interview

20代

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自分を救ってくれた<br />「心のふるさと」を<br />たくさんの人に届けたい

自分を救ってくれた「心のふるさと」をたくさんの人に届けたい

吉田 夏希(よしだ なつき)さん

苦しい状況の先に見つけた 地方移住という選択肢 コロナ禍という厳しい時期に就職した吉田さん。横浜市の実家から都内に通勤し、化粧品研究開発の仕事に携わっていたが、会社の業績悪化により転職を余儀なくされた。神奈川県内の化粧品研究開発会社に転職したものの、そこでも厳しい現実が待っていた。 「とても忙しい会社で、朝早くから終電近くまで働く毎日でした。所属するグループ内で休職者が出たり、私自身も周りからの当たりが強くなるのを感じたりして、心がすり減っていくようでした。泣きながら仕事することもあって…。不登校になったことはありませんでしたが、会社に行けなくなる日もありました」 そう語る吉田さん。これらの経験から、組織に対する恐怖感を抱くようになっていった。 「このままの状況が続けば、自分を失ってしまいそうで怖かったです」 人生を変えるきっかけは、友人の何気ない一言だった。 「近くにいた友人が『田舎で野菜でも始めようかな』と言っていて。それを聞いた瞬間、『あ、それだ!』と思いました」 もともと旅行が好きで、自然に親しむことが好きだった吉田さん。現状を一新するのにぴったりだと考え、地方への移住を検討し始めた。 移住相談をするため、移住・交流推進機構が運営する移住・交流情報ガーデンへ。移住をしたい、でも会社勤めは怖い…。そんな思いを正直に伝えたところ、紹介されたのが地域おこし協力隊だ。自分でもインターネットで情報を集め、栃木県・静岡県・高知県に候補地を絞った。日本全国の移住相談窓口を抱えるふるさと回帰支援センターでさらに詳しい話を聞き、実際に栃木県那珂川町と静岡県島田市を訪問した。 「那珂川町の、自然が豊かでゆったりとした時間が流れているところに魅力を感じました。初対面の方も、とても温かく包み込んでくれるような雰囲気で…。ゆっくりゆっくりと商店街を車で走るおじいちゃんを見てほっこりしつつ、車の運転が得意ではない自分でも暮らしていけそうだと思えました」 那珂川町の協力隊の募集要項を見て、生活面でも安心できる内容だったことも決め手となった。さらに、幼い頃から大好きだった絵本作家・いわむらかずお先生の美術館があることも、縁を感じる理由のひとつとなった。 「島田市も魅力的でしたが、私が求めていたのは那珂川町のような田舎だと、実際に訪問して気づいたのです。人の優しさ、温かさ、そして思い出の絵本とのつながり…。これらすべてが決め手となり、那珂川町に移住しようと決めました」 心身ともに元気になれた「人間らしい生活」 都会の喧騒から離れ、自然に囲まれた那珂川町での新たな日々が始まった。朝起きれば鳥のさえずりが聞こえ、川の横を歩けばせせらぎが耳に届く。 「景色の移り変わりが肌で感じられて、常に自然と一体になっているような感覚です。ずっと旅行をしているような、毎日が新鮮で特別な時間です」 地域の人々との交流も、吉田さんの生活に彩りを添えている。 「ご高齢の方が多くて、まるで孫のように可愛がってくれます。お米ができたからと呼ばれて行くと、次々とおかずが出てきて…。ドラマのワンシーンのような光景が現実になって驚きました。人とすれ違えば必ず挨拶を交わしますし、本当に人の温かさを感じるまちです」 地元の野菜や温泉も、暮らしを豊かにしてくれる魅力のひとつだ。 「野菜が驚くほど新鮮で美味しくて。温泉は500円程度で入れます。日常的に温泉を楽しめるなんて贅沢ですよね。興味を持って、昨年、温泉ソムリエの資格も取得しました」 那珂川町の馬頭温泉郷は「美人の湯」として知られ、温泉から見える美しい夕日から「夕焼け温泉郷」の愛称も持つ。 都会的な横浜市からの移住ということもあり、不便さを心配していた吉田さんだが、そんな不安は杞憂に終わった。 「確かに那珂川町に大型ショッピングモールはありませんが、宇都宮駅周辺や那須のアウトレットにも1時間程度で行けます。むしろ今は、消費に縛られない自由な生活ができるようになりました。『ないものは作る』という地元の方の考え方にも刺激を受けています」 自然とともに生きて、旬の味覚を楽しみ、人とつながる。那珂川町での暮らしは、吉田さんが求めていた「人間らしい生活」そのものだった。 「移住前は精神的に辛い状況でしたが、移住当時を知る周りの人からも『元気になったね』と言われます」 2023年4月の移住から約1年半。移住前、苦しい状況の中で自分を見失いそうだった吉田さんの表情は、今、生き生きと輝いている。 気づけば、自然とやるべきことが明確に 吉田さんの地域おこし協力隊としての主な活動は、那珂川町観光協会のサポートだ。物販に同行したり、ツアーに参加したりしながら、那珂川町の魅力を発信している。 「言いづらいのですが…『まちおこしに取り組みたい!』と思って協力隊を志望したわけではなかったので、はじめは何をすればいいのだろう、特別なスキルのない自分に何ができるのだろうと悩みました。でも、観光協会から指示をいただいた内容に取り組んだり、まちの方と触れ合ったりするうちに、那珂川町の良さを伝えたいという気持ちが芽生えてきました」 関東随一の清流・那珂川と緑あふれる里山、四季の恵みがもたらす豊かな食、日常に溶け込む温泉、多数の美術館や史跡…。移住してきたからこそ、そして、協力隊として活動しているからこそ分かる那珂川町の魅力がたくさんある。そんな良さをまちの中からじんわりと広げていきたいと吉田さんは考えている。 昨年には温泉ソムリエの資格を取得し、温泉を通じてまちの魅力を伝える活動を始めた。また、味噌づくり教室など、まちの人と外の人をつなぐイベントも企画している。 「地域柄、謙虚な方が多いのか、『那珂川町のいいところはそんなにないよね』という方が多いんです。まずは地元の方に那珂川町の良さを知ってもらい、そこから口コミで広がればいいなと思っています」 そう語る吉田さんは、那珂川町の「人の良さ」をアピールすることに力を入れている。 「私が一番アピールしたいのは『人の良さ』。那珂川町を知ってもらって、好きになってもらって、訪れた人にとって、どこかほっとできる『心のふるさと』になってほしいですね」 協力隊の活動を通じて、地元の人々との深いつながりも生まれた。 「日常的にメールをくれたり、ランチに誘ってくれたり。何か活動を始めるとなったら、アドバイスをくれたり。本当の孫のように可愛がってもらっています。そんな皆さんと関わるうちに、このまちのために何かしたいという気持ちが強くなってきました」 自分は何がしたいのだろう。自分に一体何ができるのだろう。 自分の進むべき道が見えずにいた吉田さんだったが、協力隊として那珂川町に入り、まちの方の温かさに触れるうちに、徐々に自分の役割が見えてきた。 那珂川町の観光や地域活性化に貢献しながら、吉田さん自身も成長を続けている。 いろんな生き方があっていいのだと示したい 地域おこし協力隊として活動する中で、吉田さんの今後の活動目標が明確になってきた。 「都会から移住してきた自分だからこそ分かる那珂川町の良さがあると思っています。私ならではの視点やアプローチで、那珂川町をPRしていきたいです」 そう語る吉田さんには、強い決意が感じられた。 「泣きながら仕事をするほど気持ちが落ち込んでいる状態で那珂川町に移住してきて、しかも、積極的にまちおこしに取り組みたいと思って地域おこし協力隊になったわけでもありません。でも、今こうして、今後の目標を自ら立てて前向きに取り組めるほどに成長できました。まちの方々との触れ合いを通じて、まちおこしにも情熱を感じるようになりました」 吉田さんは、協力隊の任期終了後も、那珂川町に残ることを決めている。起業も視野に入れているそうだ。 「那珂川町で培った人とのつながりを活かして、都会で働く方が癒しを感じられるようなツアーを企画したいと考えています。まちの方の温かさに触れて、那珂川町を『心のふるさと』として感じてもらえるような、そんなツアーです」 この構想を地元の人に話すと、「いいね」「協力するよ」と言ってもらえるそうだ。 そう、いつだって温かく支えてくれる人がいる。 自分には特別なスキルがない…。自分にできることはあるのか…。移住当初、そう悩んでいた吉田さんが起業を目指すようになったのは、大きな気持ちの変化だった。 起業する周囲の協力隊や自営業のまちの方と接するうちに、自然と起業に対する考え方が変わっていったという。 「私のように、まちおこしが入口でなくても、苦しい状況からスタートしても、協力隊として活動しているうちに目標を見つけることもあります。そういった生き方があってもいいのだと思います。そんな道筋を示すことで、私と同じように悩んでいる人たちの選択肢が広がるとうれしいです」 吉田さんの言葉には、那珂川町への愛と、今後への期待で満ち溢れていた。 これからの活動が、さらに那珂川町を、そして吉田さん自身を輝かせていくことだろう。

Uターン起業で挑む、 <br>小さなまちの大いなる可能性<br>を引き出すまちづくり

Uターン起業で挑む、 小さなまちの大いなる可能性を引き出すまちづくり

高塚 桂太(こうつか けいた)さん

世界を見た末に選んだ、人口1万人のまち バックパッカーとして世界中を旅し、フィリピンへの1年間の交換留学を経験するなど、大学在学中、精力的に活動していた高塚さん。外務省管轄の独立行政法人に内定し、卒業後はタイで日本語教育の普及に携わる予定だった。 そんな矢先、世界中を新型コロナウイルスのパンデミックが襲う。国内待機が言い渡された高塚さんは、卒業後、東京のゲストハウスで働きながら渡航を待つことに。だが、一向に目途が立たない……。先の見えない日々の中で、高塚さんは自身のキャリアを見つめ直した。 「これからどうしていきたいのか、何をしたいのか。考えた末に、地元である塩谷町に戻ろうと決意しました」 内定を辞退し、Uターンを決めた高塚さん。その背中を押したのは、地元の幼馴染や応援してくれる地域の大人たちだった。 「大学時代からローカルスタートアップに興味があって、地域への感度は高かったんです。幼馴染たちと『何か面白いことができないか』と話し合い、イベントを企画したり地元の人たちとつながったりできるようなコミュニティスペースをつくろうというアイデアが生まれました」 栃木県塩谷町。人口約1万人の、県内でもっとも人口の少ない小さなまちだ。世界を見てきた高塚さんが、このまちを選んだ理由とは。 「この規模感だからこそ、できることがたくさんあると思いました。自分が表現したいこと、やりたいことが実現できる場所だと」 小さなまちだからこそ、自分たちの手でゼロから何かを生み出せる。その可能性に魅力を感じた高塚さんは、新たな挑戦への第一歩を踏み出した。 サウナから始まる、まちづくりの物語 Uターン後、高塚さんは早速、コミュニティスペースづくりに取り組み始めた。しかし、右も左もさっぱり分からない。それでも、夢やビジョンを伝え続けることは忘れなかった。 「ある日、コミュニティスペースづくりの進め方について地元の事業者さんに相談すると、『資材やお金は全部用意するから、君は仲間だけ集めてくればいい。任せなさい』と言ってもらえて。その後も、私のビジョンに共感する方が集まり、気づけば100名近い方が関わってくださいました」 こうして誕生したのが、コミュニティスペース「Step One」だ。ここを拠点に、高塚さんたちの活動は大きく広がっていく。 「塩谷町を面白くするための『地域会議』を開いたり、『朝サウナ』を実施したり。朝サウナはまさに裸の付き合い。朝6時に河原に集合して、サウナでまちの未来について語り合うんです」 朝サウナには、地元の若者のほか、役場の課長クラスの方たちも集まった。ここから生まれたアイデアは、次々と実現していく。 「町営キャンプ場を貸し切ってサウナフェスを開催したり、さまざまなプロジェクトが生まれました。サウナで語った想いに共感してくれた人たちが、今は当法人の役員になって日々の業務を支えてくれています」 高塚さんは、自分の想いや迷いすらも正直に伝えることで、周囲の支援を得てきた。 「分からないことや困っていることは、言葉にして伝えるように心がけています。ビジョンは描いているけれど、そこに至る道が見えない。そう正直に伝えると、多くの方が助けてくれます」 高塚さんの熱い想いが大きなうねりとなり、小さな塩谷町でのまちづくりが動き出していった。 設立間もなく、塩谷町の地域活性化を担う存在に コミュニティスペース「Step One」で実績を重ねた高塚さんは、2023年4月にまちづくり会社「ローカルキャンバス」を設立した。主な事業は、塩谷町役場からの地域活性化に関する受託業務だ。地域おこし協力隊の伴走支援や関係人口の創出、高校生の地域定着促進に関する事業などを展開している。 「『朝サウナ』で築いた人間関係が、今の事業にもつながっています。振り返ってみても、ビジョンを伝え続けることの大切さを実感しますね」 高塚さんの学びへの姿勢は貪欲だ。全国各地の地域創生の現場を巡り、さまざまな事例やノウハウを吸収してきた。 「イベントの収益を握りしめて、多くの市町村を訪れました。現地のトッププレーヤーに会って話を聞いたり、人脈を広げたりという経験が今の仕事の糧になっています」 ビジョンの発信、積み重ねた実績、そして現場で得た確かな知識。これらが、ローカルキャンバス設立からわずか1年足らずで、想いを形にする原動力となっている。 高塚さんが現在、特に注力しているのが地域おこし協力隊の伴走支援だ。 「『チャレンジできるまちづくり』が、私たちローカルキャンバスの使命です。新しいことを始めるには、時に苦しくとも走り続けなければならないこともあります。そんな時もともに走り続け、安心して挑戦できる環境を整えることで、新たな取り組みを促進していきたいと考えています」 ローカルキャンバスは、高校生向けの郷土愛育成プログラムにも取り組む。 「子どもたちが普段関わるのは、たいてい親か学校の中の人だけですよね。でも、地域には魅力的な大人や、自分の想いを表現している事業者さんがたくさんいます。そういう方たちとの出会いの場を設けることで、子どもたちの視野を広げていきたいです。子どもは大人の背中を見て育つものだと思っているので、地域の大人たちがワクワクしながら仕事をしている姿を見て欲しいですね」 高塚さんの活動は、塩谷町に新しい風を送り込んでいる。挑戦する人を増やし、地域全体で新たな取り組みを推進する。そんな高塚さんの想いが、確実に実現化しつつある。 小さなまちで見つけた大きな可能性 Uターンした高塚さんにとって、塩谷町の見え方はどのように変化したのだろう。 「子どもの頃は正直、『何もない』と感じていました。でも大人になった今は『余白がある』と捉え直せています」 この「余白」こそが、クリエイティブな活動の源泉になっているという。東京では常にサービスを受ける側だったが、ないものが多い塩谷町では、自分たちで作り出す必要がある。そこに楽しさがある。人口約1万人の小さなまちに、高塚さんは無限の可能性を見い出している。 「完成されていないからこそ、自分が関わる余地があります。それが塩谷町の最大の魅力だと思います」 人とのつながりも、塩谷町ならではの魅力だという。 「顔を合わせれば自然と挨拶ができたり、突然焚き火の誘いが来たり(笑)人との温かいつながりが豊かな暮らしを形成しています」 さまざまな年齢層の方と交流できることも、大きな特徴だ。 「都会ではどうしても同世代の人たちだけと関わりがちですが、私が塩谷町で日々関わるのは、小学生に30代のママ、40代のイケオジ、60代の人生の大先輩と、本当に幅広い年齢層の方たちです。多様なコミュニティとのつながりが、自己表現の幅を広げてくれています」 都会と比較すると塩谷町には「完成されたもの」は少ないかもしれない。しかし、何でも「創り出せる環境」がある。自分で何かを生み出したい、新しいことに挑戦したい人には最適な環境だといえるだろう。 塩谷町を「チャレンジできるまち」へ 今や塩谷町の未来をリードする高塚さん。Uターンして良かったと感じる点を尋ねると、即座に答えが返ってきた。 「大切な仲間ができたことですね。切磋琢磨しながらともにプロジェクトを進める仲間、わいわいとプライベートを楽しめる仲間、辛い時に支えてくれる仲間……。仲間と過ごす一瞬一瞬がとても楽しくて温かくて、彼らとの出会いは私にとってかけがえのない財産になっています」 素晴らしい仲間に囲まれる高塚さんが思う、仲間づくりの秘訣は、弱みをさらけ出すことだという。ビジョンを発信することはもちろん大切だが、かっこつけず、ありのままの自分を表現することで、頼れる仲間ができる。 塩谷町を舞台に、挑戦を続ける高塚さんの今後の抱負は―。 「塩谷町をチャレンジできるまちにすることです。地域おこし協力隊や移住者など、新しいことを始めようとしている方たちの背中を押し、支援していきたいです。塩谷町には、温かさがある一方で田舎ならではの厳しさもあります。困難に直面しても、何としてでも前に進む。その覚悟を持って、地域と共に成長していきたいですね」 最後に、塩谷町の可能性について語ってくれた。 「塩谷町は栃木県で一番人口の少ないまちです。小さなまちだからこそ、アイデア次第でどうにでもできる。支えてくれる仲間もたくさんいる。塩谷町は表現の場として最高の環境です。この環境を活かして、塩谷町をもっと面白いまちにしていきたいです」 高塚さんの挑戦はまだ始まったばかり。情熱と行動力で塩谷町に新たな風を吹き込む彼の描く未来図が、この小さなまちをどう変えていくのか。高塚さんの活動とともに、塩谷町の変化にも注目が集まりそうだ。

「地域おこし協力隊」という</br>選択肢で、人生の目標へ

「地域おこし協力隊」という選択肢で、人生の目標へ

武田 真悠香(たけだ まゆか)さん

自然と「住みたいな」と思っていた 京都府出身で、千葉県内の大学に進学した武田さん。 一見、栃木県とはなんの縁もなさそうな武田さんが那須烏山市に移住することになったのは、大学在学中に始めた長期アルバイトがきっかけだった。 那須烏山市にある、龍門の滝。高さ約20m、幅約65mの大滝で、滝の上を走るJR烏山線の列車と四季折々の絶景の共演が楽しめる人気スポットだ。 龍門の滝のすぐそばにある「龍門ふるさと民芸館」に勤める知人から誘いがあり、当時大学生だった武田さんは、龍門ふるさと民芸館内にある「龍門カフェ」のアルバイトとして働き始めた。 繁忙期に1〜2週間程度、住み込みで働く長期アルバイト。 知人がいたとはいうものの、実際に那須烏山市を訪れたのは、このときが初めてだった。 初めての土地で住み込みバイトを始める武田さんには行動力を感じられずにはいられないが、 何より驚いたのは、2、3回のアルバイトののち、既に那須烏山市への移住を考え始めていたことだ。 「最初のアルバイトのときから、地域の方にとてもよくしていただいて、『すごくあたたかくて、いい地域だな』と思っていたんです。 そんななかで、2、3回目の長期アルバイトに来たときに『那須烏山市で地域おこし協力隊を募集しているから応募してみない?』と声を掛けていただいて、あっという間に移住を決めていました」 移住へと武田さんの背中を押した、地域の方のあたたかさに触れたエピソードがふたつある。 まずひとつめ。 年季の入った中古車で、千葉県から那須烏山市まで片道3時間半の道のりを通っていた武田さん。 トラブルが起きたのは、長期アルバイトの最終日のことだった。ガタが来たのか、車が動かなくなってしまったのだ。 すでに夜の18時。アルバイト先の方も帰宅していたため、観光協会の職員さんに電話をしたところ、「私から地元の電気屋さんに電話してみるよ」という心強い言葉が。 5分ほどで電気屋さんが駆けつけてくれて、無事直してもらうことができた。 「都会だったら、『自分でなんとかしなさい』とか『車屋さんにもっていきなさい』とか言われてもおかしくないじゃないですか。 そんななかで、見ず知らずの私のためにすぐに駆けつけて、親切に助けてくれて、あたたかいなぁと感じました」 ふたつめ。 千葉県で一人暮らしをして、さらにそこから那須烏山市で住み込みバイト。 心細い気持ちもあったが、アルバイト先の方の心配りに救われた。 「どこに泊まっているの?」「ご飯はちゃんと食べられているの?」やさしい言葉の数々に、安心できる「第三のふるさと」が栃木県にできたような気持ちだった。 アルバイトで訪れるまで、那須烏山市はまったく知らない土地だったが、心あたたまる地元の方との触れ合いにも背中を押され、「飛び込んでみるか!」そう心に決めていた。 夢を実現するため、地域おこし協力隊へ 元々、いろんな場所に出かけたり、新しいコミュニティに参加したりすることが好きだった武田さん。 新しい出会いを求めて、企業のセミナーやインターンシップにも積極的に参加してきた。 そんな経験や行動力が、今まさに発揮されている。 大学時代からWeb制作に興味を持ち始めたという武田さんには、将来、Web業界で独立したいという目標がある。 その目標への道筋として武田さんが選んだのが「地域おこし協力隊」だった。 地域おこし協力隊としてシティプロモーションに携わりながら、地域資源を活かしたWeb制作にも取り組める。 やりたいことに近づくため、地域おこし協力隊が最適な選択肢だったのだ。 目標が明確だったので、就職活動も行わなかった。 大学3年生にもなれば、皆が足並みを揃えて就職活動を始める。 何がやりたいのか、何のためにやるのか、それすらも分からないまま、なんとなく右にならえで始めてしまうこともあるだろう。 就職だけが選択肢じゃないんだよ、と武田さんの生き方が改めて教えてくれた。 独立という目標に向けて、武田さんの準備は着々と進んでいる。 まずは、Webデザイン。大学の専攻は経営学だったので、デザインは独学で身につけてきた。 インターンで、アプリ開発に携わっていた経験も活かされている。 今では、担当するシティプロモーション業務以外でも、チラシ制作の依頼などをいただくことがあるそうだ。 デザインだけで終わらせず、その先の見てくれる人のことを考えて、どういうお手伝いができるか、それを真剣に考えながら制作に励んでいる。 武田さんが制作したWebサイトの一例 烏山線 100th https://karasen-100th.studio.site メグロの聖地・那須烏山プロジェクト https://meguro-nasukarasuyama.com/ 地域おこし協力隊の業務は週4日。 昨年からはデジタルマーケティング企業で週2日働きながら、ITマーケティングの勉強も始めた。きっかけは、栃木県庁が開催していたセミナー。講師を務めていた社長にWeb制作に携わっているという話をしたら、「アルバイトとして働かないか」と声を掛けてもらった。 自然と人を引きつける、武田さんの愛嬌や行動力は、地域おこし協力隊として存分に発揮されている。 「できたらいいな」が、まちぐるみの活動へ 地域おこし協力隊としての活動は、シティプロモーションやWeb制作、SNS運用、チラシデザイン、地域イベント企画、関係人口創出にかかる企画まで多岐にわたる。 「移住定住シティプロモーション」というテーマで活動していた際、同世代の地域おこし協力隊メンバーと「那須烏山市に新しい動きを生み出したいね」という話になった。自分たちのやりたいことにチャレンジしながら、那須烏山市のためになるようなことを企画しよう、そう話が進んでいった。 その結果、企画・実施されたのが「真夏の地域留学」という2泊3日の学生インターンプログラムだ。 那須烏山市の魅力を体感してもらうには何ができるか、それぞれが真剣に考えてイベントを企画し、形にしていった。 「真夏の地域留学」のプログラム例 プログラムテーマ:ひ・み・つアートプロジェクト 首都圏の大学生が那須烏山市街地の飲食店を取材し、それぞれの店舗の魅力を紹介するポスター(ひ・み・つアート)を作成。 プログラムテーマ:メグロの聖地 那須烏山 かつて那須烏山市で製造され、かつて東京オリンピックの白バイにも使われた日本最古のバイクメーカー「メグロ」の魅力を伝えるワークショップを実施。 「真夏の地域留学」のほかにも、さまざまなイベントを実施している。 武田さんをはじめ、栃木県内の地域おこし協力隊によって設立された「協力隊NET」のメンバーが中心となって運営した、なかがわ水遊園でのマルシェには、想定を大きく上回る4,000人以上が来場し、大盛況のイベントとなった。 「地域のためになるような、マルシェができたらいいね」同じく県内の地域おこし協力隊と何気なく話していた一言が、来場者4,000人を超える大きなイベントの実現へとつながった。 地域おこし協力隊の活動を通して、地域の方と触れ合う機会も多い。 まちを歩いていると「武田さん、元気?」と声を掛けてもらったり、孫のように可愛がってもらったり。目上の方にお酒を誘っていただけることもある。 インタビューの取材時点で、着任からまだ1年10ヶ月。短期間で驚くほどの、まちへの溶け込みっぷりだった。 「私は、色々なイベントや場所に出て、人と交流することが好きなんです。 地域おこし協力隊として活動していると、夢をもっている方や地域のことが好きな方とご一緒することが多いので、すごく楽しいんですよね」 はにかみながら、キラキラとした目で話す武田さんが印象的だった。 謙虚さをもちながら、内なる情熱を秘めた人。愛嬌があって、周りを自然と取り込む人。 自ら、運や縁を引き込んでいる人なんだろうな、と直感的に理解した。 大好きなまちの魅力を、自分の手で広めたい 地域おこし協力隊になって、もうすぐ2年。すでに多くの経験を積んでいる。 「未熟なところも多いなかで、すごくあたたかく迎えていただき、いろんなことにチャレンジする機会をいただいています。 新卒で就職すると、まずはコツコツと事務的な仕事から始めている友人も多いです。 そんななかで、私は、既に大きなプロジェクトの企画や運営などに携わらせていただいているので、那須烏山市に来て、地域おこし協力隊になって、本当によかったなと思っています」 地域おこし協力隊の任期満了後の展望は…? 「ご縁をいただいた那須烏山市の土地と、つながりをもちながら暮らしていけたらと考えています。 旅行が好きなので、那須烏山市に拠点をもちながら、二拠点生活を送るのも魅力的ですね。将来的には『第二のふるさと』のような場所になればと思います。大切な仲間を連れて帰ってこられる場所にしていきたいです。」 まったく知らないところから、那須烏山市に来て2年と経たないなかで定住を決めるほど、惹きつけられるものは何なのか? 「京都市内に住んでいたこともあるので、都会の便利さも分かります。でも、那須烏山市にはそれとはまったく異なる、素朴なよさがあるんですよね。仕事終わりに見る家の前の田園風景など、ほっとする瞬間が一日に何度もあります。実家のある京都に帰ると、帰省しているはずなのに、なぜか『帰りたいな』と思っている自分がいるんです(笑)」 任期満了後は、那須烏山市に拠点を置きながら、Web制作を通じたプロモーションなど、地域のためになるような取り組みを、独立した自分の手でできるようになっていきたいと思っている。 独学や副業でのスキルアップや地域おこし協力隊としての実務……目標に向けての地盤づくりは着々と進行中だ。 「地域の方のお役に立ながらチャレンジできる機会がたくさんあるのが、地域おこし協力隊です。 就職とは異なる魅力があります。自分を試せる機会でもあるので、興味がある方は、ぜひチャレンジしてみていただきたいです。」 「那須烏山市には、画面だけでは伝わらない、足を運ばないと分からないよさがあります。 メグロの聖地だったり、難攻不落といわれた山城・烏山城の城址があったり、城下町のレトロな街並みが残っていたり……。 那須烏山市は、コアな人ならどっぷりはまるニッチな魅力のあるまちです。 興味をもっていただけたら、実際に生活している方の声を聞いたり、まちの風景を見たりしながら、那須烏山市のことを知ってほしいです。 私でよければご案内しますので、ぜひご連絡ください!」  

穏やかな余白時間と首都圏への通勤、どちらも叶えられる暮らし

穏やかな余白時間と首都圏への通勤、どちらも叶えられる暮らし

尾花 理恵子(おばな りえこ)さん

穏やかな時間と、首都圏への通勤が叶う暮らし 2021年まで、東京都内の会社で勤務していた尾花さん。地方移住をしようと思ったきっかけは、自分の人生を一度見つめ直したかったことだという。 「会社員時代は、忙しくて空を見上げる暇もないくらい余裕がなかったんです。大きなプロジェクトをやり遂げて一区切りがついたとき、会社を辞めて、好きで続けていたヨガのインストラクターとして独立しようと思い至りました。仕事だけでなく、暮らす環境や人間関係などもがらりと変えたかった。候補はいくつかありましたが、全く知らない土地でスタートするよりも、生まれ育った佐野に移り住むことが精神的な安定にも繋がると思い、Uターンを決めました。実家から徒歩20分ほどのところで一人暮らしをしています。」 栃木県南西部に位置する佐野市は、東京から70キロ圏内というアクセス良好な立地。利便性と豊かな自然を両立しているので、首都圏での仕事が継続できることが大きなメリットだ。 尾花さんによると「東京に比べると広くて家賃も安いので、独立して起業をしたい人にとっても良いエリア」とのこと。 尾花さん自身、様々な縁があり、居住地である栃木県佐野市、東京都の武蔵小山エリア、神奈川県川崎市の3拠点でヨガクラスを持ち、週に3〜4日は高速バスで通勤。 会社員時代と同じく多忙な毎日のように見えるが、尾花さんの心持ちはまるで異なるという。 「高速バスだと新宿まで1時間半。東京や神奈川での仕事日も、必ず佐野の自宅に戻っています。東京で生活していた頃、自宅に帰っても仕事のことで頭がいっぱいだった私には、むしろバスの通勤時間がオン・オフの気持ちの切り替えになっていい。佐野に着いてバスを降りると、空が広く、空気がおいしくて…毎日ホッとしています。」 オン・オフの境目がなかった、東京での一人暮らし。 移住して余白の時間が生まれたことで、「目の前の景色の移り変わりを感じられるようになった」という尾花さんの声は明るく穏やかで、今の生活の充実度を物語っているかのようだった。 東京からのアクセス良好な佐野市エリア 四季を通して多くの自然に恵まれている佐野市。南北に長い土壌で、北に連なる山々からの“豊富で良質な水”は、古くより佐野の食文化を育んでいる。 「近所のスーパーでは、地場産コーナーがあったりするので、今朝採れたみずみずしい新鮮な野菜が、日常的に安く手に入るのがうれしい。また、移り住むことになって再確認したのが、佐野市独自の食の豊富さ。全国的に有名な佐野らーめんをはじめ、いもフライや黒から揚げなどのご当地グルメ、他にも喫茶店文化があり、店主さんのこだわりコーヒーが飲めたり…と、移住してからの小さな発見が楽しいんです。」 店を直接見てまわる楽しみ、地域の人とのやりとりの心地よさのおかげか、ネットショッピングをほとんど利用しなくなったほど。 そんな風に暮らしの変化を楽しんでいる尾花さんが、今回提案してくれたのは、2泊3日の短期滞在で「1日ごとにテーマを決めて行動する」というアイデア。 「例えば、1日目は自分をいたわるリトリートDAY、2日目は滞在先で働いてみる日…のような感じで、ここに“暮らす”生活を想像しながら動いてみてはいかがでしょうか。佐野市の生活では車移動がマストなので、着いたらまずはレンタカーをピックアップ。車があれば行動範囲も広がり、気分転換にもなると思いますよ。」 ショートステイのすすめ1「ひとり時間の息抜きになる、リフレッシュスポットを見つける」 「仕事や人間関係などに疲れ、忙しい生活から離れたくなったら、ふらっと気軽に佐野市に訪れてほしい」という尾花さんの思いが反映された1日目のプランは、心身をリセットできるスポット巡りがテーマ。 「一人暮らしでもファミリーでも、リフレッシュできる場所は生活圏内に欲しいですよね。私が深呼吸をしに訪れる出流原弁天池は、最高の癒しスポット。佐野は水がきれいなことでも有名なのですが、ここの湧き水の透明度の高さは日本名水百選に選ばれるほど! そして、唐澤山神社もぜひ参拝して欲しい場所。境内にいるさくらねこを愛で、軽く汗をかくくらいのハイキングができます。リフレッシュできたら、おいしい食事で体の内からも癒されて。栄養士の女性が創業されたキャトルクワトンは、新鮮な野菜たっぷりのランチが食べられるのが魅力。店主マキさんの優しい人柄にも癒されます。」 他にも、尾花さんが散歩におすすめする朝日森天満宮など、自然のエネルギーや、神聖な気が宿る場所が数多く存在する佐野。 ショートステイ中に日頃の疲れを癒して、パワーチャージができるお気に入りスポットを見つけて帰るのもいいかもしれない。 ショートステイのすすめ2「暮らすように働いてみる」 移住後のリモートワークを想定して、2日目は市内のコワーキングスペースへ。 「女性専用コワーキングスペースVALO、佐野駅近くのコミヤビルニカイの他、佐野市内には多くのサテライトオフィスやコワーキングスペースがあるそうです。パソコンを持ち込んで午前中はリモートワークをしたら、神谷カフェでランチ休憩を。ここは、スパイスカレーやパンケーキが人気のお店。ランチだけでなく、カフェ前にあるコンテナでスイーツのテイクアウトもおすすめです。仕事の続きをする際のおやつにぜひ!」 夕食にはテイクアウトを利用して、自宅でのリモートワーク気分を味わった2日目。あえて予定や目的を詰め込まないことが、“暮らす”気分で過ごせる秘訣なのかも。 ショートステイのすすめ3「食べ歩きを楽しみながら、その土地の空気感を味わう」 3日目のスタートは、尾花さんが講師を務めるsano yoga ruitoで開催される早朝ヨガクラスに参加。 地元の方が集まって交流するような場所に飛び込むことで、違った角度からその土地のことが知れるはずだ。 「気持ちよく体を動かすことからスタートした最終日のプランは、食べ歩きがメイン。佐野を代表するB級グルメや、私も大好きなコーヒーショップを巡りながら、町の空気感を肌で感じて欲しいです。」 福伝珈琲店をはじめ、WAFFLE COFFEE、蔵和紙カフェカクニ、COFFEE&DONUTS FIVEなど、佐野駅周辺におしゃれなコーヒーショップが点在しているのでカフェのはしごも可能。 佐野らーめん晴れる屋の佐野らーめん、佐野の新名物でもあるからあげ家なるねこの黒から揚げ。たくさんのおすすめを挙げてくれた中でも尾花さんいちおしなのが、佐野の農作物を使ったジェラート屋さん。 「佐野は年間を通して様々なフルーツが採れるので、地元産の季節の果物を使ったジェラートが絶品なんです。佐野観光農園アグリタウンにあるGelateria Auguriをはじめ、市内に数店舗あるので、実家の母と弟を誘って食べに行くのにハマっています。今や趣味のひとつですね!」 プランに余裕があれば、佐野厄除大師や佐野プレミアムアウトレットなど、佐野を代表する観光スポットにも足を運んで、たっぷりと佐野の魅力を味わう2泊3日。 様々な側面を知れたことで、移住に繋がっても繋がらなかったとしても、この町とつながりを持ちたくなる…このショートステイの経験が、未来の自分への想像を膨らましてくれそうだ。 今の環境に疲れてしまったら、深呼吸ができる場所へ 自然が身近にある佐野での穏やかな時間と、首都圏への通勤による活気のあるワークスタイル。 その両方を叶え、新たな暮らしを手に入れた尾花さん。 「今後の自分自身のあり方に、疑問や不安を抱えているなら、まずは気軽な気持ちで佐野へぜひリフレッシュに来てください。私自身、人生やキャリアに行き詰まった30代前半に、仕事・拠点・人間関係を少しずつ変化させながら現在の生活スタイルになりました。一度きりしかない人生、自分が幸せな気持ちで過ごせる選択ができますように…!」 「この豊かな自然に囲まれながらヨガやアーユルヴェーダのワークショップをやりたい」と、近い将来の展望を語る尾花さんのように、移り住むことで見えてくるものもきっとあるはず。 豊かな自然、利便性、食文化…人によって新たな価値が見つけられそうな佐野市。 まずは深く考えず、美味しいものを食べ、心穏やかな呼吸を感じるためだけに。そのくらいの軽やかさで足を伸ばしてみるのはどうだろうか。 ※この記事は、NEXTWEEKENDと栃木県とのコラボレーションで制作しています。

非日常としての自然ではなく、日常としての自然が身近にある暮らし

非日常としての自然ではなく、日常としての自然が身近にある暮らし

藏所 千尋(くらしょ ちひろ)さん

新しい発見や出会いがある、宇都宮市(大谷町)エリア 「移住をしたのは、娘が小学校に上がるタイミングでした。当時住んでいた東京にあるNPO法人ふるさと回帰支援センターへ行ってみたのが最初です。そこで宇都宮市の移住担当者の方に出会ったのがきっかけで、宇都宮市内の大谷地域の今を知り、自分のこれまでのキャリアを生かせるような気がしました。そこから縁があって今の仕事にも出会え、わくわく感を持って大谷地域に移り住みました。」 東京では、印刷会社やミュージアムショップ、デザイン事務所などで働いてきた藏所さん。“大谷地域に新たなムーブメントが生まれている”という噂を以前から聞いていたため、興味があったエリアだという。 「ただ、実際に生活環境を確かめる必要があると感じ、移住前に大谷地域へと何度か自分の足を運びました。また、東京在住中に、地方移住することを早めに周りに公言したことで、“知り合いがいるよ”“あそこのお店知ってる?”と情報が自然と集まったりも。引っ越してから…ではなく、移住前にアンテナを張って行動しておくことが大切かもしれません。」 宇都宮市は、東京から新幹線で約50分と都市部からのアクセスも便利。その中でも大谷地域は、古くから「大谷石」の産地として栄えた独自の文化が息づく場所だ。 藏所さんが管理人を務める「OHYA BASE」は、コワーキングスペースなどを備えた多目的施設。「大谷でできることを増やす場所」を指針に掲げ、周囲の個性豊かな店々やクリエイター、スモールビジネスを営む人とも繋がっており、人と人との橋渡し役を担っている。 この取材中にも、定休日にも関わらずOHYA BASEに訪れる人がちらほら。地元の人が気軽に立ち寄り、地域に根ざしたコミュニティ活性の場であることを物語っていた。 「移住した土地に馴染むためには、ハブになる場所や人に出会えるかがポイント。ショートステイをする際も、移住前に地元の人と少しでも繋がれると、自分が生活するイメージもつきやすいと思います。」 そう語る藏所さんが提案してくれたのが、大谷地域を中心に、隣接する地域にも足をのばす2泊3日のショートステイプラン。 リモートワークができるシェアスペース、地域に愛されるお店、子どもと休日に過ごすスポットなど、暮らしを楽しむために欠かせない要素を組み込んでくれた。 ショートステイのすすめ1「人が行き交う場所を拠点にする」 藏所さんが東京から移住して最初に実感したのは、ここでの生活には車が必須ということ。今回のショートステイプランでも車移動を想定している。 「移住を意識したステイなら、その土地の人が行き交う場所を拠点にすると、自分の中に新しい視点が生まれてきやすいと思います。私が働くOHYA BASEもそのひとつ。コーヒーを飲みながら仕事をしたり、ローカルな情報収集をしたりと、便利に活用できる場所です。また、地域に根付いているカフェやご飯どころも、生活するなら知っておきたいところですよね。地産地消の食材を使った料理が味わえるOHYA FUN TABLE、イタリア料理を軸にした大人も子どもも気軽に楽しめるPunto大谷町食堂は、どちらも店主が県外からの移住者。地域の人々の雰囲気もわかるし、県外からの滞在者にも優しい。東京から来た友人を必ず連れて行く、私のお気に入りです。」 前述の「OHYA FUN TABLE」、築90年の石蔵をリノベーションしたベーカリー「POSTE DE BLÉ」など、大谷石を建築に使った店舗も多く点在しているので、その建築を見ながら町を歩いてまわるのもおすすめだそう。 ショートステイのすすめ2「その土地の文化や自然に触れる」 栃木に来て変わったことのひとつが、小学校4年生の娘さんとの週末の過ごし方。そんなライフスタイルの変化も、この場所に越してきて良かったと思える部分だという。 「東京では美術館などの作られた場所に行くことが多かったのですが、移住してからは、夏は川遊びや湖畔の散歩、冬は周囲の山々をぐるりと見渡せる開放的な屋外リンクでアイススケートをするなど、自然の中で思いっきり遊ぶことが増えました。今回のプランに入っている、(宇都宮市の隣に位置する)鹿沼市の大芦川は、関東随一の清流と呼ばれる透明度。冷たい水に足を投げ出してみるだけでも最高にリフレッシュします。豊かな自然が近くにあるのも栃木の魅力なので、ご家族でステイする際にもぜひ訪れてもらいたいですね。」 非日常としての自然ではなく、日常としての自然が身近にある。五感をフルに使って体と心で感じたことは、子どもにとっても大人にとっても大切な記憶になるに違いない。 また、ショートステイプランの最初に体験する、大谷地域に広がる地下空間を巡る観光ツアー「OHYA UNDERGROUND」(事前オンライン予約必須)は、藏所さんが働く「OHYA BASE」の看板アクティビティ。 普段は立ち入り禁止の大谷採石跡地を、ラフティングボードで探検するクルージングは、ここでしかできない貴重な体験だ。古代遺跡のような石造りの巨大空間が見どころの観光スポット「大谷資料館」の見学も含め、その土地の歴史を知れる機会は、ぜひ予定に入れておきたい。 その他にも、宇都宮市民のソウルフード「正嗣(まさし)」の餃子を食べて、道の駅「ろまんちっく村」の天然温泉に浸かって…と、地元民御用達の魅力的なスポットがぎゅっと詰まった2泊3日。 ショートステイを終える時には、どのように感じて、どんな想いが生まれるのか。それを確かめるためだけでも大きな価値になるはず。まずは1歩、気軽な気持ちで訪れてみるのはどうだろうか。 ショートステイで自分の“これから”を見つめ直す 「もちろん都会に比べたら情報量やスピード感が違うので、最初は戸惑いもありました。ただ、地域に暮らす人々との何気ない会話で得られる情報には、また違った豊かさを感じられるもの。東京へはすぐに行けるので、いまでは物理的な距離感もそこまで感じません。つい最近も上京して、好きなアーティストのライブを楽しんできたところなんです。」と話す、藏所さんの明るい笑顔が印象的だった。 「アクションを起こせば人とすぐ繋がれるのが、地方のいいところ。」と藏所さん。 「これが好き」「それ面白そう」と、同じ価値観を持つ仲間たちに出会い、深めてきたコミュニティは、年々、輪が広がっているようだ。 今後、町全体がより一層盛り上がっていきそうな予感に満ちている。 「私を含め、音楽が好きな仲間が多いんです。他の土地にはない風情のあるこの環境で、音楽フェスのイベントができたら…!というのが夢ですね。大谷地域にはまだまだ余白があるからこそ、自分が好きなことを持ってきて、自分たちの手で何かを実現することができる。そんな可能性を日々感じています。」 新旧の良さがバランスよく共存する宇都宮市大谷町。ここでの「ショートステイ」という経験が、理想のライフスタイルを考えるきっかけになれば何よりだ。 ※この記事は、NEXTWEEKENDと栃木県とのコラボレーションで制作しています。

住む人が誇りに思えるような地域づくりを

住む人が誇りに思えるような地域づくりを

國府谷 純輝(こうや じゅんき)さん

自分たちの住む地域に自信と誇りを 2022年6月。普段は静かな寺尾地区に続々と人が訪れた。目当ては「テラオ“ピクニック”マルシェ」。寺尾地区の象徴とも言える三峰山(象が寝そべった姿に見えるので通称「象山」とも呼ばれる)の麓、芝生が広がる寺尾ふれあい水辺の広場で、初めて開催されたマルシェだ。このイベントの仕掛け人こそが國府谷さんである。 寺尾をPRするためのマルシェはこれが2回目。1回目は2021年12月。栃木市の街の中心部にあるとちぎ山車会館前広場にて「テラオ“キッカケ”マルシェ」を開催した。寺尾地区を知ってもらうきっかけになれば、というコンセプトのマルシェ。寺尾地区で商売をしている方による飲食・物販での出店や、名物・出流そばの実演実食などを行った。 当初は、「寺尾のイベントに人が集まるのか・・・」と地元の皆さんは不安でいっぱいだったそうだが、蓋を開けてみたら大盛況。 「イベントを終えたその時点で、“次はいつ開催する?”と、皆さんから声をかけられました。地域の皆がひとつになってイベントを大成功に導き、自信にも繋がったと思います」 移住して約半年でのイベント開催。テラオ“キッカケ”マルシェは、國府谷さんが寺尾地区の人たちにしっかりと受け入れられるキッカケにもなったであろう。 「1回目のイベントは寺尾を知ってもらうためのもの。次回は寺尾に来てもらうイベントにしたいと考え、自分が寺尾で好きな場所でもあり、みんなに知って欲しい場所でもある寺尾ふれあい水辺の広場で開催しようと決めました」 しかし、寺尾地区を会場とするマルシェは初めて。街中から車で20分ほどかかる場所での開催に、「さすがに今回は人は来ないだろう・・・」という声も多く聞こえた。 迎えたマルシェ当日。開始前から集まってくる人の姿を見て、住民たちの不安は一気に吹き飛んだ。赤ちゃん連れのファミリーから、手押し車で訪れるおばあちゃんまで、普段はひと気のない広場が、多くの人で賑わい、訪れたお客さんたちからは、「こんなにいい場所があったなんて」と喜びの声で溢れた。 「イベントが大成功だったのはもちろんですが、何より嬉しかったのは、出店してくれた地元の方に“寺尾にとって歴史的な一日になりました”と言われたことです。1回目のイベントの時も感じたのですが、“どうせ人は来ない”というような、どこか引け目のような思いを持たれている方が多い印象でした。でも2度のイベントを通じて、自分たちの住む寺尾に誇りや自信を持ってくれたんじゃないかな、って思っています」 コロナを機に自分の進みたい道へ 大学生の頃から地域活動に興味があったという國府谷さん。地域に学生を派遣してインターンシップを行う学生団体に所属し、事務局長を務めた経験もある。卒業と同時に起業も考えたが、一度は社会人経験を積むため人材サービス会社の営業職へ。 「人と人とを繋ぐことに興味があったので、仕事は大変ではありましたが楽しかったです」 しかしコロナウイルスの感染拡大に伴い状況が一変。在宅ワークになり、人と会う仕事はリモートで完結。徐々に楽しいと思えることがなくなってしまった。 「何のために仕事をしているんだろう?と考えるようになってしまって。3年間働いて社会人としての仕事の仕方もわかってきたし、自分の好きなことをやる時期が来たんだな、と捉えました」 まちづくり会社、NPO、地域おこし協力隊などへの興味から、実際にそれらの仕事に就く人たちから話を聞いた。そんな中、地元・栃木県での地域おこし協力隊募集の中から、一番自分の希望に近い栃木市・寺尾地区での活動に興味を抱いた。 「活動するなら、生まれ育った農村部のような田舎がいいなと思っていました。自由に動きたいこともあったので、フリーミッションだった点も希望に合っていました」 実際に現地を訪れ、寺尾地区の公民館で働く市職員や、住民の方とも話をした。中でも強く印象に残っているのが、寺尾地区への移住者で有機での農業を営む「ぬい農園」の縫村さんとの出会いだ。 「栃木市を訪れた時にいろんな方とお話ができて、移住するイメージが一層膨らんだのですが、帰り際に縫村さんが寺尾への想いを熱く語ってくれて。ぜひ来てほしい、と力強く言ってくれたんです。その想いに、グッと引き寄せられましたね」 すぐに決意が固まった國府谷さんは、栃木市地域おこし協力隊へ応募。2021年6月より、寺尾地区を拠点に活動することになった。 何事もチャレンジしてから判断する 地域おこし協力隊として着任し、まず行なったのは地区内の挨拶まわり。自治会長、企業、個人事業者といった方々はほとんど挨拶に伺った。 「職場が寺尾地区の公民館勤務だったので、その点もよかったです。開放感のある明るい雰囲気の公民館には、自治会長や農家さんなど多くの方が来られるので、その都度、職員さんが紹介してくれました」 少しずつ寺尾地区での人脈を広げながら、一年目はさまざまな取り組みを行なった。 マルシェの企画・運営、寺尾地区の総合情報サイト「テラオノサイト」やお店を紹介している「テラオノマップ」の製作、名物・出流そばのP Rのための動画製作、農業体験用の畑づくり、大学生のインターンシップ受け入れ、若手事業者を集めたプレイヤーズミーティング、テレワークスポットの発掘や紹介、YouTubeラジオ番組など、多岐に渡る。 「現在は活動2年目ですが、実際にやってみて違うな、と思うものもあったので、そういったものは一度やめて、手応えのあったものだけ継続しています。何でもやってみないとわからないので、今後もいろんなチャレンジをしていきます」 次々と新しいことへ挑戦する國府谷さんだが、それは寺尾地区の皆さんの支えがあってこそだという。 「寺尾の人たちは、チャレンジに前向きな人が多いんです。同世代だけでなく、上の世代の方たちが応援や感謝をしてくれて、“どんどんやれ!”といつも後押ししてくれます。自分がこれだけ自由に動けるのは、皆さんのサポートがあってこそだといつも感謝しています」 また、得意なことをやっているというより、初めてのことにチャレンジすることが多いという。そのため、その分野に詳しい方たちに話を聞きに行ったり、修行させてもらうことで、自分にできることを少しずつ増やしている。 「移住を後押ししてくれた縫村さんには、移住者の先輩として教えてもらうことも多いですし、畑のお手伝いをさせてもらうことで農作物のことを教えてもらったりもしています。こういった方が近くにいるのも心強いですね」 新しいことにチャレンジする姿勢は、プライベートでも人とのつながりを広げている。 「隣接する小山市協力隊の横山さんが“クロスミントン”というスポーツで日本チャンピオンになった経験があって、何度か練習会に参加させてもらいました。初めてでも楽しめるスポーツなので、栃木市でも流行らせたいなと思い、参加者を募って栃木市でも練習会をスタートしました。また、栃木市役所にサッカーチームがあり、そのメンバーにも加わらせてもらっています。趣味であるスポーツをきっかけに、寺尾地区以外のコミュニティも広がっていますね」 意外なことに、実は人見知りだという國府谷さん。 「だからこそ、いろんなものを創り上げて、自分がやっていることをコミュニケーションツールにしています。何か形になるモノやコトがあれば、それをきっかけに話を広げられるので、そういった地域への入り方もあると思いますよ」 寺尾をより多くの人に知ってもらいたい これからの取り組みについて、大きく2つの軸で動いていきたいと語る。 「イベントを通じて、寺尾に住むことへの誇りを持つ人を増やしたり、外から来る人の視点により、地元の人が寺尾の魅力を再発見する気づきを与える機会を作っていきたいと思います。また、自分自身もずっと寺尾に居られるように、事業化を意識しながら今後の活動に取り組んでいきたいです」 前回のテラオ“ピクニック”マルシェからコーヒー屋として自身も出店したり、育てたハーブでハーブティーを作るといった取り組みも始動している。 またこうした國府谷さんの動きが話題となり、寺尾地区に隣接する周辺地区からも「うちの地域も盛り上げてくれないか」と声が掛かるようにもなってきたという。 「うまくいくことばかりではないですが、主体的にチャレンジする気持ちは常に持って行動することが大事だと思っています。次は2022年12月10日に開催するテラオ“キッカケ”マルシェVol.2に向けて動いています。寺尾地区の皆さんとひとつになって、寺尾の魅力を伝えられたらと思います」

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

武藤小百合さん

自分が惹かれた街で、暮らしを楽しみたい 武藤さんが鹿沼に移り住むきっかけとなったキーパーソンの一人が、新鹿沼駅前にあるレンタサイクルショップ「okurabike」の鷹羽(たかのは)さんだ(下写真左)。武藤さんは、okurabikeが主催するサイクリングツアーに何度か参加し、鹿沼の魅力に触れたことで移住を決意。さらに、移住後も鷹羽さんに街のことを教えてもらったり、プライベートでも相談に乗ってもらったりと、とてもお世話になっていて、武藤さんは“鹿沼のママ”として慕っている。 そんなokurabikeのサイクリングツアーで鹿沼を巡りまず感じた魅力が、身近に広がる自然だ。 「街中から自転車で少し走るだけで田畑や里山が広がり、きれいな川が流れる豊かな自然に出会えます。例えば、新鹿沼駅から自転車で10分ほどにある『出会いの森総合公園』は(下写真)、春には大芦川沿いの桜並木がとても美しく、5月下旬から6月上旬にはホタルも見られます。自然と人が共存しているところに、とても惹かれました」 もう一つ感じた鹿沼の魅力が、いきいきと暮らす街の人たち。サイクリングツアーで出会った、400年の歴史を持つ麻農家が営む「野州麻紙工房」の店主や、秋まつりに登場する彫刻屋台が展示されている「屋台のまち中央公園」の方をはじめ、カフェや飲食店を開業したり、新たなことに挑戦したりしている人たちも多く、個性豊かで面白い街だなと感じた。 「鹿沼はもともと人が行き交う宿場町だったこともあり、移り住む人に対してウェルカムな雰囲気があり、新しいことに挑戦する人をあたたかく応援してくれます。何よりも皆さんとても優しく、一人で移り住んでもなんとかやっていけそうだなと感じました」 さらに、長年受け継がれている街の文化にも強く惹かれた。サイクリングツアーでは、絢爛豪華な彫刻屋台が鹿沼の街を練り歩く、歴史あるお祭りを特等席で見学。街の人たちが一丸となって文化を継承している姿に心震えた。 武藤さんは、これまで客室乗務員として、いろいろな地域を訪れ、さまざまな街を目にしてきた。そこで感じたのは、「どこに行っても変わらない暮らしはできる」ということ。 「東京は確かに便利ですが、地方でも必要なものはそろうし、どこへ行ってもそれほど変わらない生活ができる。だとしたら、自分が惹かれた街で、惹かれた人たちと、したい暮らしをすることが大切なのではないか。そう思って、鹿沼へ移り住むことを具体的に考え始めたんです」 東京の郊外に引っ越すような感覚で 人と自然、文化に加えて、東京からのアクセスの良さも、鹿沼に惹かれたもう一つの理由だ。「新鹿沼駅」からは、特急で都心まで1時20分ほど。これまで、羽田や成田へ1時間半ほどかけて通勤していた武藤さんにとって、鹿沼は意外と近いと感じた。 「移住と言うと、山の中などへ一大決心をして移り住むイメージがありますが、私にとって鹿沼への移住はそれほど大袈裟なものでなくて、東京の郊外に引っ越すような感覚でした。鹿沼に限らず栃木県全体に言えることかもしれませんが、東京へのアクセスの良さが、移住を考える人にとって一つの魅力になっていると思います」 とはいえ、転職は大きな決心だった。締め切り数日前に見つけた市役所の採用試験に応募し、見事に合格したことで、鹿沼への移住は現実のものとして一気に動き出した。こうして2020年9月、武藤さんはこの街での新たな暮らしをスタートした。 鹿沼市役所の中でも、教育委員会事務局で働く武藤さんは、主に奨学金貸付業務と入札業務を担当している。 「部署の上司や同僚たちは、鹿沼歴が浅い私のことをとても優しくフォローしてくださいます。仕事のことはもちろん、鹿沼のことも、もっともっと詳しくなって、地域の役に立てる職員になりたいです」 日々の小さな喜びの積み重ねが、QOLを高める 鹿沼に移り住んでからは、市役所で働きながら、休日にはランニングやカフェ巡り、ボタニカルキャンドルづくり(下写真)を楽しんだり、日光や宇都宮まで車で出かけたり、ときには東京まで遊びに行ったりと、充実した毎日を過ごしている。 「私は移住とともに起業したり、新たにお店を始めたりしたわけではなく、平日は仕事をして休日に趣味などを楽しむという生活スタイルは、大きく変わっていません。それでも、日々の食事や通勤、ウォーキングなどの満足度が、ちょっとずつ上がり、全体として暮らしが豊かになったなと実感しています」 例えば、この街では、おいしい地元の食材が手軽に入手できる。自転車通勤の途中に美しい花が咲いていたり、虫がいたり、夜には星が見えたり、ときには雷が鳴ったり、四季の移り変わりを肌で感じながら生活できる。鹿沼には何かにチャレンジする人が身近に多く、自分も頑張ろうと刺激を受けられる。もちろん、家賃などが安いのもうれしいポイント。東京と同じ金額で、より広く新しい住まいに暮らすことができる。 こうした積み重ねが、いわゆるQOL(Quality of Life)の向上につながっている。 そして、移住して2年目の2022年に、武藤さんは結婚。ご主人も東京からこちらへ移り住んだ。 「主人はシステムエンジニアで、リモートワークが定着してきたことで、仕事を辞めることなく鹿沼に移住できました。彼はキャンプが趣味なので、これからはもっとアウトドアのアクティビティも満喫していきたい。2024年にはスノーピークが運営するキャンプフィールドが、鹿沼市にオープンするのもとても楽しみです!」 今後、数年間中止となっている「秋まつり」や、さまざまなイベントが開催されるようになったら、積極的に参加して、地域の人や移住者どうしのつながりをもっと広げていきたいと考える武藤さん。 「勇気を持って一歩を踏み出し、鹿沼でのコミュニティを築いていきたい。そして、これから鹿沼に移り住む人が、安心して移住できる環境をつくるなど、大好きなこの鹿沼に恩返しをしていきたいです」

体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

多里(たり)まりなさん

実感したことを、自分の言葉で紡ぐことを大切に 中心市街地の活性化と、新聞社のさまざまな情報を発信する新たな拠点として、宇都宮まちなか支局が誕生したのは、2012年4月のこと。実は、1階にあるカフェ「NEWS CAFE」も、下野新聞社が運営。2階にはイベントスペースも設けられている。 京都府出身の多里さんは、最初の1年間は栃木支局で経験を積み、2年目からまちなか支局へ。ここでは、毎週日曜日に掲載される「みやもっと」面(2ページ)を、主に担当。紙面では、記者が自ら体験したことを、紹介することをコンセプトにしている。 例えば、本サイトでも紹介した宇都宮の「きものHAUS」が企画した、オリオン通りを約70人の花魁(おいらん)姿の女性が練り歩く「宮魁道中(みやらんどうちゅう)」に、多里さんも花魁の一人として参加したり、ジャズの街としても知られる宇都宮で活動しているアマチュアのビッグバンドに、ピアノとして加わり演奏したり、1カ月で百人一首をすべて覚えて大会に出場してみたり、まさに体当たりで、街なかで起こる新たな取り組みに飛び込み、そこで実感したことを言葉にしている。 「通常の紙面とは逆に、『みやもっと』では、自分で体験したからこその感想や、そこから見えてきた街や人の姿、魅力を、自分自身の言葉で書くことを心がけています」 最初は顔には出さないけど、みんな歓迎してくれている 多里さんは、原稿を書くとき以外は、街へ出かける。移動は、徒歩が基本だ。 「暖かくなったら自転車にも乗りますが、街なかでは歩きが便利! 車のように駐車場を探さなくていいから、気になった場所へ身軽に立ち寄れるんです」 商店街を歩いていると、いろいろな人が声をかけてくれる。立ち止まって世間話をするなかで、意外な人から思わぬ情報を得られることもある。 「だからこそ〝枠〟をつくらず、できる限り幅広く、たくさんの人と会うように心がけています。もう一つ大切にしているのは、自分のことをオープンにすること。こちらから壁をつくらず、何でも話すようにしていると、相手も心を開いてくれる。これは、記者としての変わらぬ目標でもあります」 取材の途中に立ち寄った、「村山カバン店」の店主夫妻(上写真)も、家族のように接してくれる。コーヒーを出してくれたり、「おなか減ってない?」と、ときには一緒にお店のカウンターでお昼を食べさせてくれたりすることもある。 手作りパンを使ったサンドイッチ専門店「小時飯屋(こじはんや)」の店主も、いつも多里さんのことを気にかけてくれる(下写真:小時飯屋の店内の様子)。 「実は、就活で下野新聞社を受けるために、初めて宇都宮を訪れた帰りに、偶然立ち寄ったのが、小時飯屋さんだったんです。そのときお父さんが、『どこから来たの?就職活動? 栃木の人は表情には出さないけど、すごく温かいし、みんな外から人が来てくれるのをうれしく思っているから、大丈夫だよ!』と言ってくださって。もし受かったら、栃木に来よう!と前向きに思ったのを、今も覚えています」 世代間をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これからもっと このように地域と密接に関わる多里さんに、普段感じる「宇都宮の街なかの魅力」をうかがった。 「宇都宮は、東京や大阪ほど街の規模が大きくないぶん、初対面の人でも話してみると共通の知り合いがいたりして、コミュニティを築きやすいのが魅力だと思います。だからか、皆さん、職場や家庭以外にも、自分の趣味や好きなものに関する〝居場所〟を持っている人が多い。私も、よく近所のミュージックバーに行くのですが、2、3週間ほど間があいただけで、店主の方が『大丈夫?』と声をかけてくれる。そういう人の温かさに、日々支えられていますね」 もう一つ実感しているのは、幅広い年代の人たちが、地域をよくしようと活動していることだ。 「私も参加させてもらった『宮魁道中』をはじめ、若い人たちの新たな動きが、街なかで活発に生まれています。一方で、長年、商店街でお店を営んでいる上の世代の方たちも、地域の文化を受け継ぎながら、商店街を元気にしたいと考えている」 例えば、街の中心部にある二荒山神社の門前には、昭和30年代ころまで浅草のような仲見世があったという。 「初めてこのことを知った若い世代の人たちは、『復活させられたら、きっと面白いだろうな』とワクワクすると思うんです。そんな世代と世代をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これから果たしていきたい」 実は、春の人事異動により、3月から多里さんはまちなか支局を離れ、宇都宮総局へ異動することが決まった。けれど、まちなか支局で大切にしてきた、仕事や地域に対する思いに変わりはない。 「この2年の間に多くの人と接するなかで、実は日常のなかに〝いいもの〟がたくさんあることを気づかせてもらいました。これからも、外から来た人間だからこその視点で、何気ない宇都宮や栃木のいいものをたくさん再発見し、発信していきたいと思います」

ふらっと、深い出会いを

ふらっと、深い出会いを

豊田彩乃さん

実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい 商店街に面した大きな窓が白み始めると、シャッターの開く音や、住民どうしが交わす挨拶の声などが聞こえてくる。ここは栃木県那須塩原市の黒磯駅前商店街。地域の人はもちろん、観光の人も行き交う、街の息づかいを身近に感じる場所に、2018年6月、「街音matinee(マチネ)」という名のゲストハウスが誕生した。 もし、街音に泊まったら、朝はいつもより少し早起きをして、7時からやっているという近所の和菓子屋さんやパン屋さんに出かけてみよう。近くには「1986 CAFE SHOZO」をはじめ人気のお店も点在している。少し足を伸ばして温泉につかったり、山登りを楽しんだり、自然に触れるのもいい。ただただ何もせず、街音の畳の上でゴロゴロと本を読む、という1日も贅沢かもしれない。 「まるで実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい」。それがオーナーの豊田さんの思いだ。 一方で、現在、豊田さんは那須塩原市の移住定住コーディネーターも務めており、「農業に挑戦したい」「お店を開きたい」などといった、移住を検討する希望者のニーズを聞きながら、一緒に街を巡ったり、人や物件を紹介したり、移住関係の補助金の申請などの手続きをサポートしたりといった仕事も手がけている。街音が、那須塩原を訪れ、この街について知るための〝起点〟になればという思いも持っている。 日本一周と世界各国の旅を経て知った、ローカルの魅力 豊田さんは埼玉県の草加市出身で、東京の大学に通っていた4年生のころ、留学のために1年間休学。資金を貯めようとアルバイトをすることにしたが、幸運にも、がん患者がタスキをつなぎながら日本を一周するというチャリティーイベントの運営スタッフに選ばれ、約半年かけて47都道府県を巡るという貴重な経験をした。 「このとき、日本には美味しいものや美しいもの、やさしい人など、知られていない魅力が山ほどあることを肌で実感しました。海外に留学する際も、いろんな地域を見てみたいと思い、アジアから中東、ヨーロッパ、アメリカまで、各国を巡ることにしたんです」 そんな旅の途中、イスラエルのパレスチナ自治区で滞在したのが、「イブラヒムピースハウス(通称:イブラヒム爺さんの家)」という名の宿だ。 「ゲストハウスの周囲の道路は舗装もされておらず、ちょっと危なっかしい雰囲気なのですが、そこにイブラヒムお爺さんの家があって、お爺さんがいることで、ツーリストたちがいっぱい来るし、地域の人や子どもたちも安心してそこを訪れる。そんな交流の起点となる場所って、素晴らしいなと感じたんです」 こうした世界各地や日本中を巡った経験から、地域に入り込んで、人と人の距離が近い関係の中で、いろいろなことを学びたいと考えるようになった豊田さん。そこで興味を持ったのが、地域おこし協力隊だ。「協力隊であれば、卒論を書きながらもすぐに地域に入っていろんな経験を積むことができるのでは」と考え、新潟や山形など、各地の自治体の情報を集めるなかで、選んだのが那須塩原市だった。 「那須塩原は、生活の場であると同時に、観光地でもあって、いろんな人の暮らしが交わる面白い場所だと感じました。また、現在、駅前で建設が進められている『まちなか交流センター』や『駅前図書館』の計画なども、当時から住民の皆さんが積極的にかかわって進められており、ますます地域が面白くなりそうだと実感したんです」 人と人が出会う、起点となる場所をつくりたい こうして那須塩原市の地域おこし協力隊の第一号として採用された豊田さんは、商工観光課の配属となり、3年間、国内外から観光客を呼び込むための様々な活動に取り組んだ。なかでも、企画を担当した観光ツアーのアイデアは、トラベルブロガーが日本の知られざる地域の魅力を探り紹介していくという「We Love Japan Tour2015」のHidden Beauty大賞で、準優勝にも輝いた。 また、黒磯駅前で年2回開催されているキャンドルナイトをはじめ、地域の活動にも積極的に参加。自分自身でも、地元農家とコラボしたさつまいもの収穫体験イベントや、ワイン用ぶどうの収穫体験、篠竹のかごづくり体験など、さまざまなイベントを企画している。 「今では、街じゅうに知り合いが増えました。多くの人と積極的にかかわるなかで、新しい発見があることを、身をもって体感し、そんな人と人が出会う、きっかけとなる場所をつくりたいという思いがますます強くなりました」 その場所が、まさに「街音 matinee」だ。黒磯駅前商店街でキャンドルナイトを主催する、黒磯駅前活性化委員会会長の瀧澤さん(上写真。一緒にバンドを組んで、キャンドルナイトで演奏している)の紹介で、もと紳士服店だったこの物件と出会ったのが2016年。 以来、豊田さんは準備段階からいろいろな人に関わってほしいと、2017年10月には栃木県による「はじまりのローカルコンパスツアー」を受け入れ、建物が持つ味わい深い良さはなるべく生かしながら、東京などの都市部から訪れた参加者と一緒に、壁塗りなどの改装を行った(下写真の布団ボックスも、いろいろな人に手伝ってもらいながらDIYで製作したものだ)。そのツアーをきっかけに、参加者と豊田さんは意気投合。同年代の建築士志望のメンバーや、篠工芸作家などと、夢を持つものどうしがお互いに応援しあう「あやとり」というグループも結成している。 「街音に泊まって、那須塩原の街をゆっくり巡ってもらえたらもちろん嬉しいですが、そうでなくても、いろんなイベントにちょっと顔を出していただくだけでもいい。そうやってさまざまな人が関わり、つながっていくなかで、この場所、この街がだんだんと色々な人にとっての〝大切な第二の拠点〟に育っていったら嬉しいですね」 そう話す豊田さん自身も、この街音を通じてたくさんの人と巡り合い、つながることで、どんどん那須塩原の街が好きになっている。

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

小出拓也さん

「この街は面白そう!」。それが鹿沼の第一印象 2016年2月、小出さんは初めて鹿沼を訪れた。きっかけは、就職活動。大学で都市計画を専攻していた小出さんは住宅業界に興味を持ち、東京の就職セミナーで、鹿沼の住宅会社「カクニシビルダー」の担当者と出会う。 「そのときは、栃木の企業に就職するとは思ってもみませんでした。でも、これまで選択肢になかったことだからこそ、新たな気づきがあるかもしれない。説明会だけでも受けてみようと、後日、鹿沼へ行ってみることにしたんです」 こうして説明会に参加した後、小出さんは駅まで鹿沼の街を歩きながら帰った。そのとき直感的に、「この街は面白そうだな」と感じたという。まず惹かれたのは、立派な石蔵が残る街並みや、身近に広がる豊かな自然、温泉だった。中学の頃から、よく電車に乗って一人旅に出かけていた小出さんにとって、自然や温泉は東京から遠く離れたところにあるものというイメージがあった。 「でも、鹿沼に住めば、朝、出社前に山や川へ出かけたり、帰りに温泉に立ち寄ったりできる。ここでの暮らしもアリかもしれないなと、東京へ帰る電車の中で思ったんです」 その後の面談や最終面接などで、代表や人事担当者が親身に対応してくれたことが決め手となり、小出さんはカクニシビルダーへの就職を決意。2016年5月に無事に内定が出て、鹿沼への移住が決まった。 鹿沼や全国に新たな人脈が広がった、移住前の10カ月間 「内定をもらってから実際に鹿沼へ引っ越し、働き始めるまでの約10カ月間がとても重要で、とても充実した時間でした」 そう振り返る小出さんは、この時期に毎月1、2回は鹿沼を訪れ、お祭りなどの街のイベントや、鹿沼の街を愛する人たちが地元ネタやサブカルチャーをテーマにした授業を行う「カヌマ大学」などに積極的に参加。これにより、一気に鹿沼での人脈が広がっていった。 「すでに街にたくさんの知人や友人ができた状態で引っ越せたので、みなさんに支えていただきながら、鹿沼での暮らしを始めることができました。いま思えば、就職してからでは忙しく、なかなか新たな人脈をつくる時間やエネルギーを持てなかったかもしれません」(上写真:常陸屋呉服店 四代目の冨山 亮さんも、小出さんの鹿沼での暮らしや活動を応援してくれている) 同時にこの10カ月の間に、小出さんはアルバイトでお金を貯めては、京都の綾部市や宮津市、長野の諏訪市など、全国の中でもUIターンが盛んな地域へと足を運んだ。 「全国各地の魅力的な方々とつながることができたうえ、いわゆる〝半農半X〟のライフスタイルなど、鹿沼で始まる暮らしに生かせるような、新たなヒントをたくさん得ることができました」 それだけではない。小出さんは、地元の東京・日暮里の祭りなどにも神輿の担ぎ手として参加。ここでも人脈が広がり、もともと好きだった地元がさらに自慢したい場所に。地元を離れると決意したことが、自分が生まれ育った地域の魅力を再発見することにもつながった。 家族のように接してくれる人が、街のいたるところに 移住前に鹿沼を訪れた際によく泊まっていたのが、本サイトでも紹介したゲストハウス「CICACU(シカク)」。その女将・辻井まゆ子さん(上写真)も、鹿沼の街や人に惹かれて京都から移住した一人だ。 「2017年3月に大学を卒業して、鹿沼で空き家を借りて暮らし始めてからは、辻井さんが『ごはんあるで!』と、CICACUに皆さんが集まって夜ごはんを食べているときなどに、よく誘ってくれました」 そうやって、「うちにご飯食べにおいで」と誘ってくれるのは、辻井さんだけではなかった。 「今回、この取材のお話をいただいてから、『鹿沼の良さってなんだろう?』ってずっと考えていたのですが、一番自慢したいことは、やっぱり〝街の人の温かさ〟。鹿沼に移り住んでから、お兄さんみたいな人、お姉さんみたいな人、両親みたいな人、祖父母のような人など、家族のように接してくださる方々とのつながりが、たくさん広がりました」 そんな鹿沼の人たちが集まる〝街の居間〟のような場所がCICACUだと、小出さんは言う。毎晩のようにCICACUに遊びに来ていた小出さんは、「ここに住めたら楽しいだろうな」と考え、2カ月ほど前からCICACUの1室に長期滞在という形で宿泊している。 「女将の辻井さんの人柄もあると思いますが、CICACUの共同スペースである居間やダイニング(上写真)には旅行者や街の人が集い、自然と交流が生まれています。移住前は、地域で活動していくためのヒントを得るためにいろいろな場所へ出向いていたのですが、いまはCICACUにいることで、いろいろな人がここへ来て、さまざまな刺激を与えてくれます。多くのことを吸収すべき20代の期間をCICACUで過ごせるのは、とてもありがたいことだなと感じています」 木工のまち、職人のまち鹿沼ならではの新たな仕事を 鹿沼で多くの人とつながり、仕事を通じて現代の家づくりを学ぶなかで(上写真:カクニシビルダーでの仕事風景)、今後この街で挑戦したいことが見えてきた。その一つが、家を解体する際に廃棄されてしまう建材や建具、家具などの有効活用だ。 「古くから木工のまち、職人のまちとして発展してきた鹿沼には、優秀な職人さんが手がけた素晴らしい建具や家具が家の中に残されています。それを捨ててしまうのは、もったいない。新たな価値を付けて欲しい人のもとへと手渡す、そんな役割を担っていけたらと考えています」 さらに、全国各地で取り組みが始まっている新たな林業のやり方についても勉強し、鹿沼で実践していきたい。休日には、鹿沼を案内するツアーも手がけたい。そうやってゆくゆくは何足ものわらじを履きながら、生計を立てていくことが小出さんの目標だ。 「鹿沼をはじめ栃木県では、東京とつながりながら、ここでしかできないことにチャレンジできます。東京で生まれ育ち、鹿沼に移り住んだ自分だからこそできることを一つひとつ実現していくことが、結果的に鹿沼の街の魅力を高めることにつながっていったら嬉しいですね」

ここ宇都宮を“着物のまち”に

ここ宇都宮を“着物のまち”に

荻原貴則さん

着物を楽しむ、すそ野を広げていきたい 階段をあがり長い廊下を進むと、大正・昭和初期の家具に彩られた空間が広がる。そこにずらりと並ぶのは、1000点以上に及ぶ着物や帯など。その豊富さだけでなく、すべてが正絹(絹100%)で、価格は5400円以下というところにも驚かされる。 「我ながら、安いなと思いますね(笑)。『着物に興味はあるけど、なかなか敷居が高くて』という方が、楽しむための第一歩にしてほしい。また、せっかく楽しんでいただけるのなら、本物を手に取ってほしいと思い、平成の初めころまでにつくられた絹の着物を厳選して揃えるようにしています」 そう話すのは、「きものHAUS」の店主の荻原さん。宇都宮で60年以上続く呉服屋の長男として生まれ、大学進学を機に東京へ。卒業後、一旦はアパレル会社の営業として働くが、数年経験を積んだのち着物の道に進んだ。 修業に入ったのは、銀座や伊豆に店を構える中古着物買い取り・販売店。北は青森から南は四国まで、全国各地の個人宅へ着物の買い取りに回るとともに、月に1度はデパートなどで催事も開催するという、なかなかハードな3年半を過ごした。 「最終的には、新宿タカシマヤで開催した催事の仕入れから値付け、販売までを、すべて任せてもらいました。着物を見る目や知識などはもちろん、経営者としての視点も叩き込んでいただき、本当に感謝しています」 こうして修業を終えた荻原さんだが、そのまま実家の呉服屋には入らず、自らお店を開くことを選んだ。 「着物離れが進むなかで、新たな挑戦をしていかなければ、呉服屋自体が成り立たなくなってしまう。その一方で、若い女性のなかにも『着物にあこがれている』『着付けを習ってみたい』といった潜在的なニーズは確実にあると思うんです。まずは、そのすそ野を広げることが重要だと考えています」 花魁姿の女性約70人が、オリオン通りを練り歩く 独立の場所として、荻原さんが選んだのは、地元・宇都宮だ。 「着物の大規模なセリ市場が開かれる東京に比較的近く、都内に比べて家賃が安い。さらに、リサイクル着物の競合店がほとんどなかったことも、宇都宮を選んだ理由です」 最初の店は、「haus 1952」という古民家を改装したシェアハウスの一室で開店したが、2年ほどで手狭になり、2018年2月、現在の場所に移転オープンした。 「というのも、当初、市内の着付け教室や着物のリメイク教室などをすべて調べて、とにかく営業に回りました。ありがたいことに、それをきっかけにお客様が口コミで広がり、3年以上経った今でも、毎月のように来てくださるリピーターの方が多くいます」 荻原さんは、着物を楽しむ機会を日常的に増やしていきたいと、これまでに参加者全員が着物をまとい、和太鼓の演奏と日本酒を堪能するイベントなどを定期的に開催してきた。 さらに、2018年12月8日(土)には、宇都宮市の中心部にあるアーケード街のオリオン通りを、約70人の花魁(おいらん)姿の女性が練り歩く「宮魁道中(みやらんどうちゅう)」というイベントを企画。着付けや衣装は、ニューヨークや京都などでも花魁道中を行った実績を持つ「時代衣裳おかむら」が担当。加えて、和小物や飲食、ライブイベントなど、さまざまなブースやステージが用意されている。 「宇都宮には、なにか新しいことに挑戦しようと動き出すと、その気持ちを受け取って協力してくれる人、一緒に楽しんでくれる人が多いと感じています。東京ほど街が大きくないぶん、人と人との距離感が近く、つながりやすいところが魅力。今回のイベントでも、さまざまな方が協力してくれました」 今後は、「宮魁道中」を毎年恒例のイベントに育て上げ、宇都宮を“着物のまち”にしていきたいと考えている。 「何よりも自分たちが楽しむこと。それが結果的に、宇都宮の街を元気にすることにつながっていけば、これほどうれしいことはないですね」 本物の職人技や日本の文化も、大切に伝えていきたい きものHAUSのロゴにもなっている模様(上写真)は、実は伝統的な着物の柄で“破れ格子”と呼ばれ、荻原さんがもっとも好きな柄の一つ。規則的な格子を崩したこの柄には、「秩序を破る」といった意味がある。 「江戸時代であれば、この柄の着物をまとっているだけで打ち首になったと言われています。いわゆる、“傾奇者”が覚悟をもって身に着けた柄です。このように着物の柄には一つひとつ意味があり、それを身にまとうことで自分を律したり、心意気を表現したりする。そういった着物ならではの伝統的ないい部分も伝えていきたい」 実家の呉服屋では、京都で280年続く帯の老舗「誉田屋源兵衛」の展示会を毎年開催するなど、伝統的な職人技を受け継ぐ、上質な商品を中心に扱っている。ゆくゆくは荻原さんも、そういった一流の商品を紹介する店を営むのが目標だ。 「実は中学生のころ、105歳まで帯をつくり続けられた名匠、山口安次郎さんが手がけた帯を目にしたとき、モヤモヤしていた気持ちが晴れ渡ったような気がしたんです。当時は、山口安次郎さんがどのような方かは分からなかったのですが、その素晴らしさに、とにかく感動したのを覚えています。今思えば、それが着物の世界に進んだ原点。現在は着物人口を増やすことに力を入れつつ、将来的には職人の本物の技や日本の文化を伝えることに、少しでも役立てたらうれしいです」

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