパレスチナ自治区で滞在したのが、「イブラヒムピースハウス(通称:イブラヒム爺さんの家)」という名の宿だ。 「ゲストハウスの周囲の道路は舗装もされておらず、ちょっと危なっかしい雰囲気なのですが、そこにイブラヒムお爺さんの家があって、お爺さんがいることで、ツーリストたちがいっぱい来るし、地域の人や子どもたちも安心してそこを訪れる。そんな交流の起点となる場所って、素晴らしいなと感じたんです」 こうした世界各地や日本中を巡った経験から、地域に入り込んで、人と人の距離が近い関係の中で、いろいろなことを学びたいと考えるようになった豊田さん。そこで興味を持ったのが、地域おこし協力隊だ。「協力隊であれば、卒論を書きながらもすぐに地域に入っていろんな経験を積むことができるのでは」と考え、新潟や山形など、各地の自治体の情報を集めるなかで、選んだのが那須塩原市だった。 「那須塩原は、生活の場であると同時に、観光地でもあって、いろんな人の暮らしが交わる面白い場所だと感じました。また、現在、駅前で建設が進められている『まちなか交流センター』や『駅前図書館』の計画なども、当時から住民の皆さんが積極的にかかわって進められており、ますます地域が面白くなりそうだと実感したんです」 人と人が出会う、起点となる場所をつくりたい こうして那須塩原市の地域おこし協力隊の第一号として採用された豊田さんは、商工観光課の配属となり、3年間、国内外から観光客を呼び込むための様々な活動に取り組んだ。なかでも、企画を担当した観光ツアーのアイデアは、トラベルブロガーが日本の知られざる地域の魅力を探り紹介していくという「We Love Japan Tour2015」のHidden Beauty大賞で、準優勝にも輝いた。 また、黒磯駅前で年2回開催されているキャンドルナイトをはじめ、地域の活動にも積極的に参加。自分自身でも、地元農家とコラボしたさつまいもの収穫体験イベントや、ワイン用ぶどうの収穫体験、篠竹のかごづくり体験など、さまざまなイベントを企画している。 「今では、街じゅうに知り合いが増えました。多くの人と積極的にかかわるなかで、新しい発見があることを、身をもって体感し、そんな人と人が出会う、きっかけとなる場所をつくりたいという思いがますます強くなりました」 その場所が、まさに「街音 matinee」だ。黒磯駅前商店街でキャンドルナイトを主催する、黒磯駅前活性化委員会会長の瀧澤さん(上写真。一緒にバンドを組んで、キャンドルナイトで演奏している)の紹介で、もと紳士服店だったこの物件と出会ったのが2016年。 以来、豊田さんは準備段階からいろいろな人に関わってほしいと、2017年10月には栃木県による「はじまりのローカルコンパスツアー」を受け入れ、建物が持つ味わい深い良さはなるべく生かしながら、東京などの都市部から訪れた参加者と一緒に、壁塗りなどの改装を行った(下写真の布団ボックスも、いろいろな人に手伝ってもらいながらDIYで製作したものだ)。そのツアーをきっかけに、参加者と豊田さんは意気投合。同年代の建築士志望のメンバーや、篠工芸作家などと、夢を持つものどうしがお互いに応援しあう「あやとり」というグループも結成している。 「街音に泊まって、那須塩原の街をゆっくり巡ってもらえたらもちろん嬉しいですが、そうでなくても、いろんなイベントにちょっと顔を出していただくだけでもいい。そうやってさまざまな人が関わり、つながっていくなかで、この場所、この街がだんだんと色々な人にとっての〝大切な第二の拠点〟に育っていったら嬉しいですね」 そう話す豊田さん自身も、この街音を通じてたくさんの人と巡り合い、つながることで、どんどん那須塩原の街が好きになっている。

農業は“最高に楽しい接客業”

農業は“最高に楽しい接客業”

金子洋次さん・公乃さん

野菜の花など、新たな価値を畑から提案 「じつは、この黄色いゴーヤの花も食べられるんですよ」 そう金子洋次さんにすすめられて口に運ぶと、シャキシャキとした食感とともにゴーヤのほのかな苦みが口じゅうに広がった。 東京から那須町に移り住み、新規就農を果たした洋次さん・公乃さん夫妻は、アーティチョークやビーツなどの西洋野菜と、一般的な季節の野菜を無農薬・無化学肥料で栽培。季節の野菜は車で5分ほどにある「道の駅 東山道 伊王野」やマルシェなどで販売。一方、西洋野菜は、主に那須高原のレストランに出荷している。それだけではない。キュウリやインゲンの花をはじめ、あえて小さいサイズで収穫したピーマンやニンジン、オクラなどもレストランに届けている。 洋次さん:「例えば、キュウリやインゲンの花はこんなに小さいのに、食べると確かにその野菜の味がする。このギャップが、食べる人の感動につながります。そんなレストランのシェフが求めるものを、畑からどんどん提案していきたい。農地を拡大し生産量を増やすのではなく、今ある畑のなかで新たな価値を数多く創造することで、経営を成り立たせていくことを目ざしています。何よりもこのやり方のほうが楽しいんです!自分たちが種をまき育てたものを、その喜びのまま提案できる。僕は農業のことを、“最高に楽しい接客業”だと思っています」 最近では、那須高原のレストランのシェフたちが、畑を訪れる機会も増えている。 洋次さん:「実際に畑を見てもらいながら、『ゴーヤの花はこんな料理に使えそう』『小さいキュウリは、このサイズのものがほしい』などシェフと情報交換を行い、僕たちも勉強を重ねていくことで、最終的にレストランで出される料理の質を高めることができます。こんなふうにシェフと連携できるのも、市場には並ばない小さな野菜や花を届けられるのも、物理的な距離が近いからこそ。那須地域には、単に地元産の野菜を使うだけにはとどまらない、“新たな地産地消のカタチ”を生み出せる可能性があふれているんです」 移住者の仲間や、地域の人たちに支えられて 東京にいた頃、洋次さんはアパレルの販売を、公乃さんはスタイリストの仕事を手がけていた。二人のうち最初に移住に興味を持ったのは、公乃さんだった。 公乃さん:「彼の実家が、埼玉県の山に囲まれたところにあって、帰省する度にまわりの自然や生き物たちに癒やされていて。だんだんと自然が身近にあるところで暮らしたいなって思うようになったんです」 洋次さん:「僕は、大量に生産して大量に販売するというアパレル業界の仕組みに違和感を覚えるようになり、自分の手で一から育てたものを販売する農業に、漠然と関心を持つようになりました。二人で話し合い、妻の父親が建てた家が那須町にあったこともあり、この地への移住を決意したんです」 2010年2月に移住後、洋次さんは「道の駅 伊王野」(下写真)で、公乃さんは那須高原にある「那須高原HERB's」というハーブとアロマのお店で働き始める。 洋次さん:「最初に道の駅に飛び込んだのは、直売所で販売を担当させてもらうことで野菜について学びたいと考えたからです。農業について全く知識のない自分をひろっていただき、道の駅のみなさんには本当に感謝しています。ここで働かせてもらえたことで、地域のみなさんに僕たちのことを知ってもらうこともできました」 少しずつ地域に馴染み始めたころ、東日本大震災が発生する。原発事故による影響もあり、農業を諦め那須を離れる人たちがいる中で、二人がここに残る決意をしたのは、移住者の先輩や仲間たち、そして地域の人たちの支えがあったからだ。 洋次さん:「『アースデイ那須』の実行委員を通じて知り合った、隣の芦野地区で地域のハブとなるようなゲストハウス『DOORz』を営む田中麻美さん、佐藤達夫さん夫妻をはじめ(下写真)、アースデイ那須を立ち上げた『非電化工房』の藤村靖之さんや、妻が勤めていた那須高原HERB'sさんを中心に、『那須いろ野菜』というブランドを立ち上げたメンバーたち、震災後、農産物が売れなくなる中で、放射性物質の検査を行ったうえでオーガニック野菜を販売する『大日向マルシェ』を立ち上げた仲間たちなどなど。震災後の困難な状況を乗り越えようと活動する先輩や仲間たちの姿を目にし、みなさんと一緒にこの那須で頑張っていきたいと強く思ったんです」 公乃さん:「伊王野地区のみなさんの支えも本当に心強かったです。例えば震災直後、ガスが使えずに困っていると、地域の方が火鉢に火を起こしてくれたり、発電機を使って井戸の水をくみ上げてくれたり、感謝してもしきれないほど助けていただきました」 就農を目ざす人たちの“モデル”となるために 2011年4月から1年間、洋次さんは栃木県農業大学校が手がける、UIターン者などを対象とした「とちぎ農業未来塾」で研修を受けたあと、有機農家を見学して回り技術を学んだ。さらに、伊王野の地域の人たちからも多くのことを教わった。 洋次さん:「例えば、一般的な種まきの時期は調べることができますが、この地区での適期は教科書にもインターネットにも載っていないんです。だから、道の駅に野菜を出荷しにくる農家の先輩方や、隣のおばあちゃんなどに何度も聞いて、失敗を繰り返しながら年間の栽培スケジュールを組み立てていきました。地域のみなさんは種をくださったり、『この苗はあるけ?』と聞いてくれたり、とても親切に教えてくれて。みなさんから学んだことも、大切に受け継いでいけたらと思っています」 2012年4月に新規就農してからは、道の駅の直売所で野菜を販売。大日向マルシェやアースデイ那須などに出店するうちに、そこに野菜を買い付けに来ていたレストランのシェフと出会い、だんだんと今のスタイルが形づくられていった。また、オーガニック野菜を求める一般の人とのつながりも広がり、直接「野菜セット」の販売も行っている。このように自分たちならではの農業を追求している二人だが、もちろん壁にぶつかり悩むこともある。 公乃さん:「本当は初夏には梅を漬けたり、冬には大根を漬けたりと、季節に寄り添った暮らしをしたいのですが、畑仕事に追われてなかなか手が回りません。今はまだ『こうなりたい』という暮らしからはかけ離れてしまっているけど、目標を忘れずに現実の問題を一つ一つ解決していきたいです」 洋次さん:「二人で相談して、この夏、はじめて週1日アルバイトの方に来てもらいました。悩んでいても何も始まりません。この那須地域だからこそできる理想の農業と暮らしの両方を実現するために、新たなチャレンジを続けていきたい。そしていつか、自分たちを見て『ここで農業をやってみたい』と思ってくれる仲間が増えていったらいいなと思っています」 那須に移住してもうすぐ6年、二人は今、必死に悩みながら前に進もうとしている。これから那須地域で就農を目ざす人たちのモデルとなるために。

毎日を幸せにするコーヒーを

毎日を幸せにするコーヒーを

秋元健太さん

“町の豆腐屋さん”のような焙煎所を目ざして 「こんにちは! いつものください」(お客さん) 「『黄昏』(豆の商品名)ですね。ありがとうございます!」(秋元さん) 取材中、こんな光景を何度目にしただろう。 「秋元珈琲焙煎所」の扉を開けると、目の前には小さな和室が二つ。向かって左手の和室にはカウンターと小さなキッチンがあり、店主の秋元健太さんは、たいていここで豆を挽いたり、袋詰めしたりと手を動かしている。一方、右手は試飲スペース。コーヒー豆を購入する人は、ここで気になる豆を試し飲みできる。 さて、冒頭の光景について。和室に上がらず、入り口で豆を注文するのは、ほとんどが常連さんだ。注文から数分、世間話をしているうちに袋詰めが終わり、会計を済ませて帰っていく。そんな常連さんを含め、お客さんの多くは地元・大田原の人だという。 「僕はこの焙煎所が、“町の豆腐屋さん”のような存在になったらいいなって思っているんです。桶やボールを持って毎日豆腐を買いにいくように、『いつものを!』って来ていただけるお店に」 コーヒー貧乏になるくらい、飲んでいました(笑) 秋元さんがコーヒーやカフェに興味を持ったのは、高校の頃のこと。試験勉強などで夜中まで起きていたとき、眠気覚ましにコーヒーをよく飲んでいたそう。そのうちにコーヒーのおいしさにも目覚め、「大学にいったらカフェで働きたい」と思うようになった。 埼玉県にある大学に進学し、たまたま働き始めたのが所沢にあった「カフェセボール」(現在閉店)。ファーストフード店でありながら、店内で自家焙煎を行い、豆も販売していた。 「ここのコーヒーが本当においしくて。バイトしたお金で豆を買っては、家でドリップして飲んでいました。もう、コーヒー貧乏になるくらい熱中していましたね(笑)。『いつか自分のお店を開きたい』と思ったのもこの頃です」 カフェセボールでは約2年間働き、接客の基本やドリップの仕方などいろんなことを学んだ。なぜ、セボールのコーヒーがそれほどおいしかったのか? 数年後に理由が判明するのだが、その話はまた後ほど。 大学を卒業後、親を安心させたいという思いから、秋元さんは地元の金融機関に就職する。しかし、カフェを開きたいという思いはどうしても消えず、強まる一方だった。約3年間勤めたのち、「これからはコーヒーの道で生きていく」と決意し退職。カフェや自家焙煎珈琲店を巡る旅へと向かった。 自家焙煎珈琲店で修業。本当においしいコーヒーを届けるために 「とにかくおいしいコーヒーを飲みたい!」「素敵なカフェに行きたい! 体感したい!」と、車中泊しながらカフェを巡り、遠くは福岡まで出かけた。じつはこの旅には、今後カフェの道に進むか、それとも自家焙煎の道を選ぶのかを見極める狙いもあった。 「カフェを巡るなかで、どんなに内装や雰囲気が素敵でも、コーヒーが好みじゃないとちょっと残念な気持ちになることがあって。『何よりもコーヒーがおいしいことが大切なんだ』と気づいたんです」 貯金をはたいてカフェを巡り、残高が1万円になった頃、豆や焙煎について学びたいと門を叩いたのが、自家焙煎珈琲の専門店「那須の珈琲工房」だ。見習いとして秋元さんを受け入れてくれた店主は、この道45年。ブレンダ―として、大手の缶コーヒーメーカーの味を設計する仕事も手がけてきた。 「あとで分かったのですが、大学時代に働いていたカフェセボールのコーヒーも、師匠がブレンドしたものだったんです。多くの偶然が重なり門を叩いた『那須の珈琲工房』を手がける師匠が、セボールも担当していたと知って縁を感じるとともに、すごく嬉しかった。自分の舌は間違っていなかったんだって」 2年間の修業期間中、秋元さんは多くのことを吸収した。 「なかでも、『味に妥協しない』という師匠の姿勢は、これからも一生見習っていきたい。師匠は、僕が大田原で自家焙煎所をやっていくためには、何日間営業して、常連さんを何人つけて……といった具体的な戦略まで、一緒に考えてくれました。今、こうしてお店ができているのも、本当に師匠のおかげなんです」 地域の仲間とともに面白いことを、楽しみながら お店を開く場所として大田原を選んだのは、「やっぱり地元が好きだったから」と秋元さん。くわえて、曽祖父母が暮らした平屋が大好きだったこと、栃木県内には魅力的なカフェや焙煎所が多く、日常の中にコーヒーを楽しむ文化が根づき始めていることも大きな理由となった。 平屋を大切に受け継ぎ、「秋元珈琲焙煎所」を開いたのは2014年9月のこと。準備したのは焙煎機とミルとちゃぶ台2台だけといってもいいほど、必要最低限でのスタートだった。 「準備はいくらしても完璧はないので、それならとりあえず始めてしまうこと、動き出してから流れのなかで考えることも大切だと思うんです。うちの場合は、お店が軌道に乗り始めてから必要なものをそろえていきました」 営業日は、水曜から土曜の週4日。午前中に焙煎を行い、13時から18時までお店を開く。日曜はほぼ毎週、イベントに出店。月・火曜の定休日を焙煎にあてることもある。週に5日間ほど、少量ずつ焙煎するのは、焼きたての新鮮な豆を届けたいからだ。 「もう一つの理由は、少量の豆を長時間焼くことで、芯までじっくり火を通すことができるからです。焙煎で何よりも大切にしているのは“自分の感覚”。日によって気温や湿度も違えば、素材や自分の状態も変わってきます。その中で、データには出ない微妙な違いを見極められるのは、自分の感覚だけ。言葉で説明するのは難しいですが、最適な焼き具合になると、豆が“キラキラ”“コロン”として見えるんです。素材に耳を傾け、美しい瞬間を見逃さないように心がけています」 取材当日、昨年本サイトで紹介した「色実茶寮」の磯部なおみさんが、茂木町から多くの焼菓子を携え、秋元珈琲焙煎所に出店していた。ほかにも秋元さんは、大田原で長年藍染を手がける「紺屋」を若くして継いだ小沼雄大さんと、ドリップ教室と染物教室をセットで開いたり、手づくりスコーンや焼菓子の人気店「ぎんのふえ」の寺田尚子さんと一緒にイベントに出店したり、地域の仲間との輪を広げている。また、今年9月22日には、計20組の飲食店や作り手が参加した「第二回 田舎ノ露店市」が、秋元珈琲焙煎所で開催された。 「魅力的なお店や人たちが連携して、おいしいもの、いいものを届けていくことで、結果的に地域が元気になっていったら嬉しいですね。僕はこれからも味に妥協することなく、本当においしいコーヒーを提供していきたい。それで少しでも、地域のみなさんの日常に幸せを届けられたらと願っています」

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

宮本 吾一さん

魅力的な人が集う、那須という街にひかれて 「Chusという店名は、那須五山のひとつ“茶臼岳”から名づけました。ふだん那須の山々を眺めながら暮らす人たちが気軽に集まり、人と人がつながって、みんなで街をおもしろくしていけるような、そんな場所にしていきたいと思って」 そう話すのは、Chus代表の宮本吾一さん。 Chusは、まさに「マルシェ(直売所)」と「ダイニング」が一体となった場所。約200坪の広々とした店内の手前には、那須の農家の人たちが育てたおいしい食材とともに、宮本さんが生産者に会って直接仕入れた全国各地の食材も並べられている。その理由は、ここで一度にいろいろな食材を購入できたほうが、那須の食材を食べてもらえる機会が増えると考えたから。食材と食材の出会いも楽しんでほしいという。一方、店内の奥はカフェスペース。Chusに並ぶ食材を使った料理が楽しめる。 東京で生まれ育った宮本さんは、20歳のときワーキング・ホリデーでオーストラリアへ。1年間、自然が身近な環境で暮らしたことをきっかけに、帰国後も田舎で暮らしたいと考えるようになった。そのとき、たまたま見つけたのが那須のリゾートバイト。それから3年間、観光シーズンは那須で働き、残りの期間は海外や国内を旅してまわった。 「はじめは、那須に住み続けようとは思っていませんでした。けれど、ここで過ごすうちに、いろいろな人と出会い、那須にはおもしろい人がたくさんいることを知ったんです。例えば、黒磯のSHOZO COFFEEや、森の中にある納屋を改装したバーなど、センスあふれるお店を営む魅力的な人が多くて。こんな生き方ができるんだ、自分もまだ誰も手がけたことがないお店を、那須で始めてみたいと思ったんです」 地元の農家とつながるために、マルシェを まずはリヤカーを改造した屋台で、コーヒー屋台を始めた宮本さん。その2年後に、オープンしたのが「Hamburger Cafe UNICO」だ。 「お店の場所からは、那須の美しい山々が一望できて、目線を上げて景色を眺めながら食べてもらえるものをと考え抜き、ハンバーガーにいきつきました。当時、ハンバーガーはファストフードの代名詞。だからこそ、あえてスローフードと手づくりを大切にした、那須の食材をまるごと味わえるようなハンバーガーを提供しようと思ったんです」 けれど、地元の食材だけで、つくり続けるのは難しかった。 「冬場には、どうしても地元の野菜が少なくなってしまう。那須でカフェやレストランを営む仲間に聞いてみたら、みんな同じ悩みを抱えていました。なんとか、農家の方にお願いして野菜をつくってもえないか。そのためには、何よりも農家と“つながること”が大切だと思ったんです」 “つながる”ための手段として、宮本さんは「マルシェ」を開くことを決意。那須の農家に5軒、10軒と電話をかけ続けるうちに、1軒の農家が協力してくれることに。その方に会いにいくと、マルシェの趣旨に共感し、いろいろな生産者を紹介してくれた。こうして10台の軽トラが並ぶマルシェを、2010年に初めて開催することができた。 「来場者は数百人ほどでしたが、お客さんも農家の方もとても喜んでくれて、笑顔で会話をするシーンが会場のいたるところで見らました。直接、顔と顔を合わせてつながることの大切さを、改めて実感したんです」 「マルシェを毎日開催してほしい」。その声がChusのはじまり それからもマルシェの開催を続けていくと、那須で設計事務所や不動産屋、牧場、味噌屋、カフェを営む人など、協力してくれる人が増えていった。そして7人のメンバーが集まり、2012年にマルシェは「那・須・朝・市」にバージョンアップ。現在は春と秋の2回開催され、毎回5000人が訪れるイベントに。お客さんからは「毎日開催してほしい」という声が多く寄せられるようになった。 「とてもありがたいことですが、メンバー全員が他に仕事をしながらボランティアで参加していて、毎週集まって準備を重ねても、半年に1回開催するのがやっとなんです。でも、諦めたくなかった。毎日開催すれば、人と人のつながりがどんどん広がり、街が面白くなっていく。どうしたら実現できるか?お店にするしかないと思ったんです」 ちょうどタイミングよく、もと家具屋だったこの物件が見つかった。こうして「那・須・朝・市」の7人のメンバーが共同運営するChusが、2015年1月にオープンした。 誰もが参加できる「公民館」のような場所に Chusは、一言で表現するなら、マルシェをそのままお店にしたような場所だ。 「マルシェの魅力はいろいろなお店が集まり、人と人、人とモノがつながる機会があふれているところ。同じようにChusも、多くの人が参加できる場所にしていきたい。一応、僕が代表ですが、Chusは僕のものでも、7人のメンバーのものでもありません。那須連山のふもとに暮らす人はもちろん、県外の人も、誰もが参加することができる。そんなマルシェの会場のような、公民館のような場所をつくることを、僕たちは目指しています」 例えば、毎週木曜日は、イベントを開催したい人のためにお店を開放。イタリアンや中華のディナー会、音楽ライブ、映画上映会など、オープンから1年足らずで50件以上イベントが開催されている。 「これまでにマルシェを開催し、Chusをオープンしてきましたが、行政からの補助金などは一切もらっていません。ただ自分たちが面白いから続けているだけなんです。楽しんでやっているからこそ、人の輪が広がっていく。それは結局、自分にとってもプラスになると思うんです。それに、マルシェやChusによって街が面白くなっていけば、自分のライフスタイルも充実していきます。 多くの人にChusに参加してもらうことで、Chusや那須の街を“自分の居場所”だと思ってくれる人を増やしていきたい。そして、一人でも多くの人が、自分の居場所を良くしようと一歩を踏み出してくれたら嬉しい」 2011年に震災が起こったとき、宮本さんは自宅の建設を計画中だった。観光客は激減し、お店を続けられないのではと不安になることもあったが、宮本さんは計画を変更せず、那須に自宅を建てることを決意。現在、家族3人で暮らしている。 ここが自分の居場所だと決めた宮本さんは、これからもChusから、街を面白くする様々な試みを発信してくれるに違いない。

那須に新たなスペクタクルを

那須に新たなスペクタクルを

鈴木 和也さん

那須の美しい自然にいざなわれて 那須どうぶつ王国に隣接する牧場からは、緑豊かな森や田畑に抱かれた那須の街並みを見渡すことができる。振り返れば、那須岳の雄大な山並み。今から28年前、この美しい自然に魅せられた一人の男性がいた。 「那須高原を訪れたのは、ちょうど5月の終わりごろ。360度見渡すかぎりの新緑がまぶしくて。日本にこんなに美しい場所があったんだ! ここで仕事がしたい! と強く思ったんです」 その男性の名は、鈴木和也さん。当時、東京のホテルチェーンに入社したばかりだった鈴木さんは、リゾート開発プロジェクトの視察で役員の運転手として那須高原を訪れた。それからというもの「現地でプロジェクトに携わりたい!」と、何度も上司に直談判。2年を経て思いは受け入れられ、鈴木さんは那須町に移り住んだ。事業立ち上げのために最初に取りかかったのは、地元の人たちとの交渉だ。 「地元の人たちと飲みに行って、膝を突き合わせてお話する機会がたくさんありました。みなさん、とても温かくて。当時、独身だったぼくにゴハンを差し入れてくれるなど、本当によくしてくれました。那須には四季折々の美しい自然、おいしい食材、何よりも魅力的な人がたくさんいる。ぼくはそんな那須の魅力をいかした、地域に密着した施設をつくりたいと思ったんです。首都圏から訪れる人だけではなく、地元の人にも愛される動物園を」 那須の食材100%!地元のおいしさが詰まった「なすべん」 「那須どうぶつ王国」がオープンしてからも、鈴木さんは観光協会の理事を務めるなど、地域活性化の活動に積極的に取り組んできた。そんな活動のなかから誕生したのが、「なすべん」の愛称で親しまれる「那須の内弁当」だ。 「それまで『那須どうぶつ王国』で提供していた料理は、ありきたりなものばかりで。なんとかメニューを充実させたかったんです」 鈴木さんは、地元農家や酪農家、飲食店を営む人たちと協力し、2006年に「なすとらん倶楽部」を結成。那須の看板メニューを生み出すべく、話し合いを重ねた。また、地元野菜を料理に活かすために、JAにも直談判を行った。 「那須町は農業がとても盛んで、『白美人ねぎ』『美なす(ビーナス)』などのブランド野菜がたくさんあります。けれど当時は、それらの野菜はすべて首都圏に出荷されていて、地元では流通していませんでした。そこで、JAさんにお願いに行き、戻り際何度も足を運ぶうちに、気骨ある職員の方が協力してくれるようになって、ブランド野菜の入手が可能になりました。こうして2010年に『なすべん』が誕生したんです」 現在では、「那須どうぶつ王国」を含む9店舗が、これらの地元食材を活かしたオリジナルメニューを提供している。2015年には「なすべん」の地産地消の取り組みが評価され、「農水省食料産業局長表彰」を受賞した。 大切なのは、自分の言葉で発信すること その後も鈴木さんは、那須の広大な自然のなかで若手アーティストの作品を発表するアートイベント「スペクタクル・イン・ザ・ファーム」を開催するなど、那須の魅力を積極的に発信してきた。その「発信すること」の大切さを気づかせてくれたのは、うれしい偶然の出会いだったという。 「たまたま那須にあるホテルで早稲田大学の中村好男教授にお会いして、それがきっかけで早稲田大学のスポーツ科学学術院で、ぼくたちの那須での取り組みについてお話させていただくことになったんです。そのプレゼンの後の懇親会で、中村先生から『那須の魅力を活かす鈴木さんの取り組みは、『那須だけではなく、日本のためにもなることだと思いますよ』と言っていただいて」 その言葉をきっかけに、鈴木さんはこれからの自分の使命に気付いたという。 「地域を活性化していくためには、自分の住んでいる街を愛し、地域の魅力を徹底的に掘り下げることが重要。けれど、それだけでは十分とは言えない。大切なのは『自分の言葉で積極的に発信すること』『そして他地域と連携して輪を広げていくこと』だと、中村先生は気づかせてくれたんです」 地域への熱い思いが実現した、数々の奇跡 これまでの取り組みにより、来場者が順調に増えていたちょうどそのころ、東日本大震災が発生した。那須町への観光客は激減し、那須どうぶつ王国でも、スタッフを自宅待機させなければならない状況となった。 「それでも、きっと何かできることがあるはずだと考え抜き至った結論は、やはり『自分の言葉で発信すること』でした。そこで那須町観光協会の支援も頂き、震災後も那須で頑張る人々の情報を発信するラジオ番組をスタートしたんです。また、那須の有志で「那須元気プロジェクト」を立ち上げ、震災で那須町に避難されて来た皆様への情報提供等も行いました。さらに、那須に事業所を持つ企業が連携して協議会を立ち上げ、那須を盛り上げるさまざまな活動を、一緒になって行ってくれるようになったんです」 鈴木さんをはじめ有志が集まり、震災前から準備を進めてきたサイクルイベント「那須高原ロングライド」を初めて開催したのも2011年のことだ。 「震災後のイベント自粛ムードのなか、『誰も参加してくれないのでは』という声もありました。でも、こんなときだからこそやらなければいけないと、あえてリスク承知の上で開催すると、なんと800人以上もの人が参加。首都圏からも多くの人が来てくれました。みなさんからの『頑張ってください!』『応援していますよ!』という温かい言葉がうれしくて、うれしくて。涙があふれてきました」 このイベントから活動が広がり、翌年にはプロチームの「那須ブラーゼン」が誕生。2014年には、所属選手が全日本チャンピオンとなった。「那須ブラーゼン」は観光客や子ども向けのイベントも開催し、町を盛り上げている。また、ブラーゼンがモデルの地域密着のテレビドラマが全国放送されるなど全国にもその輪が広がっている。 これからも、新たなスペクタクルを ラジオ番組をはじめたころから、鈴木さんは「スペクタクル鈴木」というサブネームを使い始めた。アートイベントの名前にも使われた“スペクタクル”という言葉には、人と人との交流を通し、場に大きな化学変化が起きることで、そこに感動が生まれる、「まさに奇跡的な瞬間」という意味が込められている。 「自分の言葉で積極的に発信しはじめてから、活動に興味を持ってくれる人、応援してくれる人のつながりがどんどん広がり、奇跡のような出来事がたくさん起こりました。栃木県内には、地域の魅力をいかし自分たちで楽しみながら、スペクタクルを起こしている人がたくさんいます。そんな奇跡的な瞬間を目にした若い人たちが、さらに自分の街で新たな取り組みを始めようとしています。これからも、他地域の魅力的な人たちと連携しながら、自転車ロードレースの国際イベントや那須を舞台にした映画など、新たなスペクタクルを巻き起こしていきたいですね」

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